彼の王国

1
 彼のことを「夢かわいい」と評価した女の子は、じきに転校してしまった。

 わたしたちの通う学校は、えらく華々しいところにあった。芳醇な薔薇の咲く裾野をまとった高台に、絵に描いたような様式の建物が大きく構えている。これがわたしたちの通う校舎だった。まるでシンデレラに出てくるお城のようだ、と入学者募集要項には書かれている。校舎へ辿り着くまでに、赤や黄色や青や白などの花畑が続き、その道の向こうに広がる空は大抵晴れ上がっていた。みな白い制服を着て、その可愛らしい小道をにこやかに歩いている。それが毎朝わたしが見る光景である。
 そんな夢みたいな場所に、夢みたいな王子がいた。彼を、友だちの女の子は「夢かわいい」と言った。わたしは、その子から何のためらいもなくでてきた「夢かわいい」を一先ず耳の中に押し込めると、そのあと頭の中で十回くらい繰り返した。夢かわいい、夢かわいい、夢かわいい……。
 なんともメルヘンチックな響きだった。

 そもそも男性に、可愛いなんて軽々しく言ってもいいものなのだろうか? といった疑問は取り敢えず据え置きとしておくことにする。



 わたしが彼を初めて見たのは入学した年の六月だった。ロックンロールしか聴かないはずの友だちのリズが急に合唱部の部室へ行こうと言い出したことがきっかけであり、それはうんざりするくらい湿気の帯びた憂鬱な曇り空の放課後であった。わたしは突然の申し出に、書きかけの文章のつづきを綴るのをやめてリズを見た。黒髪に赤いメッシュを入れたリズは、得意げなマスカラの先にわくわくとどきどきを乗せた表情をしていた。
「急にどうしたの。部活の掛け持ちでもするの」
 わたしが尋ねると、リズは「知らないの?」と目を大きく見開いて言った。知らないよと言ってわたしは再び宿題をするためにノートへ向かい合おうとすると、リズは「ちょっと待った」と言わんばかりにわたしの肩を勢いよく掴んだ。
「セシルくんを観に行くんだよ!」
 リズは目をきらきら輝かせてそう言った。いつもはギターリフのことや今にも波に乗りそうなインディーズのバンドのことを喋ったりとか口数が減ったときにはドラムの声真似をして裏拍をとって遊んでいるはずの友だちが、このときばかりは夢見るお姫様のような素敵な目をしていたことにわたしは驚いた。
「セシルくん……?」
 そして、わたしは今では自分でも驚くべきところなのだが、セシルくんのことを存じ上げなかった。そのセシルくんが、まさに「夢かわいい」王子様のことだったのである。

 彼は合唱部に所属しているらしかった。テナーのトップ(テナーの中で二声に分かれるとき、高音を担当するほうである)でソロも歌えて、わたしが知るころにはちょっとしたアイドルのような存在となっていた。彼の高音はとてもよく伸びて、ゆるめにかかるビブラートが美しくて高尚だった。かといって合唱の中で悪目立ちすることもなく、彼が合唱に寄り添うように、もしくは合唱が彼に寄り添うように、唄う声はきちんと曲としてまとめあげられていた。
 これも後から知ったことなのだけれど、セシルくんの評判が拡がるのは光の矢の如く早々で、彼目当てに合唱部に見学にくる生徒が日々後をたたなかったという。セシルくんははじめから合唱部に入ると決めていて、入学式の次の日くらいに入部を決めたらしい。精力的に部活動に取り組んでいたためか、新入生歓迎のミニ・コンサートにも彼は歓迎する側で参加した。おそらくそこで彼が披露されたことによって、彼の人気に火がついたのだろうと思われる。

 わたしはリズに引き摺られ半ば渋々教室を後にし、きれいな内装の校内を腕を引かれ歩いた。リズはどんどん赤絨毯の階段を上に登っていく。合唱部の活動している音楽室は、ちょうど第一校舎内の一番上にあった。
 音楽室はまるでセシルくんのためだけに用意されたかのように、用意周到に整えられていた。音が上に響くように天井は高く、木の床はワックスがけがなされぴかぴかしていた。窓の外には大きめのバルコニーというか、空中庭園的なものが広がっていた。様々な花が咲いていて、石像なんかも置いてあった。一階にある美術部の部室とは比べものにならないくらい、そこは天国のようだった。
 合唱部の部員たちはグランドピアノの周りに集まり発声練習をしていた。入り口付近に椅子が並べられていて、そこには観客がすでに腰を落ち着かせてきゃあきゃあと話を弾ませている。観客のほとんどが、頬を紅潮させた女の子だった。わたしとリズはかろうじて空いていた後ろの席になんとか並んで座ることができた。
 発声練習の最中に、とある男性がピアノ周辺の輪から脱し、観客席に居る人々に呼び掛けた。
「ミニ・コンサートは一曲だけの披露になります。それが終わったら椅子を片付けますのでご了承ください。入部希望の方だけ申し出ていただければと思います」
 その男性は、のちのち指揮者だったということが分かるのだが、とにかく面倒臭そうにそうわたしたちに告げた。きっとわたしとリズのように、入る気もないのにセシルくん目当てで観にくる生徒が絶えないからだろうと思った。それは決して悪いことだらけでもないことだったと思うけれど、こうもびったり入り浸りされると練習にならないのだろう。
 発声が終わり、席の前に部員たちが列をなして並んだ。セシルくんは真ん中にいた。テナートップの立ち位置とはそういうものである。彼が足音を鳴らして真ん中に辿り着いた時、客席から小さな歓声が上がった。彼の金髪は照明に晒されさらに煌々と輝いていた。
 先ほどわたしたちに諸注意を述べた男子生徒は合唱と客席の隙間に割って入るように堂々と乗り込んだ。彼が間もなく腕を振り上げ、セシルくんは口を開いた。

 ぼくは君がみあげている君の空をみてみたい

 そんな言葉の連なりで演奏は始まった。アカペラで入り、「見てみたい」と言い終わりそうなところでピアノ伴奏が入る。恋に落ちる瞬間を捉えたかのような、とてもドラマチックな入りだった。

 君のまなざしの海にぼくの目を晴天の難破船のように静かに沈ませながら君の空の青をぼくの吐息で白くくもらす一瞬のためにそれだけのために何度でも君のいじわるな一瞥につまづいてみたい

 駆け抜けるように宝石のような言葉が次々と高く響き天井まで登っていく。わたしは釘づけになったようにそれに耳をそばだて、そして時どきセシルくんのほうを見た。身体を揺らし朗々と歌い上げているその姿はとても自然で、それは彼のあるべき姿なのだとわたしは錯覚した。もっともわたしはこのときが彼との初対面であり、彼にとってはもっと後にわたしとの初対面がやってくるのだけれど、とにかく彼の姿といえば歌ったところしか見ていないのにわたしはこれが彼の立つべき場所なんだと勝手に納得して勝手に強く感銘を受けた。そして、それはあながち間違いでもなかった。

 曲が静かなピアノの旋律で締め括りを迎えると、客席からは立ち上がっての拍手喝采が起こって、わたしとリズもつられて席を立った。椅子の脚が床に擦れて鈍い音がした。やがて拍手が止むと、わたしたちは指揮者にその場を追い出され、その美しい園を後にした。


2

 セシルくんにとってのわたしとの初対面は、わたしたちが二学年にあがったころの夏ごろだったとわたしは思っている。わたしとセシルくんは、二学年から偶然に同じクラスとなった。もともと隣の隣の隣のクラスにいたセシルくんは特進クラスの優待生で、わたしはその隣の隣の隣の普通のクラスの女子生徒だった。ところがわたしは一学年の年度末の試験で奇跡のような高得点を叩き出し、この度セシルくんのいるクラスへ振り分けられることになったのだった。わたしはその試験に向けてそれなりに勉強したので、本当はそれなりの結果になるはずだったのだけれど、たまたまヤマが当たりまくってしまったのだ。わたしには高得点をコンスタントに取れるほどの知能はない。
 ただ、それをきっかけにわたしはもう少しがんばって勉強してみようかなという気持ちにさせられた。相変わらず成績は特進クラスの中では後ろから数えたほうが早いのだが、それでもわたしは鈍い頭を働かせなんとか着いて行こうとしている。

 ところで、この学校は単位制である。自分の意志で授業を選択できるのである。そのため、わたしは特進クラスでホームルームや一部の補修を受けたものの、それ以外はリズや他の友だちと授業を受けたりご飯を食べたりして過ごしていた。なんとも自由な学校である。
 そんなわけでわたしは、普通クラスに残った友だちと行動を共にしている。
「セシルくんって普段どんな感じなの」という友だちの質問はかれこれ七十四回目にもなった。
「べつに、普通だよ」というのがわたしのお決まりの返事だった。
 同じクラスになって、季節は夏になったけれど、セシルくんとわたしの間柄はせいぜい顔見知りといったところだった。そもそもセシルくんはわたしのことを認知しているのかも怪しい。彼の席の周りには常にクラス問わず女の子の取り巻きがいて、彼は退屈する瞬間がなさそうだった。誰が差し出しているのか分からないが、毎日違う花束が鞄の横に所在なく置かれている。彼がその花をどうしているのか、わたしは知らない。風呂に浮かべてるのかな、と数学の授業のとき彼の背中を眺めながらふと思ったりした。本当にそれだけである。



 初夏の太陽がさんさんと降り注ぐよき日の放課後に、わたしは軽音楽部のライブに誘われた。リズの所属するバンドが新曲を披露するので、それを見に行く約束だった。音楽が好きな美術部の友だちを校舎脇の石像の前に誘い合わせている。どこで待ち合わせてもいいのだけれど、普段勉強をしている校舎と軽音楽部が活動を行っている古い別校舎の間にその石像が都合よくあったのだ。わたしは定刻より早く着いて、その石像の前で直射日光を景気よく浴びた。
 光が射すそんな真っ白い眼前の世界に目を細めていると、目の前で小さく金色が揺れたので、わたしは細めた目を元の大きさに戻した。その金色の正体は他ならぬセシルくんで、彼はわたしのすぐ横を通り、そばの花壇の前で跪いた。その一連の動作は、わたしが近くにいることをあまり考えていないようで、まさに「人目を憚らず」ともいえるものだった。
 彼は後手に持っていた花束をおもむろに胸の前に掲げ、丁寧にその薄紫色のリボンを解いた。そして、白いヴェールをゆっくりと外し、丁寧な所作とは裏腹に地面に向かって無配慮に落とした。茎の先にまとわりつく輪ゴムを外してそのまま手首へ収めると、その茎を一本一本ばらして、花を花壇へ一本、また一本と置いていった。黄色の薔薇だった。
 わたしはそんな彼の所作から目が離せなくなっていた。勝手に足が動いて、電光に吸い寄せられる羽虫のようにふらふらと彼のそばへ寄っていき、気づけばすぐ隣にまで達してしまった。彼は片膝をついたままでわたしに顔を向けた。彼がわたしに視線を寄越したのは、わたしの知る限りこれが初めてのことだった。真正面から見る彼の瞳は、幾分大きかった。
「その花束ってさ」
 わたしはそこまで口走ってから、喋るのを止めた。だれかに止められたわけではない。これ以上言ってはいけない気がして、極めて自発的に止めたのだった。
 セシルくんは長い睫毛を瞬いて、きょとんとした表情を浮かべた。その後彼は薔薇を見遣って、手の先にあるその黄色い花弁をそっと撫でて、「かなしいね」と言った。
「こんなことをしても、花は枯れていく一方なのに」
 彼は物憂げに薔薇を見つめ続けた。わたしはしゃがみこんで、その薔薇の一つを手に取った。その茎はひどくしなやかだった。
 彼の目線は花壇の薔薇を離れ、わたしの手に移った薔薇へと向けられていた。大きくゆっくりと瞬きをしたあと、彼はポケットから薄紫色のリボンを取り出してわたしの手首へ結び付けた。
「とても素敵だ」
 セシルくんの行動と言動にわたしはしばし絶句してしまう。そんなわたしをよそにセシルくんは立ち上がってその場を去ってしまった。わたしはしゃがんだまま、そのリボンと薔薇を交互に見比べた。ふくらはぎとふともものあいだに挟まれた膝裏には、じんわりと汗をかきはじめていた。



 わたしはその薔薇をそのあとどうしたのかというと、逆さに吊るしてドライフラワーにしてしまった。彼の言うとおり、それは枯れていく一方なのだ。それを止めることはできない。わたしも、セシルくんも、たとえ神様であっても。
 わたしはややこしい数式をノートにとりながら、左斜め前のセシルくんの背中を眺めた。セシルくんの足元には、アメジストのような美しい花束がある。わたしは、その花の行方を知っている。
「ねえ、セシルくんの合唱また聴きに行こうよ」
 リズは、授業のあとわたしをそう誘った。わたしは美術部の活動があるから、と言って断った。残念ね、とリズは言って、一部分だけ燃える情熱のように染め上げられた赤い髪を揺らし、別の友だちの元へ駆けて行った。


3

 風の強い日のことだった。飛行機が空を突き抜けるような轟音とその巨大な風圧には、有無を言わさない緊迫した雰囲気があった。白いちぎれ雲がとどまることを知らず流れてゆく。もうすぐたくさんの雨が降るらしかった。
 わたしとセシルくんは、他のクラスメイト二名とカルテットを組んで第一音楽室のグランドピアノを背に並んだ。先生が鍵盤を叩いて初音を示してくれる前に、ごうと風がうなって窓をがたがたと揺らした。わたしも二名のクラスメイトも少し怯むが、セシルくんはアンニュイな笑顔を浮かべたまま右手の指をぱちんと鳴らした。わたしたちはそれが合図であるかのように、すっと背すじを伸ばしてぐらつきそうな身体を保った。



 それは音楽の授業の一環でのことであった。そこに至るまでには、実に色んなことがあった。

 わたしは特進クラスではじめて友だちができた。セナという眼鏡の優しげな女の子と、ルイという黒髪の男の子である。特進クラスは総じて規律をしっかり守るタイプの生徒がかき集められていて、派手な格好や性格の生徒はいない。ぎりぎりのグレーゾーンをいく生徒は校内に一定数いるが、みな普通クラスに振り分けられている。リズのようにお化粧をしたりピアスをあけたり髪を染めているのは、グレーゾーンとして曖昧に受理されていた。
 ルイは、わたしの席からみて右隣りに座っている。セナは、わたしの前だ。挨拶をしているうちに自然となかよくなった。二人とも、とても頭のいい優秀な生徒だった。

 わたしの学校の自由ではないところの一つに、芸術系の授業は全部必須というところがある。美術と音楽と芸術全般という三つの授業があり、それらはすべて履修しなければならなかった。芸術全般とは、舞台や芸術史、文学などを取り扱う殆ど座学のようなものだ。この授業はとにかく眠くて、眠くなる授業を順に並べ替えるとしたら、真っ先にこの授業に手が伸びるだろう。それほどに、なんだか気の遠くなる授業だった。
 そして今日の芸術全般の授業においても、わたしは例外なく当てのない舟を漕いでいた。授業も中腹まで差し掛かったころ、わたしはルイに肩を小突かれ目を覚ました。
 そろそろ順番がくるぞ。
 彼は音を漏らさず唇だけを動かしてわたしにそう伝えた。手元のプリントに目を移すと、ルイはすぐに指差して次にわたしが当たるであろう設問の番号を教えてくれた。軽い会釈でルイにお礼を言うと、わたしはすぐにその設問に取り掛かった。わたしのプリントはよく見たら真っ白で、半分まで行われた授業がずっと筒抜けだったことがよく分かる。
 わたしは無事あたり触りない回答を行うと、そっと椅子に座りなおして再度ルイに会釈をした。ルイは微妙に笑ってそっぽを向いた。

 音楽の実技試験が課されたのは、その翌々日のことだったと思う。先生はプリントも配らず口頭で試験の概要を説明した。手元のメモ書きをほんの二十部ほど刷れば事足りるのに、なぜか先生はいつもそれをしない。
 試験の内容は以下のとおりである。四人で混声四部の曲を一曲歌い上げること。メンバーは先生がくじ引きで決めた。課題曲は短め。一週間猶予がある。評価はハーモニーの正確性や曲としての完成度を問う。
 わたしは、偶然にもセシルくんとセナとルイと一緒になった。こういった偶然は存外侮れないもので、わたしたち四人の関係性はこれをきっかけに仲の良い共通の友人に格上げされた。「偶然じゃないさ」とセシルくんなら言うだろう。「最初から決まっていたことなんだから」

 わたしたちは、放課後の空き教室で、まず音を取ることから始めた。小さなキーボードを音楽室から拝借し、はるばる別の教室まで運んできたのだった。
 一人一パート担当しないといけないので作業自体は個人個人でやらなければならないが、一時間ほどもするとさすがにセシルくんは音を取りきってしまったので、ルイの音取りを手伝っていた。まず、ルイは音符を読むのに精一杯だったから、セシルくんが代わりに鍵盤を叩いてやっていた。長年ピアノを習っているセナも音を取りきったらしく、
「進んでる?」と、わたしに尋ねてくる。
 その問いには「あと少しかなぁ」と答えた。
 わたしは、歌うことにかなり不慣れである。音痴ではないと周りは言うけれど、目立つことに後ろ向きということもあって、今までの人生は歌うという行為に対しても距離を取りがちになっていた人生だった。そういうこともあって、わたしはパート分けをするときアルトを志望した。正直低音はまったく響かないが、ソプラノを歌うわけにはいかなかったのだ。
「セナはさすが、音を取るのが早いね」
「ソプラノは音が簡単だから……それより、フェイのほうが大変だよね。アルトって音取りも苦労するし、歌っているうちに分からなくなってくるし」
 セナは眼鏡の奥で優しげな目をしてわたしを気遣ってくれた。わたしからしたら嫌な役を引き受けてくれたセナのほうが大変なのだけれど、セナはそうは思っていないらしい。わたしはありがとう、大丈夫、と言って、音取りに戻った。あと半分なのだけれど、その半分はやたら険しい道のりに思えた。
 かつ、かつ、と小気味良い足音が後方から聴こえる。セナは「お疲れさま」とわたしの後方へ声かけた。後方の人物はセナと同様の言葉を、華麗とも言えるテナーボイスで返す。わたしは鍵盤を押す手を止めた。
「進捗はどうかな? 始めのほうだけでも合わせられたらと思うんだけど」
 わたしは後ろを振り返った。セシルくんが、長い睫毛に縁取られた大きな目をぱちぱちとさせていた。セナはわたしを気遣ってか「うーん……」と言ったままはっきり返事をしない。わたしは一秒ほど考えたあと、「合わせよう」と言った。我ながら、この場面に一番あう回答をしたものだ、と思った。
「オーケー、その場でいいから、みんな声を出してあわせていこう」
 セシルくんは自分のキーボードや荷物が置いてある席まで戻って、ペンケースからペンを取り出して、とんとんと机を叩き出した。一泊につき一回叩いているらしい。それぞれがキーボードで初音を確認し、セシルくんの合図を待った。
 いち、にい、さん、はい。
 それを見計らってわたしたちは自分の音を鳴らした。セナの声はきれいだけど小さく、セシルくんの声は高らかだけどわざと控えめにしていて、ルイの声は大きかった。わたしの声は、機械みたいだと自分で思った。
「んー……」
 セシルくんが合唱をとめ、笑顔を浮かべたまま考え込む。
「音外してもいいから、一回思い切り歌ってみようか」
 いち、にい、さん、はい。
 全員で大きな声で歌う。今度は、セナの声だけが埋もれてしまう。
「じゃあ、ルイとぼくはもう少し音量を下げよう」
 いち、にい、さん、はい。
「ここのハーモニーの和音、ちょっと気にしてみて。この音ね」セシルくんはジャーンと鍵盤を鳴らした。「じゃあいくよ」
 いち、にい、さん、はい。
「そしたら、次からここは……」

 そんなことを一時間ほどやって、その場はお開きとなった。音楽室へキーボードを返しに行って、薄く夕闇がかった空を見つめながらわたしたちは丘の下り坂をくだった。
 丘をくだったあとは、全員がばらばらの方向へと散った。わたしたちは本当に、東西南北にそれぞれ分かれるようにして帰路を行った。

 それから、練習はあと二回ほど行われた。部活の合間を縫って参加していたため、二回目の練習の後はそれぞれの部活へみな足を急がせた。ルイはバスケ部へ、セナは吹奏楽部へ、わたしは美術部へ、セシルくんは合唱部へ。四つの小さなキーボードはルイとセシルくん二人の腕で抱えるのに十分で、二人は紳士に振舞ってすべて片付けてくれた。わたしは空き教室を出て一回の美術室へ向かう間に、ギターを背負ったリズとそのバンドメンバーとすれ違って、手を振って挨拶した。

 美術部の部室へ向かうと、もうそこにはいつもの半分ほどの部員しか残っていなかった。美術部はどこの部活よりも自由で、課題さえこなしていれば帰ってもいいし別の場所で描いたっていいし、そもそも部室へ顔を出さなくたってよかった。とはいえ、数々の絵の具や筆など、部費でまかなっているものを借りることができるので、わたしの場合は外でスケッチを取るにしても一度部室に寄らないといけない。いけない、というか、お財布の事情的に、ぜひそうさせてください、というのが実情である。
 中には、大学のグループ展にも呼ばれる先輩もいた。そういう先輩は何かしらから援助を受けていて、わざわざ部室へ顔を出すことも少なかった。それでも部活内の課題はこなし、複数校集まる展示にも絵を描き下ろし、我が校の評判を吊り上げている。その先輩を羨ましいと思うと同時に、わたしは手を伸ばしても届かない、雲をつかむような話だと思っている。

 結局その日、作業は大して振るわなかった。他の部員も「今日はもういいかな」なんて適当なことを言って帰っていく。大方の部員がこのように適当である。もちろん、わたしも含めている。
 わたしもほんのすこし前回の続きをおこなって、帰ることにした。本当にすこしだけ絵の印象を強めただけの作業だった。
 まだ二、三名のメンバーが残って作業をしている部室を、わたしは控えめな挨拶をして抜けた。窓の外はもう暗い。どちらにせよ、もうじき残った部員たちも用務員によって追い出されることだろう。わたしは蛍光灯がかちかちと点滅した廊下を行った。
 外へ出ると、空には星が一つまた二つ瞬いていた。わたしは小走りになって、ローファーを鳴らしながら野道をくだった。石像の横を通ろうとすると、右目の端に暗がりの中でも輝く金色を見た。思わず足を止めてそちらを見ると、そちらのほうもわたしを見た。その金の主、セシルくんは、ふわりと気だるげな笑みをして
「やあ、こんばんは」と言った。
「また、捨ててたの」
 わたしは侮蔑も賞賛もしない声色で問うた。セシルくんは困った様子で顔を背け、「やだな、フェイちゃんたら」と言った。セシルくんは後ろの手で残りの花をぱっと蒔いた。こっそりやったつもりなのだろうけど、その白い花びらはわずかな光を跳ね返してわたしの目へまっすぐ飛び込んできた。
「いっしょに、帰ろうよ」
 誤魔化すようにはにかんだ彼の誘惑に、わたしはなす術も無く肯くことしかできなかった。

 セシルくんとわたしは二人肩を並べて歩いた。セシルくんの身長はわたしの頭一つ分上に突き出ていて、彼のその長い足は、わたしの歩調にあわせゆっくりと彼の身体を運んでいる。しばらくの間、会話はなかった。
「フェイちゃんは、どうしてアルトへ?」そのセシルくんの問いかけがされたのは、肩を並べ始めてからかなり久々のように思われた。
「どうしてって」
 わたしは問い詰めるかのようなセシルくんの真っ直ぐな瞳に射抜かれてしまう。わたしは観念して
「目立ちたくないからだよ」そう答えた。
 セシルくんは「ふうん」と言って前を向いてしまう。横から見ると、より睫毛が長いことがよく分かる。程よく高い鼻の先はほんの少しだけ上を向いていて、生意気なティンカー・ベルのようだった。くちびるは薄く、血色がよい。赤に肌色を滲ませて塗ると丁度いいかもしれないと思った。絵を描くとしたら、の話である。
「ぼくは」セシルくんが形のよいくちびるに言葉を乗せた。「きみの声はソプラノだと思う」
 え、とわたしは訊き返した。おどろかないで、とセシルくんは微笑む。
「きみの紡ぎ出す音はきっと、もっともっと高く響くほうが似合う。スターダムに登れる声さ。ぼくは、そう思うよ」
 そのとき、一際強い風が吹いた。後ろから背中を押すように吹いた風は、わたしとセシルくんの髪を前方へ薙ぎ倒す。髪の隙間から見るセシルくんの横顔はほとんど隠れてしまっていたけど、上から順に長い睫毛、ほんの少し上を向いた高い鼻、そして薄いくちびる……に笑みをたたえている。
 セシルくんほどではないよ。それが、わたしの口から放り出すことのできる最大の威勢だった。彼は笑った。それこそ、緑の服を着たおとなにならない少年のように、高くて無邪気で、どこか寂しさをもった声で。
 星は素知らぬ顔で燦然と輝いている。

 そうやってわたしたちは、合計三回の練習を重ねた。その三回で、本当はもっと必要なくらいだけれど、それなりに聴けるものにはなったと思う。セシルくんからしてみたらきっと物足りない出来だと思うけれど、これがこのときのわたしたち四人の精一杯だったし、この音が四人の始まりだったとも言えるだろう。



 風の強い日のことだった。飛行機が空を突き抜けるような轟音とその巨大な風圧には、有無を言わさない緊迫した雰囲気があった。白いちぎれ雲がとどまることを知らず流れてゆく。もうすぐたくさんの雨が降るらしかった。
 わたしとセシルくんとルイとセナは、第一音楽室のグランドピアノを背に並んだ。先生が鍵盤を叩いて初音を示してくれる前に、ごうと風がうなって窓をがたがたと揺らした。わたしもルイもセナも少し怯むが、セシルくんはアンニュイな笑顔を浮かべたまま右手の指をぱちんと鳴らした。わたしたちはそれが合図であるかのように、すっと背すじを伸ばしてぐらつきそうな身体を保った。
 いち、にい、さん、はい。
 わたしたちの時間が、動き出す。



 評価はおおむねよく、わたしはその学期の成績表で初めて最高評価をもらった。


4

 詩人は早死にをするというが、それはどこまで本当のことなんだかわかったものではない。早死にをした人がたまたま有名になっただけかもしれないし、取り分けもともと早死にしそうな人が決まって詩を書きたがるだけなのかもしれない。どれが真実というわけでもないのだろう。唯一事実と言い切っていいことがあるとすれば、一定数の詩人は結構早めに死んでしまった、ということに尽きる。
 美しい言葉を並べてきた偉人に対してわたしがこのように思いを馳せるようになったきっかけは、先ほどの授業で先生がふとその話に触れたからである。とくに初耳というわけではなかった。詩人は早死に、はよく聞く話で、噂はかねがねといったところだったが、なぜ詩人だけなのだろうと考えるまでに至ったのは今回が初めてであった。
 わたしは、「詩人は早死に」という言葉を、そろそろこの言葉を連発するとバチか何か当たってしまいそうだが、思い浮かべてみると、とても美しい言葉をきれいな声で吐き出す薄命な麗人がぼんやりと輪郭を露わにしてくるのだった。それはとてもピントの合わない写真のようであったが、その写真の中にわたしはセシルくんを見ていた。セシルくんが詩を嗜むかどうかはわからないけれど、わたしはなぜだか、彼は早くして死んでしまうのではないかと、そう思ったのだった。
 すでに切り落とされ命を失った花を花壇の煉瓦のふちに追いやるセシルくんの、きれいでうつろな瞳。
 それはわたしの想像内のぼんやりとした彼の虚像の中で、やけに鮮明な色をもっていた。



 わたしは学校内の図書館で夏休みの課題図書を探していた。この休暇で、近現代の文学を五冊読まなければならない。年代さえ守られていればどの本を読んでも自由だったので、わたしはできるだけ有名どころの本を借りたかったが、希望の本はすでに他の生徒に貸し出された後だった。夏季休暇中であっても貸出期間は二週間のため、休暇の中腹くらいになれば真面目な生徒は返しに来るだろうが、確たる約束ではなかった。いつだって、これからのことで確実なことなんて、そうない。ただ一つ確実なのは、人はいつか死ぬ、くらいのものではないだろうか。

 わたしは結局一冊だけを借りてその場を後にした。海外の作家の書いた本だった。背表紙の表題に惹かれ手に取り、真ん中あたりをおもむろに開いたら、素敵な言い回しが洒落た訳で記載されていたので、借りることにした。
「きみはそんな理由で、窓から飛び降りたっていうの? 靴下も履かないで」
 その台詞に至るまで、一体どのような事の顛末があったのだろう。読む前に予想してみるが、大体の場合において、そのシーンの雰囲気は読む前と読んで辿り着いた際とでは大きく異なる。

 意外な取り合わせではあるが、図書館とプールはすぐそばにあった。図書館は四階にあって、四階にはその図書館とプールしかなかった。プールの真上は、空だ。つまり、この建物は六階まであるが、プールのある箇所だけ四階が最上階なのだった。
 このプールは水泳部専用のプールだが、水泳部の活動がないときは一般の生徒でも入る事ができる。白い壁で取り囲まれていて、水の張っている部分は鏡のように空模様を映していた。
 わたしはその水面が見たくて、ふらりとついでのつもりでプール・サイドに寄ってみたのだ。透明なガラスのドアに手を掛けると、そこにはセシルくんがいた。わたしは、一瞬開けることを躊躇する。ただし、耳のいいセシルくんに勘付かれてしまったわたしは、プール・サイドへ足を踏み入れざるを得なくなってしまった。彼はわたしのたてた僅かな物音に注意を向け、その音の主がわたしだとわかると、小さく手を振ってきたのだった。

 じりじりと熱い白い床の上を進むと、白い制服に身を包んだセシルくんが「きみも涼みに来たの」と言った。本当はプールの水面の揺れをただ眺めるためだけに訪れたのだけれど、まあ似たようなものかと思ったので、わたしは肯定した。
「あついね」
 当たり障りのない言葉をセシルくんに投げかけた。セシルくんは微笑を浮かべて何も言わなかった。セシルくんは本当に暑さを、肌にぴりぴりと這うような熱を、感じているのだろうか。彼は汗をかいていない。でも、涼みに来たと言っている以上、わたしの疑問はすでに答えが出ているようなものだった。
「水面を見てると眠くなるね」
 セシルくんはぼんやりと頬杖をついて言った。頷いて、わたしも静かに揺れる水面を見つめた。
「フェイちゃんは知ってた? 水面や炎の揺らめきは、1/fゆらぎといって、不規則で予測不可能なものなのさ」
「言われてみれば、確かに」
「それを見て眠くなるのは、人も1/fゆらぎで出来ているから。だから、響き合うのかもしれない」
 セシルくんは手を水面に差し入れ、ゆっくり弧を描いた。わたしはセシルくんの白くてやや大きい手を見て、そのあと自分の小さくて指の細い手を見た。同じく生きているのに、あまりにも不揃いな出来だった。

 厭きたところでセシルくんは立ち上がって、プールを見下ろした。落ち葉の一枚でさえも浮かんでいない大きな鏡に、セシルくんの色素の薄い影が落ちた。
 わたしも一緒になって立ち上がると、セシルくんは急遽わたしの手を取る。不揃いな手と手が重なりわたしは反射的に身を強張らせてしまうが、彼はお構いなしに繋がれた手を引いた。くらり、とプールに落ちそうになって、わたしはすんでのところで踏みとどまり、セシルくんの手を逆に引いた。
「おどろいた?」
 彼は笑った。
「ぼくはプールに落ちるつもりで、きみの手を引いたんだよ」
「本が、だめになる」わたしは狼狽えながら言った。このまま飛び込めば確かに本はだめになるが、さして決定的な断り文句でもないのに、どうしても混乱のせいでこの言葉しか出てこなかった。
 セシルくんは丁寧に本を奪い取って、プール・サイドに置いた。
「これでいい?」
 セシルくんは再びわたしの手を取った。
 セシルくんが話すように、不規則なものが不規則なものを好むのだとしたら、それはなんて混沌とした世界なのだろうと思う。でも、わたしたちは間違いなくその世界で息をしていたし、混沌と自覚せざるを得ないそれは、きっと見る角度を変えてみたら案外単純なつくりだったりするもののような気がした。
「おいで」
 確約など何処にもないが、当てのある直感は幾らでもあった。



 自室のアイボリーがかった白いシーツを窓辺に干してしまうと、それはカーテンのように風にゆられ、遮光したり光を招いたり慌ただしく働いた。わたしはその脇で、濡れずに済んだ本を開いて読んでいる。
 小説の中の彼が靴下も履かず窓から飛び降りたのは、捕まえた蝶々が窓から逃げてしまったからだった。その彼は、貴重な珍しい蝶々だったから仕方のないことなのだ、と言っている。しかし彼はその代償として、左足の骨折に見舞われている。

 わたしがプールに落ちたとき、身体を纏う布が次々に乾きを失い、水と一緒になるのを肌に感じた。セシルくんの金髪が目の前で揺らめき、そのきれいな双眼と鉢合わせになる。彼の肌は、空の色合いを吸収した水の中だということも相俟って、少し青みがかったように見えた。
 わたしの身体は、揺らいでいる。
 セシルくんの身体も、揺らいでいる。
 大きなうねりを持ってわたしたちを包み込んだプールは、わたしたちの声も酸素も吸い込んで、静かにただひとつになった。

20150804-0810
未完です。
重複掲載あり
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