「………ぃ……ん、おい、霊幻!」
「……んぁっ?!」

昨日からやけに体がだるかった。春の陽気に当てられたか、と思って今日はいつもよりしっかりと睡眠を取ったはずだったのだが……。事務所でさっさと画像の物理的除霊の依頼をこなそうと、出勤してすぐにパソコンに向かっていた記憶はある。いつの間にか机に突っ伏して寝落ちていたようだ。

「あぁー…すまん、寝てた……なんだ?エクボ。客でも来てたか?」

寝起きでぼんやりと霞んだ視界の中に緑と赤色のふわふわしたものが移りこむ。すぐ側にいるはずなのにやけに声が遠いなと思った。もっとも相手は不安定な存在である霊体であるわけで。霊幻が知らない生理的サイクルがあるのかもしれない。例えばちょっと存在があやふやになる時期とか。

「いや、客は来てねぇ……じゃなくて、お前さんどんだけ寝るつもりなんだ」
「……なんだ……どれだけって、ちょっと昼寝してただけだろ、…芹沢が来たら、……もっかい、起こしてくれればいいから……」
「もう夕方だし芹沢は今日は休みだぞ」
「あー、……そぉだっけ……」

くぁ、と生欠伸を噛み殺しながら頬にちょっと垂れていた涎をのろのろと拭う。そうか今は夕方だし芹沢は休みだったか、とエクボの言葉を反芻して、カッと目が覚めた。

「夕方ぁ?!」
「お、おう……何度も声はかけたんだが」

慌てて机の上の時計を見れば、時刻は午後5時半。窓の外に目をやれば綺麗な夕焼けがそこにあった。

「……すまん」
「仕事が進まなくて困るのはお前さんだからな、俺様は別に構わん」
「あぁー……そうだ、何も終わってねぇんだった……」

今日は赤字だ、と思うとやる気が消え失せて、まただらりと机に突っ伏す。五感に一枚膜が貼ったような気だるさも手伝って、今日はもうこのままここで寝てしまおうかなんてことを考える。

「おいおい、寝るのは家に帰ったらにしとけよ?」
「……ああ、わかってる」
「どう考えてもわかってねぇ奴の言うセリフだぜそりゃ」
「はは、当たりー」

お前は俺の親かよ、みたいなことを言ってくる悪霊なんてそうそういない。そんなことを思いながら、またうとうとと目を閉じる。ここまで眠いのは本当に久しぶりだった。

「……なんだ、おい、本当にやる気ねぇのか。珍しいこともあるもんだ」
「風邪でもひいちまったのかもな」
「そりゃいけねぇな。ほら、生き物ってのはすぐに死ぬからよ。お前さんも──」

だから早く帰れ、というエクボの言葉は右から左へと抜けていく。それよりも耳に残ったのは「死」という言葉一文字だ。それを意識したとたんにふっと周りが暗くなったような、体が芯から重くなったような、妙な感覚に襲われる。そうだ、自分は確かに知っている。命が消えるときの感覚は、

「────ああ、そうだな…、しぬのはすごく寒くて暗くて、こわくて……」

まるで足先から奈落に引きずり込まれていくようだ。ぐるり、と目が回る。上へ、下へ、横へ、斜めへ、自分がどこを見ているのかすらわからなくなって、それでも視界の中心には緑と赤のよくわからない生き物がいる。なぜ視界が渦を巻いても目が離せないのか、それは───恐ろしいからだ。うー、と喉奥から獣のような唸り声が漏れて指先ががりがりと机をひっかき始める。昨日爪を切っていてよかったと思った。机が傷つくからだ。そして芹沢やモブがいぶかしむじゃない、か、カ、






「お前さん、また妙なもの引っ付けてやがるなぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああぁぁぁぁぁ?」






「おう、ちょっと我慢しろ」
「────んギぇっ?!」

その地獄から届いたような声は、今まで体験したどんなものよりも恐ろしかった。体中の毛穴がぞわっと一斉に逆立つ。それから逃げようと踵をかえそうと思って、後ろを振り向いたらずるり、と体ではない何かを撫でられた、と思った。背筋を上から下になぞられるような感覚を何倍も鋭くしたような。とにかくこれまでの人生で初めて体験する類のものだ。

「……何変な声だしてんだ?」
「いやだってなんかっ、なにこれ?!え!?何してんだ!?知らん感覚すぎるっ……!」
「しょうがねぇだろうが。お前さんが奥の方にかくまってやがるからこんなことになってんだよ」

霊幻の背後からエクボの声が聞こえる。これが背後霊というものか。当たり前のことではあるが、肉体を触られているのではない。もっと奥の部分だ。物理的に一番近い部分は骨の髄だろうか。

むき出しの神経を愛撫されているような、脳のどこかを直接かき混ぜられているような。痒みと微かな痛みと不快感と快感と寒気と熱とがぐちゃまぜになっている感覚に吐き気すら覚えはじめる。だらだらと頬を伝う液体は冷や汗か、それとも涙か。もっともそれすら幻覚なのかもしれない。

恐ろしいのは、それが快楽に近い感覚だということだ。気持ち悪いのに気持ちいい。気持ちいいのに気持ち悪い。正反対の感情かと思いきや、なんとお隣同士だったとは。多分町内会が同じだから回覧板とか回してるんだろうな、なんて意味のわからないことを考えつつも永遠にも感じる時間をひたすらに耐える。

「ほれ、取れたぞ」
「う、ぐ、っ、………あ、?」

ゴミがついていました、みたいな軽い言葉がかけられて、ふっと体も軽くなる。後ろを振り向くと何かふわついたものを片手で持っているエクボがいた。

その生き物には見覚えがあった。なんたって、昨日の朝に見たばかりなのだ。出勤前に轢かれているのを見つけて、見てみぬふりもできなくて。簡易な墓を作った子猫が丁度そんな毛色をしていたはず。

「それ、昨日、道路の真ん中で死んでた子……」
「そうかい。良い事したじゃねぇか。多分あったかくて眠くなっちまったんだろう」
「………霊も眠くなるのか?」
「いや……そもそも生きてる体ってのは霊には心地いいもんだ。それに死の間際に縁ができると低級でもひっつきやすい。こいつにも悪気はなかったと思うぞ」

エクボの手にだらりとぶら下げられた半透明の子猫がふにゃぅ、と気の抜けた声で鳴いた。心なしかくるくると小さく喉を鳴らす音も聞こえる。恐る恐るそっと手を伸ばしてみると、柔らかな感触が伝わってきた……ような気がした。でも命が失われた存在にはもう体温なんて欠片もなくて、エクボと同じく触れた部分がなんとなくひんやりするだけだ。

「ひょわっ!」

ざりざりとなんとも言えない感覚に指を舐められてまた変な声が出る。小さくても立派な霊なのだろう。体温が下がって腕に一気に鳥肌が立つ。

霊幻がかちんと固まっている間に子猫の霊はもぞもぞうごいて、ぬるりとエクボの手から抜け出していた。何か興味を引くものでもあったのか、尻尾をぴんとあげて恐る恐る事務所の探検をしているのがなんだか微笑ましい。もうどうせ悪さもできないだろうし、と少しばかりその光景を見守る。

とはいえ霊幻の魂の端っこに間借りしてどうにか存在していたような、か細い霊体の終わり自体はとても呆気無いものだった。何かに気づいたようにふと上を見上げて、子猫は最初からそこに何もなかったようにあっさりと消えてしまった。

「………っ、消え、た?今、急に消えたよな?」
「成仏したぞ」
「あ、そう……随分すんなりと行ったんだな…」
「強い未練がなきゃそんなもんだろう。元からお前に取り憑いて、なんとか現世に残ってたんだ」
「ふーん……」

白いだけの天井をなんとなく眺めつつ、みれん、とたった三文字の言葉を口の中で転がす。死んだ時、そこまで強く感情を残すものが今の霊幻にあるだろうか。そんなことを隣の「強い未練がある」悪霊に尋ねてみようとしたけど、答えはわかりきっていたのでやめた。

「俺でもさ、死んだら上に行く前に挨拶ぐらいはできるかな」
「やめとけやめとけ、お前みたいな人間は上にあがってから夢枕に立つぐらいがちょうどいいんだ」
「え、なんで」
「そりゃあ、……この仕事やってたらわかるだろ」
「……悪霊と勘違いされる?」
「それ茂夫達のこと馬鹿にしてるのわかってんのか?」
「あ、……すまん」

やれやれ、と言いたげにエクボがわざわざ腕を出して肩をすくめる。

「悪霊に食われるか、変に自我をなくして地縛霊になることだってあるんだぞ?いくら零感だからって茂夫についてりゃそんな霊の1つや2つ見ただろう」
「見た、かも。いや見てないかも、わかんねぇわ」
「ほんとお前別の仕事やったほうがいいぜ」
「うるせぇな余計なお世話だよ」

そんな軽い言葉の応酬をしているうちに、ふと思い当たることがあった。食われたり、自分をなくしたり、そんなことがないように道しるべを頼めばいいのだ。

「じゃあエクボが道案内してくれよ」
「……は?なんで大悪霊の俺様がそんなことしなきゃ……」
「いいじゃねぇか。何百年生きてきたお前にすりゃ一瞬のことだろ……それに別に俺は食われたってかまわないんだ。それも別に悪くない。エクボにはいろいろ世話になったしな」

本当にかまわなかった。食われたら輪廻から外れるだのなんだのと言っても、どうせ「霊幻新隆」の意識があるのは今だけなのだ。死んだらそれもわからない。なら命をどう使ってもいいだろう。

「ほら、前に悪霊ってのはまずいとかいってただろ、じゃあ普通の魂ってのは普通の味がするんじゃねぇか?……つってもお前は食べたことぐらいあるか。たまには良いもん食えよ」

絶句、という表現が正しいだろうか。いつもはふわふわと霞状になっているその体が個体のように固まっているのを見て、思わず笑いそうになる。何百年も生きた悪霊の意表を突くことができたのは、もちろんモブもそうだろうが一般人では霊幻が初めてなのではないだろうか。

「…………食ってもいい、なんて言われたのは悪霊やってて初めてだぜ」
「そうか、生きてりゃそんなこともあるってことだな」
「俺様はもう死んでるよ」
「俺からすれば意識があるなら生きてるのと同じようなもんだ」
「……ったく、ああ言えばこう言いやがる」
「口がよく回る方なんでな」

口舌だけなら負ける気がしない。霊幻の唯一といってもいい得意なものなのだ。黙り込んだ悪霊に勝ったような気持になって少し胸を張る。もっとも勝ち負けなんてものは存在していないが。

「……腹が減ってたら」
「ん?」
「腹が減ってたらありがたく食わせてもらうぜ」
「おう、まぁそれでいいよ」

なんとなくだけど、多分その時エクボは満腹になっている気がした。そもそも霊に空腹だの満腹だのといった感覚はあるのだろうか。先ほどよりもどことなく色が赤に近づいているのは多分照れているのだ。何百年も存在していた割には案外可愛いところもある、なんて目の前の悪霊に知られたら怒られるだろうことを思いながらようやく帰り支度を始める。

今日はなんだかよく眠れそうだった。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -