誘惑する色のすべて
これほど夏がこいしく感じられる日を、わたしは知らない。今日、雪が降った。空は見渡す限り曇り空で、薄暗い。風もない。雪だけが、冷たい温度を持って、ふわふわと白く舞っていた。まだ地面に埋め込まれていない電線は、空と同化しそうなほどの灰色の電信柱と電信柱の間でじっと黒い線を描いている。開けた街に行けばもう見られない景色だ。この辺りはすこし郊外なので、電線の埋め込みが遅れている。目を凝らせば、遠くの山がまだ少しだけ拝める。それでも、空の色との差は、もうほとんど無いようなものだった。深い緑色の葉をつけた常緑樹でさえ、周りの色にぼかされて、その青々とした色を隠している。
今年、わたしは二十一歳になった。そして、わたしの生まれ育った家は取り壊され、わたしは遠い街へ引っ越すことになった。これは何も不幸の始まりというわけではなかった。越す予定の街はここより幾分、というより世界基準で見てもかなり都会だし、わたしには行先での仕事先もはっきりと決まっていた。家族も連れ立ってその街へ越すけれど、わたしはそこでは独りで暮らしていく予定だったし、仕事が本格的に始まる四月までは自由に遊んでいられるほどの貯金もあった。電線もとうの昔に埋め込まれている街だった。何よりも、別にこの街にもう一生来られないというわけでもない。電車に二時間も乗れば来れる場所に、寂寞を覚えるほどわたしはドラマチックな人生は送ってはいない。
でも、わたしは思う。もう一度ここで、この家で過ごして、あの子ども時代にもどって、なにも考えないでもいられたあのときの夏を、もう一度だけ過ごせたら。レモン・シロップを炭酸水に少しだけ落として、そのとき揺れるようにしてちりんと鳴った氷の音に何十秒でも何時間でも耳を傾けられていられるような幼い女の子だったころに戻れるなら、どれだけいいだろう。ただそう思う。しかし、それは時間が不可逆である限り叶わない夢だった。
わたしは、やけにぼんやりとした人間だった。
それはなんとはなしにわたし自身がそう思った、という話ではない。わたしと少しだけでも話をした人は、みんな口をそろえてそう言うのだった。あなたって、ぼんやりしているのね。または、こういう言い方だった。きみって随分のんきだね。
それと同時に、若いのにしっかりしているわ、と言われることも多かった。これは、現職のオーナーに言われたことだった。
わたしは大学に行かないで十八歳から仕事を始めたのだけれど、そのときに周りの大人たちはみんなわたしのことをそう言った。どうやって生きてきたらそうなるのかしら。皆目見当がつかないようだった。といっても、わたしの生い立ちや育ちを熱心に探ろうとしている者はだれひとりとして居なかった。周りの大人たちは、ただわたしを褒めるためだけに、そういう言い回しを好んでしているだけだった。
そして、それはわたし自身にも言えることだった。わたしはわたしに深い興味があるようで、そのじつ自分のこととなると何も言えないでだまりこんでしまうことが多かった。わからないことをわかった風に言えるくらいに、器用な人間にはならなかったのである。
・
年が明けてから一発目の宿題を、結局ぼくは近所のカフェで行うことにした。家では人形遊びで大騒ぎする双子の妹がいてぼくの部屋に何度も襲撃をしかけてくるので、ぼくは止むを得ず家を出て、こうしてカフェの窓際で白く積もってゆく雪を眺め……いいや、宿題をしているのである。ほどよく暖かい店内はぼくの集中力を高めてくれる。コーヒーのおかわりは百円だから、ついつい進んじゃって、今四杯目のカップを手にしてしまう。ノートは……ここに来てから、一ページも進んでいない。ぼくは意を決したようにため息をつくと、カップを下げ、コートを羽織り、大して筆跡の残らなかったノートと辞書と教科書を鞄にしまって、そのカフェを後にした。
家に帰るなりすぐに、家族から家の前の雪よせをお願いされたので、ぼくは巻いたマフラーを外さないまままた外へ出て、仕方なしにスコップを握った。庭を覆う芝も、雪のせいで見る影もない。冬の間、飼い犬を家の中に入れているため、庭の犬小屋は寂れた山の小屋のように佇んでいた。バスケット・ゴールにも雪が積もっていて、もしシュートが決まったとしても、雪に突っかかってボールが落ちてこないことだろう。
ぼくは黙々と雪よせを始めた。せっせと厚く積もった雪を道路の脇に寄せる。靴に雪が沁みてきてとても冷たい。雪は掻いても掻いてもどんどん降ってきて、また積もる。信じ難いほどに無情だけど、これが真実なのだ。
ぼくはスコップを放り投げた。
それと同時に、隣の家の庭の影から、幼馴染がひょっこり顔を出した。「ハイ、アラン。元気?」そいつはそう言ってぼくに近づいてきた。
「元気だよ、フェリシアノ。きみも雪よせかい?」
「そう、まったく、いやなことに、そうだよ」
大げさに嫌な表情を見せながら、フェリシアノ・マクレンはソリみたいにでかいスコップを引き摺って寄ってきた。
彼の家も、ぼくの家も、基本的に男手が不足している。父はお互いに多忙で、だいたい家にいない。ぼくの家は母と双子の妹とぼくがいて、彼の家は奥さんとおばあさまとお姉さんが三人もいる。でも、男はフェリシアノだけ。ぼくの家は小さいのでまだいいものの、三世帯で暮らすマクレン家はちょっとした豪邸である。車も三台あって、門から玄関までの道も長い。よってフェリシアノは雪を寄せなければならない箇所がぼくの家の三倍くらい多い。
「もう半分終わったんだ。やっと半分だ。ぼくはこれからもう半分やらなければならない」フェリシアノが言った。
「大変だな。ぼくはついさっき始めたところだけど、靴に雪が沁みてきちゃって、心が折れたよ」
「それは災難だね」
「宿題も終わっていないし」
「ぼくもさ」
ぼくは六フィートほど先にある、さきほど自分で投げたスコップを沁みた靴で歩いて取りに行き、しぶしぶ拾い上げた。フェリシアノが真面目にやってるんだから、ぼくもやらなくちゃ。そんな使命感に駆られ、ぼくは無表情にただ降り積もってゆく雪を次から次へと塀に寄せていった。渋ったわりには、五分ほどでおおよそ片付いた。
フェリシアノにお先にと言ってスコップを玄関に立てかける。彼は残念そうに眉を下げて、また明日と言った。ぼくも、また明日と返した。ぼくは飛び込むようにドアを開けて家に入った。上着を脱いでコート掛けに置く。二階にある自室へ行って、半ば仕方なしに鞄から筆跡の少ないノートを取り出した。開けたページの上部には問三の答えと思われる「28」が書いてある。あと、二十七問もある。
「ぼくは数学は得意じゃないんだ」
呟いてみたが、とくに誰からの返事もない。やけに静寂に包まれているぼくだけの部屋。
ぼくは独り言を漏らしてしまったことが急にはずかしくなって、慌てて鉛筆を取り出した。削るのをさぼっていて、芯は丸くもうほとんど見えなくなっていた。まずは削るか……と机の隅に置いてある鉛筆削りを手を伸ばして取る。がりがりがり。腕を回し続け、音がなり止んだ頃に引き抜くと、黒く尖っていなければいないはずの芯がすっぽり抜けていた。おそらく、学校の机で鉛筆を転がす遊びに興じていたせいで、芯が折れていたのだろう、鉛筆削りの中に、無残に芯のかたまりが落ちていた。ぼくはすっかり頭がからっぽになって、放心していた。そもそも集中力というものが、今日は切れに切れているのだった。明日までの数学の宿題。ぼくは頭の中でぼんやりと明日まで、宿題、集中力、疲れ、明日まで、二十七問、明日まで……を繰り返した。
ふと窓の外を覗くと、フェリシアノがまだ自分の体よりおおきいスコップで雪を寄せていた。あまりにも広い敷地のせいで、おそらくはじめに片付けたであろう箇所にも雪が積もり始めている。掻いても掻いてもなくならない、こんな日に雪寄せに参じるほうが間違っていたのかもしれない。ただ、寄せないと次の日、中途半端に溶けた雪が寒風で冷やされて氷になって、つるつる滑りやすくなってしまう、それだけである。
ぼくはしばらく無になってフェリシアノを眺めていた。そして、昨年の夏はよかった、なんてことを考え始めてしまう。蝉がわんわん鳴く音を遠くに聞きながら眠りに落ちる多幸感、全身に汗をかきながらバッター・ボックスに立つあの緊迫感、外でめいっぱい遊んだ後に氷をたくさん入れたレモネードを飲むあの充実感。そんなことが、夏のあのころは、いくらだってできた。なのにこの有様はなんだ? 真白い雪、ほぼ一面淡いコントラスト。冬は人を憂鬱にさせる。
ぼくの住む街にはそう大きな事件が起きない。平和というより、平坦だ。だから、この間の大雪は新聞の一面を飾ったし、テレビのニュースで七回報道された。七回もだ。学校の教室でさえもそのことで持ちきりだった。
ぼくは結局、本当に直前になって数学の宿題を始め、かなり夜更けに終わらせるという、とても非効率なことをやってのけた。隣の女の子とノートを交換し丸をつけあったが、あまりにぼくの正答率が低いので、女の子に笑われてしまった。
ランチの時間になって、ぼくはフェリシアノに話しかけた。
「数学の宿題、どうだった?」
「まあまあかなあ。ぼく、数学が一番とくいなんだよね」
フェリシアノと連れ立ってカフェテリアに来た。トレーを持った生徒でごった返しになっている室内は、今日のメニューであるカレーと焼きたてのパンの匂いで立ち込めていて、ぼくはなんてすばらしいんだと思った。ぼくとフェリシアノはきれいなようで雑然と積み重ねられたトレーの山から、それをひとつずつ持って配膳を待つ列の一番後ろについた。この列はベルトコンベアのように耐えず回り続けているため、ぼくたちが最後尾でいたのはものの十秒ほどだった。
配膳をする大人はなれた手つきで黄色い本場風のカレーを底の深い皿に一滴もこぼさず移し、それをぼくのトレーの上に乗せた。パンはセルフ・サービスだったので、ぼくは片手でトレーを必死に支えパンをふたつ取った。先に二人分空いている席にぼくが到着すると、何十秒か置いてフェリシアノが到着した。フェリシアノがかしゃん、と音をたてて置いたトレーの上にはちいさいパンがひとつと少なめのカレーが場を持て余すように心細げにたたずんでいた。彼は毎度、配膳をする大人に量に関する細かい指示(といっても、少なめにしてください、と言うだけだが)をするので、いつもちょっとだけ列がそこで滞る。そして、すぐ後ろに居たはずなのに、ぼくの元へ来るのにも多少時間がかかる。
初出 20170804
随分前に書いたもの、未完
随分前に書いたもの、未完