暇だろ、付いてこい。拓斗のその一言で、俺はまた例の大学にやってきた。「横暴だなあ」とは言ってやったけど、内心巡ってきたチャンスに胸が高鳴った。ひとりで行くには少し敷居が高すぎる場所、こいつと一緒ならそれが理由。何だかんだ、二つ返事で了承した。
 そんなわけで足を踏み入れた広い敷地。とりあえず、相変わらずあいつは勝手だ。前と同じ、連れてきたくせに俺を置いてどこかに行ってしまう。広い構内に置き去りにされて、嘆息。あいつがそういう奴だってことは、知っているけれど。
 はぐれてから暫く、携帯を開いても連絡はない。まあ、どうせやりたいこと終わったら連絡してくるだろうし、それまで俺だってやりたいことをしていよう。だけれど見学したい講義もないし、そもそも俺はそこまでここに興味がない。本を読みたい気分でもない。――なんて。やりたいことなんて、元からひとつに決まっている。
 どれくらい前だっただろうか。記憶がふわふわしていて、上手く思い出せないけれど。確か、一週間かもう少し前。出会ってしまったあの人のことが、いつもいつでも、どこか片隅で燻っていて。鮮明に思い出すことも出来ないのに、忘れられないジレンマ。
 あの人のことを、俺は言葉で説明できない。日本語でも、フランス語でだって無理。それどころか、頭の中であの人を思い浮かべることすら出来ない。ただ、覚えているのはあの衝動。一目見た瞬間、頭の中からぐらぐらして、めまいのような。――ううん、違う。なんと言えばいいのだろう、どんな言葉でも足りないし、しっくりこない。
 ただ、俺が今まで見てきたものだとか、感動したものだとか。そのどれもを綺麗だと、美しいと思った時の。あの揺さぶられるような感覚が、もう何も思い出せない。何もかも、何を見ても陳腐に思えてしまう。あれと、比べてしまえば。すべて上書きされてしまった。たった一人、見ただけで。それほどまでに、俺にとって想像し得ない世界で、存在。
 あれ以来、俺は筆を持てなくなった。被写体を眺めようとしても、邪魔されるから。今まで描きたいと思っていた世界が、美しいと思っていた世界が、ひっくり返ってしまったから。いろいろぐちゃぐちゃになってわけがわからなくなって、そうした時には必ず彼の顔が浮かんできて。強烈すぎて思い出せもしないのに。ただひとつ、なにもかも吸い込むように揺れる翡翠だけははっきりと覚えていて、その色を作ることもとうに諦めた。けれど、それ以外の色なんてもはや。俺は、どうなってしまったんだろう。

 ふと我に帰ったら、もう見覚えのない場所にいた。ここはどこだろう、と見回してもわかるわけがない。だけれど、足が止まらないのは。理由なんて考えるまでもない。捜していた。
『___Qu'est-ce que tu as regard??』
 彼の、言葉が響く。直接染み渡る言語、言葉。忘れられない声はどこか遠かったけれど、それでも。
「Il est-ce que vous êtes que j'ai vu, ……n'est-ce pas?(俺が見たのは、あなたでしょう?)」
 それ以外の、なにでもない。言葉は、口をついていた。何。それに答えられる言葉を俺は知らなかった。
 柳。名乗る声が反芻。その後に聞いた響きは、覚えているけれど声に出来なかった。どう喉を震わせても出ない音、知らない言葉。もどかしい。あの時の胸の痕はとっくに消えた。消えていくごとにあの人が遠くなる気がしたのが、ひどく怖かったのだけれど。すっかり消えて尚疼くそこ。ここまで、いっぱいになってしまっている。――今の方が、怖い。
「わっ……」
「うおっ、」
 意識は既に現実にはなかった。だから、視界が反転するまで気がつけなかった。肩に衝撃、予期していなかったからそのままよろめいて重心が外れる。地面に尻餅をついた。――人にぶつかった。意識するまもなく脳が認識して、飛び出した言葉。
「っ、Pardon,(すみません、)」
 あ、間違えた。思った瞬間にはもう声になっていた。さっきまでそっちで考えていたから、つい。
 見上げた先には案の定人がいて、真っ先に飛び込んできた長い金髪。背が高い、多分俺より少し。この大学の人だろうか。「すみません」を言い直そうとしたら、その人の目線がぐっと下がって。近寄ってくる。腰を曲げて、彼は口を開いた。結んだ髪が肩から落ちる。
「Pardon.……Ça va?(悪ぃ、大丈夫か?)」
 あれ。変えようとした思考回路がまた戻りかけて。気が付いた。発音、少しだけ。短い言葉ではあったけれど、ほんのすこしのとっかかり。違う。この人は、俺に合わせてくれただけだ。めまぐるしく頭の中で混ざる、言葉が二つ。
「Oui, merci.……あ、あの」
 日本語で呼びかけたら、彼は目を丸くした。橙色。
「あれ、なんだ。日本語喋れんの?」
「はい。えっと、すみませんでした。ぼーっとしてて……」
「気ーつけろよ?」
 ほら。立ち上がった俺に、落とした携帯を拾って渡してくれて。「ありがとうございます」。今度は、ちゃんと。彼も姿勢を直して、やっぱり目線は少しだけ上にあった。
 目立つ金色の髪は、おそらく天然ではないくすみ方。軽い言葉遣いも、見た目に背かない。髪の色だけだったら少し近寄りがたいけれど。声は、親しみやすい色をしていた。
いい人そうだな。思った、途端。ふいに背中に、ぞくりと何かが伝った。反射についていかない感情と思考。今、なにが。
「制服? 高校生? 何しに来たんだ?」
「連れと、一緒だったんですけど。ここそいつの志望校候補で。だから、見学に」
「お前の志望校、ってわけじゃねーの?」
「俺は、あんまり。ここ入れるほど頭良くないですし」
 上手く笑えている気がしないのは、どうしてだろうか。わからないけれど、空気が重い。軽い声、俺に対する嫌悪を感じるわけでもないのに、何か。一番しっくりくる言葉は違和感だけれど、その言葉の方にも、小さな違和感。
「なんか入りたい学部とか決まってんの?」
「一応、美術系に進もうとは思ってるんですけど……」
「へえ、確かうちそっち系の学部も抱え込んでんぞ? 多分、偏差値もそんな高くねーし」
 そうなんですか。相槌を打つ声が震えて来た。必死で抑え込む、ごくんと喉を鳴らした。
 自分の感情に、言葉が付かないのはいつものこと。だけれど理由くらいは直感的にわかった。いつだってそう、あの人を、見た時だって。あのぐらぐらして吸い込まれそうになるあの感じは、とても言葉では表せない。だけど、理由はわかる。あの人が、あまりに。この先も言葉には出来ないのだけど。綺麗とか美しいとか、そんな言葉で代用したくない。だから、言わない。
 なのに、今この感情に、背中に覚えた寒気に、俺は理由を付けられない。わからない。見た目通り口調通りの人だろう、普通に親切に話しかけてくれているじゃないか。名前も付かない、理由もわからない感情がただ不安だった。左肩を、右手でぐっと握って。
「ん? ……どうかした? 具合でもわりぃの?」
 顔色よくねーぞ。聞こえてきた声が予想より近くて、肩がびくりと跳ねた。さっきまでの位置に彼の顔はもうなくて、身を屈めて俺の顔を覗き込んで。橙色が、まっすぐこっちを見ていた。上がりそうになった呼吸を、飲み込んで。
「あ、いえ。大丈夫です。……すみません」
「おー? 平気なら、いいけど」
 なにもかも追いつかない、わからないわかりもしない。だけど確かに膨らんで来る感情、何に近いかはようやくわかった気がした。似つかない、今の状況にも彼がかけてくる言葉にも。相応しくない言葉、俺が抱くはずのない感情。それでも。
 離れていった橙色に、少し安堵した自分に気が付く。
「で、これから何すんの? なんか見たいもんとかあるなら、俺今暇だし案内するけど」
「見たいものとかは、特に。……あ、でも」
 言ってしまっていいのだろうか。一瞬逡巡。でも、「なに?」と聞かれてしまって、はぐらかすわけにもいかなくて。一呼吸。
「――人を、捜してて」
 人? 当然、彼は聞き返してくる。まだ誤魔化せる。拓斗を、捜していると言えばいいんだから。だけど、そんなこと今更だったし。誤魔化す理由だって、ないはずだし。
「この前ここの図書館で会ったんですけど。……柳さん、って人を」
「――……柳?」
 あの人の、名前を出した途端。彼が、その言葉を舌に乗せる。ほんの少し、ちょっとだけ低くなった声。同時に、橙の瞳が色を増して。瞬間、震えるほど鳥肌が立った。
 なに、これ。腰の辺りから這い上がってきて、首にまで波及。押さえ付けた腕、指先まで痺れた。堪えきれなかった呼気が口から漏れる。なんだ、なんなんだ。この人はあの人を知っている? 直感的に感じた、それだけじゃない。何が、なにかがおかしい。要素なんてどこにもないのに、こんなになる理由。声も話し方も表情も、なにも、変なところなんて。
「柳のこと、知ってんのか?」
 答えようと、顔を上げて口を開いた。けれど、答えられなかった。声が出ない。真っ直ぐこっちを見てくる、橙色の威圧感。なに、おかしい。この人、そうだ。――目が。目を見ると、呼吸が止まる。どうして? 考える暇もなかった。ぞくり、もう一度。見ていられない橙色、必死で目を逸らした。俺は、何に答えればいいんだっけ。なんて、話せばいいんだっけ。思い出せない、ぐちゃぐちゃした頭の中。
「……おい? ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫、です……っ」
 ぐるぐるぐる、何もかもがごちゃ混ぜになる。なんだこの感覚は。ああそうだわかってる、何だかなんてもう疑うまでもない。
 ――この人が、怖い。
「つっても、真っ青だぞお前……」
「ほんとに、平気です。……すみません」
 言えない、言えるわけがない。なんで、どうして。この人はこんなに普通で、親切にしてくれて、それなのに。なんで、俺はこの人がこんなに怖いんだろう。ううん、この人が怖いんじゃなくてなにか、怖いなにかがこの人にある。俺は、それに近寄れない。だめだ、これ以上近寄ったら駄目だ。耐えきれない。この人のなにかに。俺は。
「俺、柳の友達なんだぜ。あいつに、なんか用?」
「用ってほどじゃ、ないんですけど。……話がしたくて」
 嘘。嘘でもないけど、俺があの人と話なんて出来るわけがない。だけど、ただ会いたくて。もう一度。
 ふうん。彼は呟いた。一挙一動に鳥肌が立つ。呼吸が上がる。感情も反応も制御できなくて、ただ必死で押さえ付けようと左腕を握る右手に力を入れるけど。食い込む痛みでどうにかなるほどでもなかった。気さえ散らせない。それほどまでに、侵食する恐怖。いったい、なにが。
「そっか、柳捜してんのかあ。じゃ、釘打っとこ」
「え、……?」
 彼は笑う。その表情を俺は直視しなかった、出来なかった。したら、押さえきれなくなる。目線だけ逸らすなんて、そんな器用なことはもう出来なかった。きっと、顔ごと俯いていたと思う。
「俺さ、美澤ってんだよね。真日、美澤。お前は?」
「守、です。……佐久間守」
「うん、じゃあ守君。――柳、綺麗だっただろ?」
 軽い軽い声、それなのにこの雰囲気。俺とこの人の周り全部飲み込んで、俺は彼の笑顔を見られない。取り囲まれた空気、どんどんと酸素が足りなくなっていく。それとも、逆? 呼吸がしすぎて出来ない、あの感じ。とにかく息がおかしい。どんどん追い詰められて、それでも何に? わからないもどかしさ、ただ怖い。怖くてこわくて仕方ない。
 彼の、美澤さんの指が喉に触れる。それだけで全身がそばだつ。不規則な呼吸、喉が痙攣しているのは彼の指に伝わっているだろうか。顎に親指と人差し指、抵抗なんて出来やしなかった。強制的に合わせられる視線、橙色、膝が震える。やめて、もう、その色は見たくないんだ。もう、崩れた呼吸すら出来ない。空気と共に、息が止まる。彼の顔が動く。長身を腰から折って、頬の感触を空気越しに感じる近さ。やめて、やめてもうそれ以上。なにも。息が、詰まる。
「――……あいつさ、俺のだからね」
 固まった空気を弾いて、耳元で囁かれた言葉。崩落した。もう、耐えられない。
 固まった俺の肩をぽんと叩いて、ちらりと見えた横顔。熟し切ったオレンジ。
「っ、は、……う、」
 溜まっていたものが爆発する。体の奥の方から、全身に波のように伝わって。喉元にせりあがってくる感覚に、思わず手で口を塞いだ。隠しようもなくがたがた体が震えた。胃の中身がごちゃまぜになって、ぐるぐるぐるぐる。咥内に嫌な酸味が広がってきて、それでも必死で飲み下した。だめだ、ここでは。息が上手くできない、体に、力が入らない。
「ちょっ、ほんとにやばい? 大丈夫?」
 焦った声が聞こえるけれど、もうそれさえ駄目だった。怖い。彼の、全てが怖い。なにもかも、顔も声も目も動作も。怖くてこわくて仕方がない。ぴったりはまってしまった恐怖のツボ、もう何も考えられなかった。ただ、今襲い来る感覚に耐えるので必死。大丈夫です。なんとかひねり出したその声が、全然大丈夫でないことくらい、わかっているけれど。
 ようやく、本能的に理解した。俺は、この人が駄目だ。どうして、それもやっとわかった。このひとは、本当に本当に、本気で心の底から、あの人を。――柳さんを、愛している。それは、とてもとても重い感情。どろどろしていて重くて、それでも真っ直ぐで純粋で。愛している、それ以外の感情がどこにもなくて、ただただ愛している、ゆえの真っ直ぐすぎる独占欲。俺の、一番苦手なものをこの人は。美澤さんは、内包している。だから。
 見た目も声も表情も、その中身に似ても似つかないというのに。俺は美澤さんの目が見れなかった。その理由も今ならわかる。だって、瞳だから。瞳の表情は制御できない。知ってるんだ、そのことは。なんだってそうだ、目を見れば、喜びも悲しみも苦しみも、――狂気だって。
 崩れそうになる膝に、必死で力を入れた。持ちこたえる。なんとか、早く離れたい。この人から、この橙から。じゃないと、俺は。どうにかなってしまう。あの人と、会った時とは違う意味で。この大学には、どうしてこんな。
「……すみません。もう、平気です」
「なら、いいけど。トイレだったら曲がってすぐそこ」
「ありがとう、ございます」
 波はようやく収まった。けれど、まだ瞳は見れないし、きっと一生。俺は多分、何度会ってもこの人が怖いのだろう。そんな確信。ごめんなさいと心の中で謝った。あなたは、なにも悪くないのに。勝手に、こんな。
 立ち去ろうとしたら呼び止められた。まだ、頭はぐらぐら。声に少しだけ肩が震えた。振り返る。視線は胸元、目を合わせなくても顔を見ているように思わせられる場所。
「柳だったら、今は三階の大教室の講義出てっから。あと十分くらいで終わるし、そこで待ってりゃ会えるんじゃねーのかな」
「あ、……ありがとうございます」
「ん、柳によろしく。Au revoir!」
 ひらひらと手を振って、彼は反対方向に歩いていった。後ろ姿は平気、何も伝わってこないから。ようやく膝も肩も震えが収まって、大きく息を吸った。Au revoir. いい人ではあったけれど、俺としてはAdieuまで言ってしまいたい、それくらい。裏がある人は苦手だ。わけもわからず、こんな目に遭うから。

 左ポケットの携帯が鳴った。拓斗からだろうか、きっとそうだ。着信、だけれど出ないで切ってやった。それから、電源ごと落とす。あいつも、一人にさせられる気分でも味わえばいい。なんてそれは言い訳。ただ、邪魔されたくないだけ。
 用途を失ったそいつをまたポケットに戻して、辿り着いた階段を上る。さっきまで橙に侵食されていた頭の中に、戻ってきた翡翠。どうしてもどうしても、離れない色。あの人は、あの色だから愛しているのだろうか。それとも、あの色ごと愛しているのだろうか。勝手な推測、でもきっと後者なのだろう。だって、あれほどまでの独占欲。真っ直ぐで濁りのない、どろどろとした。
 美澤さん。名乗られた名前を、呟く。あなたから奪おうだなんて、そんな傲慢なことは思いません。から。――溺れることくらい、許してくれませんか。なんて。
 俺は、何に毒されてしまったんだろう。こんなの、まるで。麻薬のようだなんて。危ない、危険だと頭ではわかっているけれど。引き込まれてしまうのは、確かな依存性。理解と理性が追いつかない、ここはもう本能の領域。
 階段は残り一段、ねえ、そこにあなたはいるのでしょうか。





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Rider Mind(ソヨゴさん)さんより、真日美澤さんと、市羽目柳さんをお借りして!
ソヨさんが書いてくださった柳さん×守と連続してます。

なんかもう死ぬほどすみません\(^O^)/
ドロッピング土下座習得して出直してきます。
柳さん美澤さんそしてマイソウルシスター。
書いてて楽しかったので反省も後悔もしていませんが、すみませんでした(^p^)
描写むずいよ!!
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