十二月

 今年の十二月は鞄の中が牛乳まみれになったことから始まった。ボストンバッグに入れていた瓶の蓋が事もあろうに外れてしまっていたのである。そして、手洗いにでもまず駆け込むべきところをそのまま列車に乗ってしまった。気が動転していた。しかししばらく時間の経つうちに平静を取り戻して、終わってしまったことはもうどうにもならないことに諦めがつき、仕事場についたときに鞄をまるごと捨てた。そのあと、仕事仲間に笑い草にして語った。その鞄は、このように牛乳まみれになるまでに、約十ヶ月のあいだわたしに担がれてきた。それは買い付けたときは安売りをしていて特段たいした痛手にはならなかったし、捨てた瞬間は厄介払いでもしたかのように清々しい気さえしたものだが、こういうことが積み重なると、さすがに心が弱ってくる。

 ここ最近、二週間に一回は、牛乳まみれの鞄のような災難があるような気がしている。それを多いと捉えるのか、少ないと捉えるのかは、その人の人柄や性格などにも寄るのだろうが、わたしからしてみたら致命的に多かった。鍵を忘れて家族の帰宅する二十三時まで外に居なければならないとか、たった五分目を離した隙に自転車の盗難に遭うとか、些細なものだと間違ったものを買ってきてしまうとか、玉ねぎを多く入れすぎてハンバーグがただのひき肉炒めになってしまったことだとか。本当につまらない話だと思う。つまらない話は、積み重ねても積み重ねてもつまらない話でしかないが、それをたくさん乗せられた人は重さに耐え切れず死ぬんじゃないかしら。
 気丈なつもりでいたわたしも、いよいよ、押しつぶされそうになってしまったというわけである。

 もうすっかり十二月だった。人生で十二月を迎えるのは、なんだかんだ言って二十五回目である。そのくせ、いつも初めて迎えるような気持ちになってしまう。人間は、生きるのに必要なこと以外は忘れるようにできている。

 九月末に仕事場が移転した。企業拡大により、自分の部署だけが引っ越すことになった。列車の乗り換えも変わり、仕事場への道のりが少し長くなった。変わってからもう二ヶ月は経つのに、わたしの足はたまに以前の乗り換えを目指そうとする。
 仕事場では、毎日ちがう笑い話をする。愚痴を笑いに変えるのである。何も解決しないが、単に憂さ晴らしのためだった。でも、意外とこれが労力のいる作業なのかもしれない。強いふりをしているだけの人には。つまり、わたしである。

 ハッピー・メリー・クリスマス! ケーキはいかがですか、お嬢さん。
 樫の木でできた重厚なドアを開けると、店主が恥ずかしげもなくそう迎え入れてきた。わたしが店に入ってくるのが、硝子越しに見えたのだろう。その言葉は間違いなくわたしにだけ向けられたややおふざけ気味のものだった。
「ハッピー・ハッピー・メリー・クリスマス。楽しい時期ですね。」
「そんなしけた顔で言われちゃあね。」
 店主は髪を無造作にかきあげて苦笑した。
「まあおれもそんなハッピーじゃないんだけどね。なにしろ十二月が誕生日だから、おれもいよいよ三十路なわけよ。」
 わたしは、おめでとうございます、と言って、なるべくカウンターから離れた席に座った。
「いつもの?」店主でなく、カウンターの端っこに頬杖をついて座っていたノラが言った。わたしは黙って肯いて椅子に座る。ノラは、店主に「いつもの。」とそのまま伝えてまた雑誌を読み始めた。いつもの、といっても、そんなに格好いいものではない。カフェラテである。
 わたしはこの店に繁く通う。今現在は、店内にはお馴染みでない人々もそれぞれに憩いのひとときを過ごしているようだった。広過ぎも狭過ぎもしない店内は、駅前の道からやや外れたところにあるので、いつ来ても満席ということはないのだった。
 ノラもまた常連だった。いつも同じ席に座っていた。人気のない席なのである。なにしろ、カウンターの端っこには雑貨が山盛りに置いてあるのでとても狭い。そして、しっかりした椅子ではなく、わりと簡易的な椅子が配置されている。ほとんどノラのために用意されたような席だった。
「随分と元気がないようで?」
 ノラはくるっと振り返って、めずらしく機嫌よさそうにわたしに話しかけてきた。
「年の瀬は殺傷能力があるね。」わたしは無表情のままで言った。「物憂さだ。」
 わたしの吐き出した言葉に彼は、ふうん、だか、へえ、だか、音で言い表せないような返事をして、また目線を雑誌に戻した。スウェットみたいなズボンの膝小僧を居心地悪そうに掻いて、息苦しかったのか薄いキャメルのセーターの胸の部分を軽く引っ張りおろした。ノラを一言でいうなら、近所のこぢんまりとした部屋に住む貧乏大学生といったところか。いつ来ても居るので、たしか学生だったとは思うのだが、授業に行っているのか否かはよくわからない。
 店主はカウンターに座るご年配と話し込んでいる。景気良く世間話に花を咲かせながら、ほとんどノラのほうを見ずにカフェラテをカウンターの端に置いた。それを、ノラがわたしのいるテーブルに運んだ。
「もう半分、新年に足を入れているようなもんだ。」ノラが言う。
「どういう意味?」
「諦めと自棄みたいなもんですかね。」
 口が止まらないのか、ノラはそのまま席へは戻らなかった。わたしの横へ細い身体をするりとくぐらせ、隣の席とわたしの席とのちょうど真ん中あたりに収まった。
「あの爺さん、ずっとマスターと話し込んでやがんだ。しかも、宝くじの話ですぜ? 当たりもしない紙切れのことを延々と。暇ったらありゃしないね。」
「夢があっていいと思うけど。」
「おや。あなたはおれと同意見だと思ってましたけどね。」
「同意見といえば同意見だけどね。」
「なんと。嘘がお上手で。」
 カラン、コロロン。ドアに取り付けてあるベルがのっそりとした揺れに躊躇いがちになると、二人目のご老人が杖をついて入ってきた。先にいた宝くじを夢見るご老人が元気に声を掛けるので、どうやら二人は知り合いらしい。
「単位は平気なの。」
 何の気なしに、ノラに聞いてみた。彼は肩をすくめて見せる。「あなたに心配されるほどじゃありませんぜ。」

 悲しみよこんにちはという言葉が似合うのは素敵な異国の十七歳の女の子だけであろう。

 マリオンは艶めく赤みがかった髪をシャンパン・ゴールドを纏った指先で梳きながら「あーあ。ふたご座流星群見られなかったなあ。」と言い言いわたしの隣へ座ってきた。
 それは冬のわりに暖かい日の一瞬のことであった。やたら風だけが強くて、わたしは何度も帽子を吹っ飛ばされた。そのくせ曇っていて、空の彼方で繰り広げられていたはずの流星群は沢山の人に待ち侘びられていたのに、ついに姿を見せることはなかったという。わたしは寝ていたのでわからなかった。
 マリオンはきらきらの爪を眺めて溜息をつく。星のことで頭がいっぱいなようだった。何も言わずとも、彼女の目の前にはココアが運ばれてきた。言わずもがな、ノラの手によって。
 彼女は知らないだろうが、今日はとある旅客車の廃車日である。わたしは特に列車が好きなのではないけれど、仕事に行くのに乗っているだけでその情報はいつの間にか頭に刷り込まれていた。駅前はいつも通りの賑わいであった。
 一昨日のことである。仕事帰りの列車で、大騒ぎをするスーツの群れが流れ込んできた。夜遅かったので、酒でも飲んでいたのだろう、良い歳をして、大きな声で喋っている。忘年会か、とぼんやり思った。きっと、自分の立場も年齢もマナーも、何もかも忘れてしまったのだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは、わたしなぞが決めるようなことではない。
 ただ、あらゆることを忘れて良い日というのは、なんだか素敵な響きを持っていると思える。

 十二月の折でさえ初雪なんか降らなかった。昨年は天から鍋やフライパンさえ降ってきたというのにだ。風に乗って聴こえる歌は、 Gloria in excelsis deo という遠い国の言葉だった。
「ミサだ。」ルーカスさんが言う。「大聖堂でみんな練習してる。」
 街の中には杉の木が点々と生えていたが、どれも等しく雪の衣を纏いはしなかった。不思議とさみしげな光景である。
 ルーカスさんと昨年のストライキは大変だったねと話した。そうそう、鉄の塊が空から落ちてきたのは、さじを投げた料理人および主婦たちの怒りの声だったのだ。とはいえ鈍器が空から落ちてくる様は、今風の言葉を借りて言えば「普通に危ない」はた迷惑なものだったけれど、公安が一日で鎮めてくれて事なきを得た。その一連の流れを何をするでもなく眺めていたノラは、公安が一言漏らした「こんな事があってたまるか。」という真面目一徹の正統派の愚痴に一日中狂ったように笑い転げていた。あれから、一年経つのか。
「一年が早いです。ルーカスさん。」
「きみはまだ若いから分からないかもしれないけれど、ぼくほどになるともっと短く感じるよ。」
「そんなに歳変わらないじゃないですか。」
「きみの三倍は生きてる。」
「うそつき。」
 ルーカスさんは学校に通っていた頃の二つ上の先輩である。
 三倍、とは随分大きく出たものである。読書の量でいえば、わたしが一生読む文章の三倍は摂取しているのかもしれない。ルーカスさんは学生時代から図書館が友達だった。ヒトの友達がいないわけでもない。その教養の豊富さと人望から、ルーカスさんは何処へ行っても人に囲まれる性質の人物だった。
「知識の量とか、そういう意味でした?」
「んー。なんのこと?」
「なんでもありませんでした。」
 わたしの三倍生きているルーカスさんに、わたしの言葉足らずの疑問は届かなかったようである。

 同じような不幸が訪れるのではない。人はそれぞれ毎日なにかしらの困難に立ち向かっている。「まただ。」そう思うときは、その類の不幸を貴方が乗り越えられていないでいるから、何度もぶつかっているように感じているだけだ。
 これほど真理に近い言葉を耳にしたのは、そう、おそらく七歳ぶりである。

 十二月二十七日。樫の木のドアを開けた。耳あたりの良い「カランコロン。」は今日は耳に届かない。おもわず上を見てやると、ベルが取り外されてしまっている。
「いらっしゃい。」店主はグラスを拭きながら言った。「今日は端へすわんないで、こっちへおいでよ。」
 店主の手招く先には、ノラだけが居た。今は、ノラしか客が居ないようだ。ノラを客と言っていいものか、そういったところから議論する必要があるなら、頭が冴えるようにチョコレート・ココアをオーダーせねばならないだろう。
「今ね、一年は早かったねって、おれが言ったところ。」店主は人の良い笑みを浮かべた。
「おれは、早かったなんて思わないんですがね。」
 ノラは、湯のみを持って緑茶を啜った。どう考えても、裏メニューとしか思えないシロモノである。
「お嬢さんはどう? 今年は過ぎるの早かったかな。」
「そうかもしれないと思ったこともあったけど、やっぱりそんなに変わらない気がします。去年も同じ早さで一年は過ぎていった。」
「ああそうなんだ。じゃあおれだけかあ、今年一年が早かったの。さすがだね、輝かしいね、二十代。」
「最後、三十路川柳みたい。」
「ださ。」
 ノラの放った二文字で店主は笑いながら憤慨する。それを見たノラが、史上最高に面白いものを見たとでもいうような人の悪い笑みを浮かべる。まったくもって対象的な二人がゲラゲラと笑うさまをその横で見るような、そんな年の瀬を過ごすなんて、まるで今年の集大成だなあとわたしは残念な気持ちになった。

「ルーカスさんってすてき。」マリオンは瞳の中にうつる光彩をゆらゆらうっとりさせながら、両手を口の前であわせた。「あたしの三倍生きてるんだって。」
「騙されてるよ。」すかさずわたしは突っ込んだ。でも、マリオンはどうでもいいという風に首を大きく振った。そのたびにスモーキーピンクの髪が揺れ、甘いいちごの薫りがする。
「騙されたっていいわ。」

 あした、きみは死ぬかもしれない。あさって、わたしは居なくなるかもしれない。

 私小説を書かう。
 と筆を持つまでして辞めたわけですよ。わかりますかね、お嬢さん。私小説なんかくだらない。不幸の積み重ねよりつまらない文の集まりですぜ。一つのことを言いたいがために、何百文字と捏造をでっち上げるなんて。酔っ払ったノラは、喉をひっかけひっかけそう言った。
 本当にそうだと思った。
 十二月二十七日。ドアベルの外された店の中で、流れに任せただけの忘年会が始まった。「おれたちは忘れる必要がある。」当然の権利のように、声高に叫ばれたのがそもそもの原因だった。この喫茶に酒のメニューはないが、店主とノラは家にあるだけの缶ビールを掻き集めて、ささやかな宴の幕を開いた。そして早速、ノラが酔っ払いに成り下がった。
 酒に強いらしい店主は、冷蔵庫の奥からケーキを取り出してわたしに出してくれた。クリスマス用の材料が余ったからさあ、と明るく笑う。本当のことなんだか、どうなのだか。
 わたしは、この場にルーカスさんがいてくれたらなと思った。店主とノラの埃が舞いそうなほどの古臭い漫談には飽き飽きだった。なにせ、これはもう今年一年たっぷりと見ている。気乗りがしない。
 じつは友人とけんかわかれをした。わたしがこの店へ来るほんの五分前ほどである。わたしが友人の集まりに顔を出さなかったことが原因だ。この手の不仲話は女子の中ではよくあることだった。
 決定的なけんかがなくたって、友情というものはだんだんと色褪せていってしまう。今そばにある人が自分の今のすべてで、その先もその前も、何ひとつ同じものなどない。そうやって独り前に向かって歩くのだ。それが堪えないようにするために、人は飯を食らうのであろう。ケーキなどでは、なく。

 さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。ノラが言った。世にも奇妙な年越しケーキだよ。
 いやいやいや。店主が言う。まだ二〇一五年だから。年越してないから。
 ノー・ノー。もう半分二〇一六年に踏み入れているようなものさ。冬至を超えた瞬間から冬の本番っていうのは始まっていて、ある種、一年の始まりは真冬から始まるようなものなんだから、もう年越しと名乗ったって不思議じゃない。第一、三百六十五日あるうちの一日も十日も変わりゃしないんだから、そんな細かいところばかり気にするなんて、きみ、どだい時代遅れっていうものだぞ。ノラが言う。
 店主はワイングラスをくっと傾けた(いつから缶ビールがなくなったのだろう)。「そういうの英語でなんて言うか知ってる?」
 ノラは外国じみた身振りで首を傾げてみせた。
「GOOD GRIEF!」
 そしてまた二人は大笑いをする。ノラは、意味をわかっているのだろうか。ちなみにわたしはよくわからなくて、その場ではただ苦笑いを穏やかな死海のボートのように浮かべているだけだった。家に帰ってキーボードを叩いて調べたら、画面に「ああ、呆れた。」という意訳が載っていた。

 煉瓦を積み上げて渡した橋があって、その真中でルーカスさんは時計を直していた。年末になると、人間が身勝手に区切った時間軸と自然の時間に僅かな隙間が出来てしまって、放っておけばあっという間に昼夜が逆転してしまう。その一年分のズレを、ほとんど凍って水位の下がった川の上にある橋のところで、調節を施すというわけである。街中の時計も、この時期すでに来年に合わせたものもあれば、今年のままの時計もある。そのため、年末の待ち合わせはちょっとした騒ぎになることもある。
 つじつまを合わせるために言っておくと、時計の針は年明け後の一秒から一年を均等に区切る速度で回っていないから、夏頃には結構ずれているのだそうだ。でも、一年の中で昼と夜の長さは引っ張り合って移ろいゆくため、人間は意外にもその科学的事実に気づかない。
 客は随分とまだらだった。別の目的があって橋を渡る人が、小さな木の椅子に座ってドライバーを片手に腕時計をこじ開けるルーカスさんを見て、もうこんな時期か、と気づいて、ついでに直してもらう、というくらいのものだった。年末の風物詩なのだ。
「ぼくからしてみたら、まだ二〇一三年の夏さ。」ルーカスさんはご婦人の華奢な腕時計を、結構乱暴に開けて、言い放った。ご婦人のうっとりとした表情を見る限り、彼が商品をずさんに取り扱っていることなんて微塵も気が付いていないのだろう。ルーカスさんは端正な顔立ちをしているので、人生がうまくいきすぎる。ご婦人は多めのチップをルーカスさんの右手にしっかり握らせ、足取り軽く橋を渡って行った。
「電池を交換していないことをそんなに格好良く言えるもんなんですね。」
「そうかな? お嬢さんも、詩でも勉強したらいい。」
 ルーカスさんはドライバーをチェスターコートの大きなポケットにしまい込んで、椅子を肩に担ぎあげた。閉店の合図だ。
「そういえば、きみ、まだノラと会ったりしてるの。」
「会うっていうか、店に行ったらいつもいるので。」
「ふうん。そう。」
 ルーカスさんはそれ以上何も言わなかった。これから何処へ行くのか訪ねると、市役所へ行くとの事だった。取られすぎた税金の帳尻合わせに行くんだとか。良かったら、それが終わった頃の、七時に待ち合わせをして、パスタでも食べに行きませんかと誘ってみた。
「それはもちろん、今年の時間のだね?」
 ルーカスさんは、世界中のやさしさをかき集めたように穏やかに笑った。

 待ち合わせの時間まで、いよいよ暇になってしまった。図書館は昨日で閉館してしまった。わたしはボンヤリ橋の上で、寒さも凍えも忘れて、頬杖をついてしまう。
 色々あったな。今年も。小さな溜息をついた。
 でも、そのほとんどを、もう忘れてしまっていた。きっと生きるのに不要だったのであろう。つまらない話は、必要がない。
 わたしの時計は、今年の時間を刻み続けている。このまま刻んでいったら、わたしはみんなより遅く歩いていけるのだろうか。みんなの一度歩いた安全な道を、踏みしめられるのだろうか……これもつまらない話なので、明日には全部忘れてわたしは時計の針を来年に合わせていることだろう。
 あと三日で、十二月が終わる。誰がどう思おうと、きっかり三日だ。そうしたら、今年のことは、いとしい過去になる。

初出 20151228
重複掲載あり
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