「柳」
 呼び止めたら柳は振り向いた。やわらかい髪がするりと空気を抜けて、するり、ぱさり。湖底に沈めたエメラルド、ほんの少しだけ光の瞬いた一本一本が首筋をくすぐった。通った光が、液面で反射する色。セロファンのように色づけされた影が、白いうなじにぼんやりと落ちる。傷のひとつもない、白といってしまうよりは透明。向こう側が見えそうな、触ったら通り抜けてしまいそうな。だけれど俺はその感覚を知っている。
 肩の後ろからうなじを通って、指先を顎に。きめ細やかな肌、這わせる指先が止まるのは唯一、喉仏の起伏だけ。「ミサワ?」形のいい唇が俺を呼んだ。同時に、そのでっぱりが上下した。触れる感覚は常に左手に、猫を愛でるかのように。それが動く感覚を想起した、息を呑む。ぞくり、背中から首筋まで、内側に入り込んだ声が言葉が、広がって、走る。ぷつりぷつ、小さな気泡が弾けるように、肩の辺りまで。それは、寒気にも似た。「柳」。もう一度、舌で転がす名前。一音、短い音。
「なんだ」
 呆れたような声が届く。下がった眉につられて、細められた目。長い睫が瞼を覆う、髪と同じ色のそれがやっぱり光を弾いた。それがどうしてか泣きたくなるほどに細く弱く、睫と瞼の向こう側、それを手に取ることを幾度夢見たか。人を溺れさせる、呼吸を奪う深い緑色。ゼリーのように透き通った、体温をはぎ取った瞳。舐め取ったらきっと苦いのだろう、それでもきっと良薬とは反対。柳の瞳の味は、麻薬のそれ。その苦みごと嚥下して、身動きもとれなくなるほど溺れてみたいと思った。
 そうだというのに、どうしてだろうかどうにも遠い。柳の居る湖底は潜り込むには深すぎた。覗き込んでも底の見えない、深い深い。湖はいつだって世界とその他の境目だ。女神様だってそこに居て、ほら、あなたの落としたのはどちら? どちらだっていい、そんなことはどうだっていい。どうせあんたは嫌いだ、柳が嫌いだ。そうだ俺は知っている、柳を嫌いなあんたなんて、俺は。なあ柳、どこまで潜ればお前に会える。世界との境目はどこだ、世界を抜ける境界線はどこだ。いくらでも潜ってやるから、そう、遠くにいてほしいんだ、なあ。俺以外誰も手の届かないところに、深く深く遠く遠く。お前のところまで息を保てるのも、お前を掴めるのも、全部全部俺だけでいい。俺はいくらだって潜るから、そうしてお前と一緒にずっとそこにいる。湖面も太陽も、空も温度もなくたって。お前が居ればそれでいい、だから、潜っていてくれ追いつくから。お前を嫌う女神が、お前を世界から見捨てるくらいに、遠く深く。
「なあ、柳」
「だから、なんの用だ」
 麻薬に誘われる、吸い付くように手が伸びる。柳の声が瞳の色が、どこか空虚な空間に反響した。それの奏でる音階が、ゆらりと空気を揺らがせる。音の蜃気楼、響いた空間はきっと頭の中の、どこであろうか、この欲と直結したどこか。触れた手のひらで、全てまるごと、ひとつの欠片も残らず奪ってしまいたいと思った。そうしたら俺は、どうなる。全部全部一緒になって、閉じこめて、飲み込んで、そのまま。そうすれば誰も触れない、神だろうが悪魔だろうが、俺の柳には触れない。そうなったら、どれほど。
「――愛してるよ、柳」
 飲み込んでしまった苦みを喉の奥にはりつけて、ほんの少し開いた唇にキスをした。伝わってきたのは人肌の体温だった。なあ柳、世界の外側はどれくらい寒いんだろうか。だけど、寒いくらいがちょうどいい。だってほら、そうしておけば俺達以外に誰も来ないから。誰にも渡さない、触らせない、誰の方も向かせない。世界なんかみなくていい、お前のリアルに映る姿は、お前が触れるものは、お前の唇が紡ぐ名前の持ち主は。
 なあ、柳。お前を愛するのも、俺だけでいいんだよ。

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