甘やかな爪

 朝、彼が起きる時間は新聞配達員が夜明けを知らせるのと同じくらいで、わたしはいつも隣がぽっかり空いた感覚をおぼろげに察しながら目を開けるのだった。彼は紅茶でも淹れているのだろう、部屋の外からはとても素敵な薫りが漂ってくる。コトコトとケトルが揺れる音や紙と紙が擦れる音、缶を机に置くにぶい音が遠くでマーチングを行うかのようにかすかに朝のリズムをとっている。わたしはその朝の音を聞いてわけもなく悲しい。彼はおそらく、とんでもなく涼しげで清々しい朝だと思って過ごしている。

 わたしがこの頃描く絵は線と線とがうまく合致しない明らかなる落書きだった。それでも無力感にしたがい筆を取ることすらしなかった時期から比べたら、この最近はようやく調子を取り戻してきたし、前よりもよき感覚で描けているという予兆すらあった。でも、線と線とが折り合わないのである。折り合わないとどう見えるかというと、まず少し不自然だし、物体として成り立たないというか、不発弾というか……良くないように見える。

 彼の素敵なアッシュグレーの髪色と髪型が憎い。すらりとした体も、高い鼻と少し垂れた目とつり眉の格好いい風貌も、朝こうして意識が高そうな暮らしぶりを発揮するのも。芸術的なのだ。生き芸術である。わたしが髪を振り乱している間、彼は万年筆を握り幼馴染の青年へ書簡をしたためているのである。その幼馴染も大概こうして生きた芸術みたいに息をしているのであろう。

 息をするだけでわたしの見たい芸術に達するなら、こんなに心が苦しいこともないのに。
 当てどころもなくそう思うのである。

 彼は毎朝紅茶が入ると、その淹れたてをわたしに振る舞おうとして、一度は寝室に戻ってわたしの顔を見る。大体、その清々しい彼の表情を威嚇している猫のように凝視するのが毎朝のわたしである。起きているなら紅茶でも、と彼は言った。わたしは頬に触れた彼の手を取って暫く黙っていたが、何の気なしにその彼の人差し指の先を噛んでみた。味がしない。でも、無味無臭の毒薬みたいに全身に敗北感が駆け巡った。
 彼は完璧に笑っていた。



 彼女はおれが紅茶を沸かす騒々しい音で毎朝目を覚ましてしまう。そもそも眠りの浅い彼女はシーツの擦れる音ひとつでも現実世界に戻ってこれるほど、夢の中へ逃避のできない体質らしい。悪夢ばかり見て毎晩うなされている。彼女の目の下のくまの何パーセントかを、おれの朝立てる音が占めている。

 おれの仕事は塾で学生たちに現代文を教えることである。言うほどに骨の折れる仕事ではない。英国の文学が好きなおれは、大学時代に英米文学の研究をしたのちこの職についた。彼女とは町の骨董品店で出会った。彼女はその店のアルバイターで、まじまじと昔の切手の選別をカウンターで行っているところを、おれから声を掛けたのだった。彼女はそのころから常に寝不足みたいで、理由を聞くと「絵を描いていると時間も空腹もすべて忘れてしまう」ということらしかった。

 彼女にはいつも一定の影があった。落ち着いていて、風変わりなニュアンスの語彙で話し、なにより感覚が常人を逸していた。アンニュイというより、日々なにかに絶望しているような……但し、鬱状態などの病気を抱えているわけではないような……考え方としてのネガティヴさがあった。どうしてこんなにもうなされながら彼女は生きているのだろう。美味しいものを食べて幸せを感じたり、花畑をみて心を踊らせたり、海に開放感を覚えたり、そういうものが彼女を見る限り、ない。唯一、おれの姿をぼうっと夢中で少し高揚して眺めていることがあるくらいだろうか。おれはそんな彼女の不思議さに魅かれたことや、おれが居ないと駄目になってしまうのではないかという少しの自惚れもあって、彼女の側にいる。

 いつか彼女に両手いっぱいの花束をプレゼントして、その薬指に指輪をはめて、幸せにしてやりたい。
 小銭を毎日溜め込みながら、おれはそう思うのだ。

 おれは毎朝紅茶を淹れた後、目を覚ましてひとりうずくまっている彼女を迎えに行く。彼女はさきほどまで見た不思議な夢から醒め切れないような、なんとも儚げな表情をして横になっている。おれは彼女の手をとって、起きているなら紅茶でも、と誘う。彼女は答えあぐねているのかしばらく黙っていた。おれは彼女の手に口づけをするついでに指先を軽く噛んでみた。彼女の爪は砂糖菓子に触れたみたいに微かに甘く、誘惑的であった。
 彼女の目は切望に満ちていた。

初出 20151004
重複掲載あり
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