10|悲しみの海に沈む幾日もの夜を

 頼もしい背中を見送って、深く息を吐く。
 てっきり誰にも受け入れてもらえない恋だと思っていた。自分でもどこにも出さないつもりの恋だった。
 けれどうっかり内側からこぼれ落ちて、隠しておきたかった心を表に出すしかなくなってしまった。それなのに応援さえしてもらえるなんて、いくらそんな未来の可能性を知っていても、目の前に見えるまで信じられなかった。

 春花はおれにとって、物心ついたころから大好きな姉だった。
 おれが転んで泣いていればすぐに駆けつけて「いたいのいたいの、とんでけ」と擦りむいた膝の手当てをしてくれた。あのころから春花にはサイドエフェクトがあったようで、彼女が触れるだけで痛みは言葉どおり飛んでいった。
 近所の犬に吠えられておびえていれば、自分も怖いだろうにおれの前に立って「ゆういちはわたしが守るからね」とかばってくれた。ちなみに犬はおれたちと遊んでほしかっただけらしい。
 夕飯におれの好きなものが出れば「ゆういち、これすきでしょう、たくさんたべて」と自分のぶんをわけてくれた。母がそれを見越して姉のお皿に少しだけ多く盛っていたのを実は知っていたけれど、知らないふりをして喜んだ。実際に、彼女のやさしい心が嬉しかった。
 姉ちゃん大好き、と飛びつけば、いつでも姉はよろけることなく受け止めてくれた。「わたしもゆういち、だーいすき」その言葉と笑顔が欲しくておれはいつでも甘えるのが好きな弟を演じていた。
 そんなふうに、おれが困っているときに助けてくれる、おれを優先して守って包んでくれる、ヒーローのような姉だった。
 それが崩れたのは、母を失って眠れずにいる彼女の姿を見てからだ。いつも朗らかに笑っている姉が、丸い目の下に濃い隈を作り笑わなくなった。あきらかに痩せてどんどん弱っていく。
 悲しみの海に沈むおれと同じように、姉もまた、ひとりで沈んでいこうとしていた。いつもおれを優先しおれのために自分を削っている彼女が、おれの姿さえ視界に入らず自分の悲しみを抱えるのに手いっぱいになっている。
「姉ちゃん」
 やわらかな毛布のにくるまる彼女の、布団から飛び出ていた手をつかむ。その手が自分の手ですっぽり覆ってしまえることを知って、おれの胸中はさながら雷に打たれたようだった。
「姉ちゃん。おれ、さびしくて不安なんだ。いっしょに寝てもいい?」
 おねがい、と、薄れつつある幼さを意識して引っ張り出せば、姉がようやくこちらを見た。泣いていたのだろう、赤い目におれが写っている。いいよ、とかすれるような声が返ってきたので遠慮なく毛布の中にもぐりこむ。抱きつくつもりで腕を回せば、その体はあっけなくおれの腕のなかに包めるほどだった。今にも消えてしまいそうなくらいに、薄っぺらかった。
「姉ちゃん、どこにもいかないで」
 声が震える。姉の手がおれの頬を撫でる。氷のような指先が涙腺を刺激する。
 姉は小さく「うん」とうなずいて、その胸におれの頭を迎え入れてくれた。どこもかしこも驚くほどやわらかい体に涙が吸い込まれて消えていく。ひたすらにあたたかだった体は、いつの間にか女のつくりになっていた。
 そうして毎日、姉のベッドへもぐりこみながら、このひとを守りたいという思いが強くなっていった。それに比例するように、誰にも渡したくない思いもまた強くなっていく。このひとのやさしい心を、やわらかい体を、おれだけが知っていたい。おれだけのものにしたい。おれたちが共有した悲しみの海に沈む幾日もの夜を、他の誰にも知られたくない──
 そうしていつの間にか、姉を慕う心には余分なものがついてまわるようになった。シスコンにしては行き過ぎているのを自覚しつつ、けれどふたりきりの家族だからとごまかして、ごまかし続けて、とうとうごまかせなくなった。
 弟としての顔なんか、もう思い出せない。

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