コーヒー・ブレイク


 ドアを開けて最初に目についたのは、カーテンに覆われた大きな窓だった。先まで屋外にいた雪谷にはその向こうの空の色は見えていたけれど、それはあまりにこの部屋の空気と隔絶されたものであった。カーテンと窓ガラスの先にあるのは、曇天の灰色と乾いた風で、温度のない世界。北風を思い切り吸って渇いた喉に、温かい部屋の湿度が染み込んでいく。融かされる感覚に肩を掴めば、椅子に座って本を読んでいた彼は、ようやくページをめくる手を止めて雪谷の方を見遣った。
「蔵未さん、」
「寒かった?」
「風が冷たいです。乾燥してますし」
「喉痛めんなよ」
 小さなテーブルに置かれたカップとソーサーはそれぞれ二つずつ。栞を挟んで机の端にペーバーバックを押し付けた冷たく細い蔵未の指先が、そのままカップの取っ手を搦め捕る。底に一口残ったコーヒーを飲み下す喉仏の動きに目をやってから、雪谷は蔵未の向かいの椅子に腰を下ろした。自分の前に置かれた、真っ白な空のカップの底に視線を落として溜息を漏らす。フィラメントの抱く白熱電球の橙光が、カップの底に集まってそこに溜まった空気だけを歪めていた。
 こつり、と陶器の触れ合う音がしたのは、蔵未が中味を飲み干したコーヒーカップをソーサーの上に戻したそれだ。蔵未の右手が、今度はテーブルの真ん中からパーコレータを取り上げる。自分の目の前のカップに注がれる液体が波打つ数瞬が、雪谷には白昼夢のように遠く感じられた。現実を手に掴んだのはその口先がカップの縁に一滴を残して離れていった時ようやくで、慌てたように礼を述べた雪谷に微笑んでみせてから、蔵未を自分のカップにコーヒーを注いだ。それから、パーコレータを机上に置いたその流れで、白いカップに口を付ける。
 どうしようもない心臓の渇きに襲われて、雪谷はシュガースティックに伸ばしかけた腕を止めた。ぱりと貼り付いたものが神経を巻き込んで剥がれていく微かな痛みは、届かないものへの羨望だ。それを誰よりわかっているのが自分であった故に、雪谷は右手でカップを取った。パーコレータの注いだそのままを渇いた喉奥に流し込む。舌を覆った苦みはそのまま自戒だ。自分と蔵未を隔てるのは、垢抜けないウィンドブレーカーなどという表面的なものではない。ひとつ吐息を温かい空気に投げ出して、雪谷は自らの名に似た結晶をカップに降らせる。濃いブラウンに溶ける白が、そのまま自分と彼との関係であるように思えて、ほんのすこしの悔しさと共にその液体を嚥下した。衝動に任せていれた砂糖の甘ったるさが、自分をまるごと揶揄しているような心持ちがした。
「随分寒くなってきたな、最近」
「そう、ですね」
「やっぱり冬は辛いもんか?」
「え?」
「テニス」
「ああ……。手がかじかんで、大変です」
 冷たくなって固まった手を温めるようにカップを包み込む雪谷の姿を見て、蔵未は小さく笑う。目の前の少年のイメージに、テニスという言葉はどうにも似合わない。物静かで大人しい(少なくとも蔵未の見てきた限りでは)彼が、ラケットを持ってコートを走り回る様は、絵になるようでいてやはり違和感を覚えてしまう。それなのに、それは雪谷の根幹を、アイデンティティとまで言ってもよいようなものを、形作っているのだから不思議な話だ。
「そろそろ本格的に冬だしな。寒いのは性に合わねぇわ」
「俺もです。夏が、好きなので」
 そう言ってはにかむ雪谷の表情は未だ少年のそれだ。自分の知っているいろいろなものが、この表情からは見出せない。けれども彼は自分と同じ種族の人間だと、蔵未はカップの向こうにその顔を見遣った。目の前にいるのは確かに子供であって、しかも背伸びの仕方すら知らないひどく不器用な少年だ。だけれどそれは自分となにが違う。背中を向けたカーテンの向こう側の景色は蔵未にはわからない。雪谷は、知っている。それは、いつの日にか忘れてきてしまった灰色であるように思えた。
「なあ、雪谷」
 蔵未は鷹揚に彼の苗字を口にした。雪谷の見た蔵未の口元には、薄い微笑のラインが引かれていた。ルージュほどには艶めかしくないその色は、この部屋の橙色に似ている気がした。時が止まるほどの静寂に、フィラメントの灼ける音が耳をくすぐる。
「お前を見てると、香炉峰が気になるよ」
「カーテン開けましょうか」
 返答は間髪入れずに発された。蔵未の投げかけたあからさまな挑発をはじき返して、雪谷はコーヒーを啜る。蔵未はカップから手を離した。あくまで表情を変えずに返したつもりらしい少年の顔を眺めて、含むように笑う。雪谷は眉を顰めた。
「なんですか、」
「いや、大したもんだと思って。白居易か?」
「俺は、枕草子からです」
「ああ、まあそっちのが有名だな」
 流石。蔵未の言葉に、雪谷は視線だけ伏せた。馬鹿にするなと口にはしないものの、思っているのはわかりやすすぎるほどにわかりやすい。雪谷の両手も、カップを下ろした。
「外、見ますか。雪は降ってないと思いますけど」
 立ち上がろうとした雪谷を、蔵未の手が制する。「いいや」と言われて、雪谷はまた腰を下ろして蔵未を伺った。問うた時は少しばかり気になっていた分厚い布の向こうは見ないことにして、蔵未はそちらを振り返らない。この空間には、気怠いほどの温かさと、白熱電球の橙だけで十分だ。知ろうと思えば知ることは容易だ。だけれど。
「雪なら、目の前にあるしな」
 そう言って指先で触れた頬には、まだほんの少し外気の冷たさが残っていた。拭い取るようになぞる細い指の感触に震えて、息を詰める姿に、蔵未は外を見ない理由を思う。――背伸びすら覚束ないこの少年しか、知らないものがあってもいいだろう、と。
 コーヒー色の青年は、香炉峰の白雪を掬い取った。


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Rider Mind(ソヨゴさん)さんより、蔵未孝一さんをお借りしました!
大人なくらみんが好きです。そして文系男子萌え。
元ネタはあれです。枕草子の「雪のいと高う降りたるを」です。
お粗末様でした。
11.11.30

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