わるい人間関係

 幼少期のころの話をひとつ、思い出した。古い水で不透明にくすんでいるグラスをキッチンで見たときに、本当に偶然に思い出したのである。透明がかったぼくの幼心は、あのときから確実に曇りだしていたのだと思う。それは、思春期の煮え切らない苛々だとか、ゆきどころのない眼差しとか、そういうものとも少し違っていて、もっとはっきりと残酷さを帯びてぼくの心の底にこびりついているのである。
 十歳のころだ。クリスマス目前の、幸せな日々だった。ぼくはひとり、サウス・ロウ二丁目通り公園へ行った。公園にはぼくより小さい子たちしかいなくて、それも一歳や二歳年下なだけではなくて、ぼくの腰ぐらいの背の高さしかないよちよち歩きの子どもたちだけだった。ぼくの友だちもそうだけれど、みんな遊ぶとしたら近ごろは家でレトロ・ゲームだ。自分の家でも、友だちの家でも。寒い冬には公園で遊ぶという選択肢も消えてしまうのだろう。ぼくもゲームは好きだ。兄が二人もいるおかげで、古い年代もののカセットも家にあるし、友だちと遊ぶときは決まってゲームをやる。でも、今日は違う。クリスマス・イブに外に出ないで何をするっていうんだ?
 公園に入ってしばらく周りをふらりと歩いていると、ブランコのところにシャロンが居るのを見つけた。シャロンとは幼馴染みで、通っている学校のクラスメイトでもあった。ぼくは彼女に声をかけながら、空いているブランコへ飛び乗った。彼女はすごくびっくりしたけれど、すぐにほっと笑ってくれた。それが、ちょっと尋常じゃないくらいの安堵した表情だったので、ぼくはどうしたの、と尋ねると
「ルーカスが来てくれたら良いのになって思っていたところだったから。」
 となんでもないようにブランコを漕ぎだすだけだった。ぼくもうれしくなって、ブランコを彼女より高く漕いだ。

 クリスマスの朝、枕元にあった一冊の児童小説に心躍らせながらリビング・ルームへ行くと、兄二人が怪訝な顔をしてせんべいをかじっていた。ケーキはどうしたのだろう、ぼくはケーキを食べようとして三階の部屋から降りてきたのに。そして二人は、ぼくの顔を見るなり小声で話し始めた。ぼくは、今でこそそんな勇気はないものの、そのときは無邪気に「どうしたの?」と聞いてしまった。兄たちは顔を見合わせて少しのとまどいを見せながらも、自分たちも抱えきれないといった様子でぼくに打ち明けてきた。
「おまえと仲の良いシャロンって子、いるだろう。親父からセーテキギャクタイ受けてんだってさ。」
 ぼくは兄たちの言っていることが何一つわからなかった。長兄は十七歳、次兄は十四歳、ぼくは十歳だったのだ。おまえ、ギャクタイくらいわかるだろ。次兄が言った。でも、ぼくは、わからなかった。
「いいよ、わかんなくて。ルーカス、これ、周りには内緒だからな。大人とかにギャクタイって何? って無邪気に聞くんじゃないよ。」
 ぼくは、どうして、と聞いた。長兄は、どうしてもだ、と言った。結局、ぼくはそのときの兄たちの気まずさや苦しさなどをまったく汲むことをできず、何秒か後にはケーキを出して食べていた。
 今なら、ぼくはこのときの兄の気持ちも、周りの人々がシャロンをどんな目で見ていたのかも、まるでそのときその場で見て感じていたとでもいうように解ることができる。でもぼくはクラスメイトの女の子のように目ざとくもなければ、同い年の男の子のように思春期の自我が目覚めたり悶々とすることもなかった。驚くほど無欲で、無知で、自分で言うのもなんだけど、無垢、だったのだ。
 ぼくはその日シャロンの家を尋ねた。シャロンは自分でドアを開けてくれて、おはよう、と言った。ぼくは挨拶もそこそこに、遊びに行こう、と誘うと、シャロンは嬉しそうに何回も肯いて、ちょっと待っていて、と言ってドアを一回閉めた。次、そのドアが開かれた時には、マフラー手袋コート帽子を身につけたシャロンが出てきて、あそびにいこう、と言った。ぼくはそのシャロンのか細くて凛とした声に、なぜだか、無性に心が苦しくなる思いだった。
 ぼくは昨日もいた公園へシャロンを連れて行った。寒々しい風のふく公園は閑散としていた。そういえば隣のクラスで流行り病が流行っていたんだっけ。もう冬休みだけれど、みんな病気になってしまって、シャンメリーも飲めずリレンザを服用しているのかもしれない。
 シャロンは両手をすりあわせてほっぺに当てた。こんなことを言うと人でなしだと非難されてしまうかもしれないけれど、ぼくは、シャロンの抱えている病はあの憎き流行り病より深くて重くて治らないものなのではないかと思うようになった。その、兄たちの言うナントカ(忘れちゃったよ)は、決して明るい話ではないと思えたので。病気は、つらいけど、治すことができる。
 ぼくは蛙のがま口の財布を取り出して、百五十円、自販機に入れた。あったかいココアのボタンを押して、ガコンと出てきた缶をそのままシャロンの手袋で覆われた両手に乗せる。シャロンは戸惑って受け取らないようにしていたけれど、ぼく甘いのきらいだから、と言って無理やり持たせた。ぼくは、水が好きなので、九十円に値下げされていた水を買った。それで、ベンチに座って談笑でもしようと思ったんだ。今思うとおよそ十歳の遊びではない。
 ベンチに座って三秒くらいだったと思うんだけど、シャロンは小さく声をあげて俯いてしまった。ぼくは慌てて水を置いて、シャロンの顔を覗き込んだ。シャロンの目には涙が浮かんでいた。ココアを持ったまま肩を震わせて、小さく小さく押さえつけるようにしゃくりあげながら、でも涙はつぎつぎと溢れてしまって、シャロンもどうしたらいいのかわからない様子だった。ぼくは女の子が泣いたときのハウツーを郊外の森に住む伯父さんに教えてもらっていたから、慌てずシャロンのココア缶を再びぼくの手の中に収めて、そのプルを引いてやった。シャロンはすこし唖然としてしまったようだが、ぼくは伯父さんから女の子が泣いてしまったら普段通りに接してやれと教えてもらっていたのである。
「はい。」
 ココアを再びシャロンに渡す。シャロンははらはら涙を流しながらもココアを飲んだ。
「だれにも言わないでね。」シャロンはそれが何のことを指しているのかまでは言わなかった。「だれにも……。」
 ぼくは繰り返し、わかっているよ、と言い続けた。そうして普段通りに、ぼくは水を飲んだんだ。それで、彼女が落ち着いた頃に、結局何をするでもなく解散した。その三日後彼女は引っ越してしまった。

 ぼくの周りはいつもそうだった。ぼくの気づかないうちに、壊れていくんだ。
 おそらく、なんだけれど、ぼくはきっとそういう生まれなんだと思う。

初出 20170804
随分前に書いたもの、未完
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