女性と男性、この世の一般的な性はその二つに分かれている。しかしそれとはまた別に、性差に関係なくα、β、Ωというものがある。通常の人間の8割はβ、1割がα、もう1割がΩ。60億もの人類の中でたった1割程度しかいないαとΩは貴重であり特別な意味を持つ。

まず、Ωであれば男でも妊娠ができる。αなら女性でも相手を孕ませることができる。Ωにはαを惹き付けるフェロモンを強く発する器官があるためαは非常に嗅覚が鋭い。またαは類まれな才能や美貌を持つ人物が多く、これは強い雄としての「性的魅力」に位置付けられていると考えられている。「運命の番」と呼ばれる生態も存在するが、何故「人間」という種族の中だけでそうした特性を持つものが生まれたのかはまだ明らかにされていない。

ある学者はこれから起こりうるであろう人間の絶滅を防ぐためだと言った。また別の学者は「性」というものの垣根が無くなる前兆ではないかと言った。第三の性というべきものが発現してから数々の仮説が立てられて尚、その明確な答えは謎に包まれている。




そんな世界の中で、ユリウス・ユークリウスはαとして生を受けた。




「……ふぅ、」


貴重なα、というだけで舞い込んでくる様々な人物からの縁談はユリウスが成熟してからというもの一向に途切れる気配を見せなかった。どうしても断り切れなかった縁談をどうにかこなしてそつなくΩの見合い相手と別れ、微かに強張った肩の力を抜く。抑制剤を使用していないΩの持つフェロモンは鼻が利きすぎるαにとって一種の拷問になる、ということは周知されているはずであるが諦めきれないのだろう。万が一にもユークリウス家の嫡男との番契約がなされたらという思いを。

自室でネクタイを緩め、ソファに深く腰掛けて息をつく。誰にも浸食されない空間は酷くユリウスの心を安らげてくれる。暫く虚空を見つめて気持ちを整えた後、体に微かに残ったΩのフェロモンを綺麗さっぱり洗い流すために、ユリウスはこのままソファで寝てしまいたい気持ちをねじ伏せて重い腰を上げた。

「……第三の性、か」

持たざる者は持つ者を羨む、というが逆も然りだ。ユリウス自身としてはこんな億劫な性なんて持ちたくはなかった。αという事実に付随する期待であったり、見知らぬ他人に欲情する可能性の恐ろしさであったり。そして運命の番などと呼ばれる暴力的な衝動に対する怒りはユリウスがαであると判明してから先ずっと心の半分以上を占めている。

恵まれているとαを評価出来るものは、そうした苦労を知らないからだ。仮に好いた人間や恋人がいたとして、そこに突然運命の番が現れる。その時本能に抗える人間はいるのだろうか。事実として恋人を奪われ、裁判沙汰になったケースは多いが誰もがこう判決を下す。「αとΩの番を引き離すことはできない」と。場合によっては命に係わる危険があるためだ。

「ふ、…」

熱いシャワーを浴びて、体の汚れや匂いを落としながら自嘲の混じった笑いを漏らす。選ばれた人間と例えるものもいるが当事者からすればあまりにも原始的な欲求であるとしか思えない。

実際に「退化をしているのではないか」と唱えた学者がいた。運命の番と名付けられた言葉は酷く甘美な響きを持っているが、実際はそうではないと。過去に世界中で起きたありとあらゆる「番」にまつわる悲惨な事件をデータとして明確な数字に落とし込み、発表したのだ。勿論それは番契約を尊く美しいものとして扱う多くのβによって非難され、いつしか話題に上がることもなく消えていった。

彼こそが正しいと強く思う。少なくともユリウスはそう感じている。シャワーを止め、体を軽く拭いてから脱衣所に上がって部屋着を着込む。脱ぎ捨てたスーツやシャツは全て密封された袋の中だ。クリーニングに出して、匂いが取れるだろうかと思いながらベッドに倒れ込む。疲れきった体を柔らかく包み込むこのテリトリーに、数日篭っていたいとぼんやりと考える。

酷く、疲れていた。



ユリウス・ユークリウスはαであるとともに、同性愛者だ。Ωには男性体もいるのだから、ある意味ではβの間で取り扱われる、同性同士の恋愛にまつわる酷く根強く残酷な意見とは縁がない。それは幸運と言えば幸運なのかもしれない。

「……、…」

抱きたい、であればまだ良かった。だが違う。抱かれたいのだ。直接的に言ってしまえば、他人のペニスを体内に受け入れたい。強い雄としてのαには発現すること自体が非常に稀なその欲望は、ユークリウス家の嫡男としては決して口に出せるものではなかった。

人口のたった1割を占めるα、その中のセクシャルマイノリティ。だからある意味では運命の番をユリウスは探し続けている。番を孕ませたいという雄の本能に、この気持ちが上塗りされてくれるのではないかという微かな望みを込めて。





ここならば、もしかしてと思っている場所がユリウスにはあった。一夜限りのパートナー、もしくはこれから先の恋人を探す、同性愛者が集まるバーだ。だが万が一、と先にαが受け入れられるのかをリサーチしたところ、残念ながら否定的な意見が多いようだ。αはΩとくっついてろ、運命だからこんな所こなくても会えるだろ、などと言った暴言が沢山書き連ねられた匿名掲示板を目にしてしまい、痛む頭に思わず目頭を抑える。そうした下劣な言葉とは日常的に無関係なユリウスにとっては少々刺激が強かった。

「……相手にはされなそうだな」

ふぅ、と息をついて、ではこちらはどうか、と風俗のサイトを見てみる。αお断り、Ωお断り、などの注意書きはないが…。基本的に店に登録している人間はβしかいない。果たしてどうなのか、という疑問はあるがまずは足を運んでみるべきだろう。

───連絡を取れば済む話なのに、それをしないのは賭けにも似た気持ちがあるからだ。

断られたらそれまで。諦めてこの気持ちには蓋をしていくことにする。どちらにせよそろそろユリウスは生涯のパートナーを決めるべき年齢であるし、これを区切りにするのも悪くない。

ノートパソコンをぱたりと閉じて、椅子に背を持たせかけ、天井を見る。
例えユリウスが求める人間に出会えなくとも、きっとそれもまた「運命」だ。





夜に近い明け方というのは、良い時間だ。人通りがほぼないしんと静まり返った道は心に安らぎを与えてくれる。人が嫌いというわけではないが、αならではのフェロモンや整った容姿が原因で、じろじろと遠慮なく見られることが好きなわけでもない。

それに、いまユリウスが向かっているのは堂々と胸を張って入るのは憚られるいかがわしい店の一つである。だからなんとなく表道を通るのは避けて、雑多な路地裏を選んだ。漂ってくる複雑な臭気や目の隅にちらりと移った大きな鼠の姿に一瞬後悔したのは、良い経験だったと思うことにする。

「……こっちも申し訳ないとは思ってるんだぞ?だがよ、何かあったときに責任なんて取れねぇから断ってんだ、……あんたの言い分もわからなくはないんだが、いい加減諦めちゃあくれねぇか」
「っ……わかったよ、もういい。もう来ねぇよ」

その明らかな揉め事の声に、路地裏から出る寸前で立ち止まる。そっと通りをのぞいてみると、ユリウスが目的としていた風俗店の店員らしき人間と、まだ10代後半と見られる青年が言い争いをしていた。これでは店に向かうことができない。

幸先の悪さにため息をつきつつ、その争いが収まるのを見守る。拳が出たらさすがにユリウスも止めるべきだろう。だが幸いなことに、しばらく言い問答が続いたあとに青年がそう言い捨てて踵を返した。こちらへ向かってくるのを見て、慌てて頭を引っ込める。

「クソッ!!」

ガンッと音を立てて路地の手前に落ちていたらしき空き缶が蹴っ飛ばされて、アスファルトの上をカラカラと音を立てて転がっていく音が聞こえた。それを蹴っ飛ばした本人は路地裏から表へ続く道の前に立って、息を荒げている。声をかけようかかけまいか、迷ったユリウスが行動を起こす前に、青年が先にユリウスに気がついた。

「……あぁ?何じろじろ見てんだよ!」

気が立っているのだろう鋭い目つきでこちらを威嚇する青年の首には黒いチョーカーがある。Ωの印だ。つい、それを見つめてしまったユリウスに、青年が本当に嫌そうな顔をする。失礼だったな、と思い直して改めてそのはしばみ色の瞳をのぞき込んだ。

「すまない……君に少し聞きたい話があって」
「話ぃ?」
「その…先程の店についてだ。ここではなんだし、そこのバルにでも入らないか?好きなものを頼んでくれてかまわないから」

丁度見えた店を指差すと、案外素直に目線がそちらを向いた。どうやらお眼鏡にかなったらしく、少しの沈黙のあとに頷かれる。

「………奢りに遠慮はしねーけど、先程のってことは、話聞いてたのか?」
「聞いていたと言うよりは耳に入って来てしまったのが正しいね、……悪気はなかったんだ。私もあの店に用があっただけで」
「あ……そりゃ悪かった、邪魔しちまってたよな」

ユリウスのその言葉を聞いて一転、申し訳なさそうな顔つきになったのにぱちくりと目を瞬かせる。そのユリウスの様子をちらりと伺ったあとにガリガリと頭を掻いて、青年がため息をついた。

「ま、その慰謝料も込めて……っつーのは言い過ぎかもだけど、話は聞くよ」







周りに聞かれたい話でもなかったので、一番奥の席を選んだ。やる気のなさそうな店員がご注文はぁ、と尋ねてきたのにユリウスはチョップドサラダとコーヒーを、青年はメニューをじっくり見てからシーフードグラタンとメロンソーダを頼む。カウンターへと向かっていった後ろ姿をなんとなくお互い見送って、かすかな沈黙が落ちた。

「私は、ユリウス・ユークリウスと言う。気軽にユリウスとでも呼んでほしい」
「俺はナツキ・スバル。スバルでいいんで……単刀直入に言うけど、同じ店に用があったってことはユリウスは同性愛者だよな?んで、αだろ。匂いでわかるけど」
「ああ。そうだ」
「じゃあ立場は違くてもご同輩ってことだ。何聞いてくれても構わねぇよ」

すぐに運ばれてきたクリームソーダの上のアイスクリームを、スプーンでがしがしと崩しながら男が名乗る。ユリウスも少し遅れて届いたコーヒーに手を付けた。胃の腑に滑り落ちていった液体の暖かさといつもより多めに入れた砂糖の甘さが緊張をかすかに解きほぐしていく。

「では、遠慮なく尋ねさせてもらうが……あの店はαやΩの客は断っているのだろうか?詳しく調べてもそのような注意点は見受けられなくて」
「ん?いや、制限はあるだろうけど断ってはねぇと思うよ」
「だが先ほど君は……」
「なんだ、本当に最初から聞いてたわけじゃないのな。俺は客じゃなくて、あの店に雇ってもらいたかった方」

とんとん、と自らの首にはまった黒いチョーカーを親指で叩いて、スバルが苦虫を噛み潰したような顔をする。

「その、なんていうか。見てのとおり、俺はΩなわけですけど」
「……ああ」
「だからってネコに回りたくはねーの。わかる?男として生まれたからには普通にちんこ使ってセックスしたい。ケツの中に子宮があるとか、男でも子供が産めるとか、そういうのは関係ねぇの」

でもΩってだけでβの女の人からは拒否られるし、男も変な色眼鏡で見てくる。そう言ってスバルはクリームまみれになったスプーンをくわえながら肩をすくめた。

「んで、あの店は例外もいるけど、基本売り子がタチ専門だからさ。俺は男も女もいけるから、雇ってくれたら俺もタチとしていろいろできるんじゃないかと思ったってわけ。まぁ……ユリウス、が目撃したようにすげなく断られましたが……」
「…………そうか」

そんなスバルの話を聞きながら、ユリウスが考えていたことは一つだ。魂を揺さぶられるほどに惹かれる匂いがしないということは、彼はどうやらユリウスの運命ではないらしい。だが、それでよかった。「それがよかった」のだ。期待に心臓が大きく脈を打つのをどうにか悟られまいと平常を装い相槌を打つ。

「てか、話が聞きたいってまさかそれだけ?」
「違う、……いや、だが、求めていた答えは得られたのだと思う」
「答え?」

不思議そうにスバルが首を傾げる。かたやα、かたやΩ。立場は違うが同じであると、打ち明けたら彼はどう思うのか。断られるか、それとも受け入れてくれるだろうか。緊張に乾いた口の中を熱い珈琲で湿らせて、息をつく。

「………私が、あの店の前にいたのは、客として入りたかったためで」
「うん」
「専門用語で言う……ネコ、かな?そちらを経験したくて、だが勇気が出ずに」
「ん?αなのにネコ?」
「αなのに、だ。私は昔からそうなんだ。抱くよりも、……抱かれたくて、……そして、君は、Ωで、でも……」

だんだんと声が小さくなって、目線が下がっていくのを自覚する。「でも」の後に続く言葉をさらりと口にできるほど、ユリウスの経験値は高くない。つまるところを言ってしまえば、だ。随分と遠回しになっているがこれはセックスの誘いと同等ではないか。そう改めて自覚したとたんに明確に頬が熱を持つのがわかった。

スバルからは何も返事が返ってこない。それもそうだ。先ほど出合ったばかりでこの発言だ。当たり前だろう、と自嘲をしつつ、ちらりとスバルの表情を伺う。

口を「あ」の形に開けたまま、ユリウスと同じく顔を真っ赤にしている男がそこにいた。

「……か「シーフードグラタンとチョップドサラダお待たせしましたぁ」……あ、はい、グラタンは俺です」

何かを言いかけたスバルの言葉を遮るように、ちょうど料理が届く。続くはずだった言葉が少々気になりつつも、ユリウスも頼んだサラダを受け取った。

「……とりあえず、食べてから話をしようか。やはり食事というものは出来立てを食べるのが一番だからね」
「……おうよ」

2人そろって運ばれてきた料理に手を付ける。
正直なところを言ってしまえば、味は、あまりわからなかった。






「───あのさ、さっきのって……そういう意味って捉えてもいいやつ?」
「あ、ぁあ……。意味は合っている。そう捉えてくれて構わないし、嫌なら断っ、」
「嫌じゃない」

ユリウスの言葉にかぶせるような勢いでそう言った後、んんっ、とそれをごまかすようにスバルが軽く咳払いをした。

「だってさ。ほら、アレだろ。お互いやりたいことができなくて、でもその欲求を満たせる相手と出会った」
「……そう、だ。そして君と私は明らかに番ではない」
「まぁな……おもしれぇじゃん。あんたと俺は運命じゃないのに、運命みたいな巡り合わせだったってわけだ」

このクソッタレな性別に対する皮肉みたいなもんじゃね、と言ってスバルが楽しそうに笑った。一般人ではないと言われたら納得してしまいそうなほどきつい顔立ちが、笑うとどこか幼さを感じさせて思わず目が離せなくなる。

「あのー……なんかマジマジと見つめられてるけど、もしかして俺の顔にクリームとかついてたりする?」
「いや。笑うとかわいらしいと思っ……あ、すまない」
「これはこれは素直なご感想ありがとうございます。よく言われますわ」

少し拗ねたように返事をされて、それがなんだかおかしくて抑え切れなかった笑みが漏れる。
どうやら人間というものは、不愉快なことは幾らでも押し殺せるのに愉快なことは耐えられないらしい。要人との付き合いで鍛えたはずのユリウスの表情筋は、この時ばかりは見事なまでに役立たずとなった。
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