君へ
 青年は仮眠室のベッドに寝転がった。全身を満たしていたのは、底無しの沼のようにどろどろとした疲労であったけれど、どうしてか眠りたいとは思えなかった。固い敷布団の上で寝返りを打つ。眠るつもりはないながら、体の奥から手足の先から力を抜いて、瞼を閉じた。(真暗な部屋の中、それはひどく意味のないことであったけれど)。液体に成りそこなった固まりが、暗さの中に明確な形も色も持たないままで静かに頭をもたげていた。青年はゆるりと、底無し沼にその身を沈めた。
 青年の閉じた瞼の裏に、ひとりの人影が映った。それがまさに眠りたくない理由であった。会いたくないと心のうちに叫びをあげて、そばがらの枕に顔をうずめた。それは嘘であって本音であった。彼女に会いたいと青年は強く強く希う。(その空虚さを青年は痛いほどによく知っていたのだ)。叶ったところで、それはすでに幻に相違ない。幻影の幸せを得ることを、青年はなにより恐れていたに違いない。だからこそ、眠ることを恐れたのだ。(夢はひどく無情であるから)失うことのわかりきった幸せなど、端からない方がよいのだと。
 再び体を転がして横向きの姿勢を取った青年の耳に、ドアのひらく音と続いて軍靴が床と鳴らす音が聞こえた。青年は瞼を開かなかった。億劫であったこともひとつだが、(それはひどく聞き慣れたリズムであったので)開く必要を感じなかったからだ。いずれにせよ、青年はその姿を確かめようとはしなかったし、(暗幕の向こう側で、自分と闇とは溶け合ってしまったような錯覚を覚えていたそのために)彼のここへ来た目的を知りながら、自分の存在をその彼に伝える努力も放棄した。
 軍靴の音が、最短距離で近づいてくるのを青年は感じとった。(いる人間は自分だけとはいえ)いくつもある仮眠室のベッドの中で、彼の爪先がまっすぐに青年のベッドを向いているさまが、足音から容易に想像出来た。控えめに床を打つ彼の足音は、青年の背中の向こうで止まった。空間を挟んで、青年は彼のそこに立っている体温(あるいは気配と呼ばれるものであろうか)を感じ取った。彼の口を開く瞬間さえ予想して、またこれから発する言葉もわかっていたのだ。
「蔵未」
 彼は青年の予想通りに名前を呼んだ。(その名前は紛うことなき青年のものであったけれど)青年は返事を返さなかった。彼に背中を向けた形で固いベッドに横向きに寝転がり、そばがらの枕に頭を乗せたまま、身動きひとつしてみせなかった。
 俺を起こしにきたなら起きてやる。青年は瞼も唇も閉じたままに呟いた。なにか用事(例えばそう、准将がのっぴきならない理由で俺を呼んでいるとか)があるというのなら、――お前がここに来た理由が、俺を慮るものでないのなら。そうであったら目を覚まして起き上がるのだと、青年は彼の次の言葉を待った。静寂が背中をなぞっていった。
「蔵未、寝てるか?」
 ああ、寝てるよ。彼に対して答えた言葉は、青年の体の中だけで反響(むしろそれは弱々しすぎて、跳ね返るというよりは霧散であったのかもしれないけれど)した。自分で撒き散らした言葉の霧が青年の喉をくすぐった。暗闇の黒さと化学反応を起こして、青年の呼吸を阻害するのだ。青年は知っていた。瞼を開けさえすれば、そこはもはや暗闇ではないということを。(彼の髪の色は、それはそれは明るく輝く星の銀色であったのだ。)
「珍しいな、お前が起きねぇなんて」
 彼は苦笑した。青年は、答えない。
「最近忙しかったもんな。お前だって、そりゃ疲れるよな」
 青年は答えなかったけれど、彼は話を続けた。彼の意図は青年にはわからなかった。銀色の音の糸が綿花のように絡まって、青年の左耳を柔くつつく。それは、青年を沼から引き上げるためには些か柔らかすぎた。
「なあ、蔵未。お前今、なんか夢でも見てんのかな」
 彼は青年に語りかけた。彼が見を屈めて、ベッドにおいた腕に自重をかける様子が、瞼の裏のスクリーンに(もっとも彼がいたのは青年の背後であったのだけど)鮮明に投影された。それは光ではなく闇に映し出された像であった。虚像ですら光の産物であるというのだから、うつろですらないそれは一体なんと呼ぶべきものなのだろうか。浮かぶ意識のなかにぼんやりとそんなことを考えた青年の耳に、彼が空気を吸う風音が届いた。
「夢の中なら、お前は幸せになれんのかな」
 彼の声はひどく悲痛であった。青年はそれを(ひどくぼんやりと)認識した。
(幸せだなんて馬鹿げた言葉だ。夢の中で幸せであったところで、結局俺達が生きているのは現実なんだから。俺は、あいつに現実に置き去りにされちまったんだから)
「夢の中でくらい、幸せになりてぇと思うか、蔵未」
(幸せなんてもういらない。だってそうだろう沢霧、そんなものもうここには現実には、俺が生きてる世界にはもうどこにだって存在しないんだ。なあ沢霧、夢が覚めないというのなら夢の中で幸せになることは構わないんだ。ああでもそれはやっぱりあくまで夢なんだろうか。そこで幸せになったところでマリアに触れたところで、それはやっぱり本物ではないのだろうか。だとしたらそれは幸せなんかじゃないよ、俺の幸せなんてもうどこにもないんだ知ってるだろう)
 青年の右手がシーツを掴んだのは無意識であった。彼がそれに気が付いたか否かは定かではなく(彼はその瞬間、悲しいような困ったような微妙な表情をしたのだが、それが青年の行動を見てのものなのかどうかはわからないのだ)、だけれど彼は青年の名前を呼んだ。何度も呼んだ。蔵未、蔵未、なあ蔵未。
 囁くようなその声が、青年の閉じられた暗い視界の中で彼の瞳の色となって丸く浮かび上がった。雨粒が地面を濡らすように次々と淀みなく、徐々にスピードを増して隣同士で円が結合していって、あっという間に青年の視界は抹茶色に染め上げられてしまった。(それは十分な明るさであったのだけれど)、青年は目を開かなかった。開かない理由も変わってしまっていたのだ。
「ごめんな」
 彼は悲しげに呟いた。彼の顔を青年は見ることが出来なかったけれど、声色から想像することは決して難しくはなかったのだ。
「ごめん」
 彼の表情を抹茶色のその上に浮かべて、彼はシーツを握った右手に力を込めた。彼の声がほんの少し震えるのが聞こえた。それに付随して、変わったであろう顔のパーツのひとつふたつまでが描き出されてしまう。(それは一体どうしてなのであろうか)青年にはわからなかったけれど、ただ苦しかった。
「こんな隣に居んのにさ。俺じゃ、お前を幸せに出来ねぇ。する方法も見付けられねぇ」
 それは彼の独り言だったのであろうか。判断を付けるのはひどく難しいことであった。
(沢霧、違うよそれは違うんだ。お前のせいじゃないお前が見付けられないわけじゃない。だってそんなものはもうどこにもないんだ、お前のせいじゃない誰のせいでもない。もう仕方ないことなんだわかってるだろう、なあ沢霧)
 なのにどうしてお前がそんな顔をするんだ。青年は、瞼の裏の彼に語りかけた。
「俺はお前が願うことを願えねぇ、なあ、どっかにお前が幸せになる方法がさ、あるんじゃねぇかって思っちまうんだ。俺が、そう信じてたいだけなんだよ。わかってる。ごめん、ごめんな蔵未」
 それは悲痛な彼の独白であった。青年はもうどうやってそれを聞いていればいいのかがわからなくなった。いよいよ目を覚ますことが出来なくなった。きつく閉じた瞼に押しつぶされて、抹茶色も彼の姿も消えてしまった、そうしたらあっという間に戻ってきた。(それはいつもいつも青年の心のちょうど真ん中にあった)大きな穴を思い出した。そこに彼女がいると錯覚していたのだ。錯覚に過ぎなかった。(もう、マリアはどこにもいないのだから)。
 青年は彼の言葉を、言葉として理解することを諦めた。ただ、静寂と暗闇に流れる音楽としてそれを思考の暗幕の裏に押し込めた。バックミュージックが、悲痛に流れる。青年を支配していた感情は、どうしようもない、もはやこの世界では埋めることの出来ない虚無感であった。それ以外の感情(それをきっと人は罪悪感と称するのだろう)も、幕の裏に閉じこめた。暗転したまま、照明器具は壊れてしまった。
「蔵未」
 一言、幕をくくって鋭利に聞こえた。銀の生糸が、青年の感情を引きずり出す。
「どうして、お前みてぇな奴が幸せになれない世界なんだろうな」
 (それはどこかで聞いたことのあるような言葉な気はしたのだが)、青年の身は、銀の綿にすっぽりと埋められてしまった。ほのかに香った抹茶の匂いが、それを彼だと示していた。沼に溺れる青年が、それを引きちぎる未来を見るのは簡単であるように思えてしまったのだ。
(沢霧、なあ沢霧。どうしてお前が謝るんだどうしてお前がそんな顔をするんだ。お前はなにも悪くないじゃないかお前は俺を救おうとして幸せにしようとして、出来ないのはお前が悪いんじゃないだってそうだろう。無理なんだ誰がどうしたって、お前が俺がどうしたって。わかっているだろう、なのにどうしてそんな顔をするんだ)
「助けてやれなくてごめん、幸せにしてやれなくてごめん、こんなくそったれな世界から、逃がしてやれなくてごめん」
(どうして俺はお前を苦しめているんだろうか、どうしてお前が俺のために苦しまなくちゃいけないんだろうか。俺はもうどうにもならないのに、どうしようもないのに、どうしてそんな俺のために、沢霧お前が)
「俺には出来ねぇんだ、ごめん。楽に、してあげられなくて」
(どうしてお前が謝るんだ、沢霧)
 彼は暫くの沈黙の後に、また空間に軍靴の音を響かせた。真空で音が聞こえるとしたら、きっとこんな風なのだろうと青年はその(ひどくひどく空虚で物悲しい)音を聞き送った。ドアの開く音、蝶番の掠れる金属音、閉まる音を捕まえたと同時に青年は仰向けに寝返りを打った。どうしようもなく苦しかった。両目の上に腕を乗せて、青年は大きく息をついた。(暗闇を満たす空気を吸い込んで)肺に溜まったものの冷たさと重さに潰されてしまうのではないかと、思わずそう考えた自分を自嘲した。
 力の抜けた腕が青年の顔からベッドへ落ちる。固いベッドは、腕を跳ね返した。そうして青年はようやく瞼を開いた。(青年はそれをとうに理解していたのだけれど)急な覚醒に驚いた瞳が散らした極彩色が消えた時、そこに広がっていたのはどうしようもないまでに黒く広い暗闇であった。
(幸せになれなくてごめんな、沢霧)
 青年は、暗闇に微笑んだ。




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ソヨゴさん誕生日おめでとう!!
Rider Mind(ソヨゴさん)さんより、蔵未孝一さんと沢霧章吾さんをお借りしました!
誕生日だというのにこの暗さ。
そして私はさわくらをはき違えている気しかしませんがさわくら愛してる!
くらみんも、沢霧さんが自分のために苦しんでることに罪悪感があるのかなあ、なんてそんな話でした。
11.07.24

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