三月
ぼくはしばらく自分に対して自分で料理を振る舞うことができなくなったので、その間やはりジャックの店に世話になることにした。なにしろそこは徒歩五分のところにあったので、行かないという選択肢がなかったのだ。ジャックの店には、実はここしばらく足を運んでいなかった。理由は、旧い知り合いが多く居すぎるということと、ぼく自身あの店の人間関係に巻き込まれていないこと、が挙げられる。去っていくものは追わないし、来るものは拒まない。そういう店だった。
「はあ。それは大変だったな。」
店主であるジャックはグラスをふきんで何度も拭きながら言った。もうそのグラスは水滴を拭う必要がないが、拭くことに集中していないせいで彼はそのことに気が付いていない。
「まあ、金さえ置いてってくれれば幾らでも居ていいからな。なんだったら金額とメニューをあらかじめ言っておいてくれれば、それに見合った準備もしておくし。おれ、こう見えてもずいぶん家庭的だろう?」
「そうだね。ずいぶん家庭的だ。」
「でも、独身なんだよなあ。彼女なし三十路、一人で店を切り盛りするなかなかの二枚目……結構いい穴場だとは思わないか?」
「思うよ。」
ジャックはぼくにウインナー・コーヒーを出してくれた。
「おれ、結婚して一緒に店を切り盛りするのが夢なわけ。だから、おれの夢、半分はもうかなっちゃってんだよね。だから神様はハンデを課しているのか? いやあ、参ったなあ。ほんと。」
「三十路の男が、神様、なんて言わないほうがいいよ。女性と出会えるようなところに行ってはいるの?」
「おれはこの店で運命的な出会いを果たしたいから。」
「きみがそう言うなら止めないけど。」
ぼくがコーヒーを飲んで、ジャックが乾いた笑いをしたところで、ノラがやってきた。カランコロンとベルを鳴らして入ってきた。あのベルは年の瀬にぼくが直したばかりだ。長年来客を知らせてくるうちに随分音が悪くなってしまって、そこが味なのではないかとは思ったものの、ジャックから修理の依頼を受けたのでぼくは修理をするしかなかった。ジャックと言葉を交わしたのはそのとき約半年ぶりであった。
ノラに関しては、ジャック以上に久々に会った。でも、あまり久しいという感じはしなかった。彼は大抵は薄い茶色のセーターを着ている。人は三年ぐらい経てば違う服を着ていそうなものだが、彼はもう何年もそれを着ていた。だから、彼のアイコン的なものはずっとずっとそのままなのだ。
「お久しぶりですねえ。」
ノラはまっすぐにパイプ椅子のほうへ歩いていってそこに収まった。座った、とか、腰掛けた、とかではなかった。犬が犬小屋に戻るみたいな流れだった。ぼくは「久しぶり。」と挨拶を返した。
ジャックはグラスを棚にしまうと、代わりに職人芸光る湯のみと急須と茶葉の筒とを取り出して、急に緑茶を淹れ始めた。そんなメニューはこの店にないのだけど、おそらく、犬にやるものだと思われる。緑茶のいい香りがする。ぼくは、一気にそれを飲むことができるノラのことが羨ましくなった。
「最近。さ。ノラ。」ノラに話しかけてみる。彼は薄笑いの表情でこちらを見た。「お嬢さんには会っているの。」
ノラは椅子の上で器用に正座をして、咳払いをひとつ立てる。
「この店にいらっしゃったときは、お会いしますけどねえ。なにしろ、お嬢さんがどこに住んでいるのか、日頃何しているのか、想像つきやしませんで。」
そんなこと、お嬢さんだって、ノラに言われたくないと思う。ぼくはそう思ってコーヒーを啜った。苦味に溶けるミルクの味が調和も喧嘩もせず、ただそこに在った。
「ときに、ルーカスの旦那。おれが最近、思うことを、聞いてくれませんかね。これは本当に、単純な話です。空が青くて海が青いくらい単純だ。」青い光が散乱するというレーリー散乱の現象を単純と言う人は文系だと、ぼくはつくづく思う。「いいよ。続けて。」
「これは、おれの唱える説です。便宜上、元気ある人すごい説、とでもします。元気のある人はすごい。とくに、おれは元気がないので、ある人はすごいと思うわけです。持てる人と、持てない人。これは天性ですから、ない人があるようにしたら疲れる、ある人がないようにするのは、多少我慢すれば、理論上なし得ると言えましょう。大は小を兼ねるということです。例を挙げます。とある作家の作品を追ってみます。五十万字の大作を十年の構想を経て書き上げたものが代表作となり、その前にも短編は百、長編が十。絶えず文字を連ねていたに違いありません。これ、普通の人でも、厭きます。書きたいことがあったとしても、辞めます。でもその人はきちんとやってきた。これだけで元気があるってもんです。そういう人の作品は、作品を読めばよくわかります。厭きっぽい人の文章はかなり雑ですし、元気のある人は勢いと校正力があります。厭きているものは結論さえ言わず途中で切れているんですね。これは、技術というより気力の問題ですよね。勿論、これは、おれの偏見ですがね。
この説はこれで終わりではありません。じゃあ、元気のない人は悪なのか、というこじつけ極まりない反論に、しっかりノーと言わねばならない。元気のない人は、悪くありません。個性ですから、与えられたカードで勝負するしかありません。でも、それを自分で良しとするかはまた別ですから、元気のある人になりたいなら、演じるか、変身するか、ちゃんと飯食うか酒飲むか、人付き合いを充実させるかクラブにでも行ってみるか……クラブはもう、田舎にしかありませんでしたね。とにかくそんな感じでがんばるしかないわけです。ちなみにおれは、元気がないままでいいです。元気を出そうとすると理性が狂う。おれは狂いたくない。それだけでさ。旦那はどうですか。」
ぼくはノラの話を一応耳に留めておきながら、ほとんど頭で理解しようとせず、ずっと爆発したガス・コンロのことを考えていた。台所は一寸の光も射さない宇宙の闇みたいに真っ黒だった。まるで、ここは世界の涯で、手を伸ばせば違う世界へ行ってしまうのではないかと、思えてしまうほど。「ぼくも元気がないままでいい。」
ノラは、ふうん、と言って、お茶をのみ、それきりしばらく黙っていた。
頬杖をつきながら物思いに耽った。食洗機があったのも、アイ・エイチの電子コンロがあったのも、もう五十年も前のこと。時代は、レトロ再来の時代に移ったのだ。心に余裕があった時代、古きを良しとし、自然に寄り添った慎ましい暮らしを営むこと。最低限の発展は一部の研究機関に委ね、土地・地球に根付いた生活を送ること。想像しやすい便利な日本語でいえば、明治時代と平成時代を足して二で割ったくらいだろうか。最低限の娯楽は残り、精神を消耗する文化は、とくに都会では無くなった。エス・エヌ・エス、とか。田舎と一部の若い人の間では、流行っているかもしれない。歴史の教科書にも載っているくらいだ。
ぼくは、エス・エヌ・エスが発展したときから今と変わらない見た目をしていて、ずっと二十代半ばの風貌でいて、周りをごまかし二十五を演じ続けてきた。その特異な体質に対して抱いた、悲しみや苦しみなどは、もうすでにぼくの身体に深く染み付いていて取り去ることができない。ノラの言う通り、与えられたカードで勝負するしかないのだと、思う。ぼくみたいな体質の人は公にはならないものの結構な人数いて、その人専用の援助プログラムもあるほどである。そのプログラムは要はギブ・アンド・テイクで、その土地にずっと留まると歳を重ねない不気味さが周りに伝わるので、最高十年でそこを去らねばならない代わりに、その費用と生活援助金は支給される。そのかわり、歴史の重要参考人として、その人の人生の一部は、歴史の記録や書物の編纂に捧げられる。ぼくも、その一部である。
ノラは、「あなた、元気あると思いますけどね。」と、長い沈黙を破って言った。どこまで知っているかわからないが、だからこそ、お嬢さんとは会わせたくない、とぼくは思うのだった。元気がないので、今日の手記はここまでとする。
初出 20160509