ジンは悩んでいた。モカを拾って一年。それでも彼女の心の奥に垣間見える不安を取り除くには、どうすれば良いのだろうか。ここの所寝ているモカはよく魘されている。小さな声で捨てないでと呟きながら眉間にシワを寄せ涙を溢しているモカの背中を、ジンはただ黙って擦ることしか出来ない。小さい頃からのモカの心の傷は、思った以上にとても深い。

「最近眠れてねーのかァ?」
「えっ、そんなこと、ないよ」

 トーストを頬張りながら、モカは隈の出来た顔でそう返事をした。嘘に決まっている。夜中ふと目を覚ましても隣にモカは居らず、洗面台から聞こえる嗚咽を、ジンは何度も聞いている。それでもその事をモカに訪ねたとして、モカが正直に話してくれるとは到底思えなかった。

「ジンが愛してくれるとして、それが永遠なんてモカには信じられないだろうな、いつか捨てられるかもしれない、っていう不安を抱いても可笑しくはないだろ」

 捨てる訳が無い。そうは言っても直接、永遠に愛してる、好きだ等と言うなんて、自分に出来るものか。そんな事が出来ていたら今頃こんな性格にはなっていない。身体が傷だらけになるまで愛しても、モカにはまだ足りないというのか。どうやって彼女に示せば良いだろう。この永遠の愛を。

「世間には結婚っていう制度もあるけど、戸籍上兄だろ、お前」
「幾らでも偽装できるが、何重も作るのは面倒だな……、結婚、そうか、そうだな……」

 彼女からの愛の証。左耳のリングピアスに手が当たる。そうしてジンはふと思い出す。モカが言っていた自分も印を付けたいという言葉。ピアスは無くさない限りいつも目に見える。愛を物にすれば、モカの心も落ち着くのかもしれない。

「傷ってのは幾らでも治る、目に見えるが永遠じゃあ無い、頬のアザだっていつ消えるかもわからねェ、なら、……消えないモノで示せばいいだろう?」





 ジンは自分の事を心配している。それでもこの気持ちを打ち明けることは出来ない。毎晩夢に出るもう一人の自分が呟く言葉はただひとつ。

「どうせ、捨てられるんだ」

 そんな事あるわけがない。けれども、もしそうなってしまえば?ジンに捨てられてしまえばモカにはもう居場所が無くなってしまう。住む場所も心の拠り所も、全て無くなるのだ。彼の居ない世界なんて、もう生きる意味が無い。彼の愛がもし他の女に向けられてしまえば?彼が自分に興味が無くなってしまえば?そんな考えが次々と浮かんできて、頭が痛くなってくる。隣で寝ている彼にバレないようにこっそり抜け出して、洗面台で小さく泣いた。

「僕はもしかして、ずっと一人ぼっちなのかな……」

 ジンからの傷だって、治ってしまえばもう無かった事になってしまうかもしれない。うっすら頬に残っている痣も、消えてしまうかもしれない。彼からの愛がもっと欲しい。愛という概念がまるで鎖のように、目に見えるモノであればどれ程良いだろうか。そんな考えを抱いてしまう自分は、とても我が儘だ。

「愛って、何?」

 愛されて育った人であれば、愛の意味が分かるのだろうか。モカには愛が分からない。人からの思いやりや、優しさも分からない。ずっと孤独だったモカに唯一手を伸ばしてくれたのは、ジンただ一人だけ。そんな彼を、モカはもう手放したくはない。

「じん……」

 なんだか授業にも出る気になれなくて、モカは屋上で一人自分の身体を抱き締めていた。時刻は昼過ぎ。傍らに置いてある空の弁当箱もそのままに、モカはぼんやりとフェンス越しの空を眺める。ここから飛んで、彼の元へと行けるだろうか。お守りのように握っているのはパスケースに入れられた例の名刺。チャイムはとっくに鳴り終わっていて、始めて授業をサボった事も、モカは特に気にならなかった。

「!」

 突然響いたバイブ音に、モカの身体が跳ねる。端末を取り出せばメッセージの送信者は愛しい彼で、その内容を見てモカは目を見開いた。

「今から迎えにいく……!?」

 幸いな事に鞄は今手元に有る。モカは急いで弁当箱を巾着に入れ、慌てて階段を駆け下りた。落ちないように慎重に、それでも早く。まるで自分の気持ちを見透かしているみたいなメッセージだと、モカは思う。

「会いたいって、思ってたから……」

 下駄箱の前で息を整えて、靴を履き替え外に出る。皆はまだ授業中なのに自分だけ今から帰るなんて、まるで不良みたいだ。

「早かったなァ?」
「ジン!」

 見慣れた青い車の前には、愛しい愛しい彼の姿。風に靡く若紫色の髪がやけに眩しく見える。思わず駆け寄ればそのまま抱き締められて、モカは嬉しさで涙が溢れた。

「何泣いてんだ」
「あれ、なんだでだろ……、ジンに会えたのが、うれしくて」
「プレゼントだ、受け取れよ」

 ジンが取り出したのは手の平に収まる白い箱。大きさは前にモカが贈ったピアスの箱と似ている。その中には小さな石の付いた、二つのリング。片方は深い藍色で、まるで彼の眼の色みたいだと、モカは思う。もう片方は濃い紫色で、ジンはその指輪をゆっくりと手に取った。

「俺はテメーの眼が好きなんだ」
「えっ」
「その何にも映っていない様なじっとりとした紫色が、誰でもない俺の手で色が変わる様が、俺は楽しくてたまらねぇ、この指輪についてる石は、テメーだ」

 太陽でキラキラと輝く石がとても綺麗で、これはもしかしたら、彼の前での自分の瞳なのかもしれない。指輪がモカの手の平に乗せられて、ジンが口を開く。

「俺の指に嵌めろ」
「これって……!」
「ちゃんと薬指に嵌めろよ?じゃねーと、これ、一度着けると取れねーからなァ?」

 ジンの形のいい手が前に出される。こんなのまるで、結婚式みたいだ。片手でジンの冷たい手に触れて、ゆっくりと指輪をはめていく。相変わらず石は輝きを保ったままだ。根本まできちんと付け終わった後、その褐色の手がモカの左手を掴んだ。

「これは俺の色だ、他の誰にも、テメーのこの指は渡さねェ、この意味が分かるか?」

 冷たいリングが、ジンと比べて随分と幼い自身の指にゆっくりとはめられていく。これは永遠に取れない。愛の証。自分が欲しかったのは、もしかしたらこれなのかもしれない。愛しい彼の顔が、じわじわと滲んでいく。

「今だって、テメーの目は随分とキラキラしてんなァ?」
「これ、好き?」
「あァ、悪くねェ」

 浅葱色が揺れる。彼の腕の中が、とても暖かい。校門前の人通りの多い街中なんて事も、全然気にならない。彼となら何処ででも愛し合う事が出来る。太陽の下二つの石が愛を囁き合うように、眩しく煌めいていた。



fin

20190823