面妖

 いらっしゃい。よく来たね。お酒でも飲みますか、寒いから。ウォッカなんていいかもしれないねえ、確かそこの戸棚へ大事に大事に隠していたんだよ。なんでマスクしているのかって? そりゃあ、風邪をひいてしまったからね。でも、お酒はべつだよ。もちろん、そのまま飲むのはさすがに莫迦だから、モスコミュールにでもしてやるけどね。貴女も? ではそうしませう。
 氷が解けていくのを見ているのかい? 随分すてきな趣味をお持ちだね。アルコールと水の混じり合う様は、まるで何かの生き物のようだよね。おれはロックで嗜むたびにそう思うのさ。さあ、何しにきたのだっけ。……ああ、話ね。そうそう、おれが此の間見た夢の話、その続きが聞きたいと。じゃあ、話すけど、そのグラスが空になったら終わりにするから、そのつもりで。


 自分のきらいなところを組み合わせて創り上げられた人間は、どれほど憎い存在になり得るだろう。わたしはそんなことを一日の終わり、歯を磨く瞬間に、自らのぼんやりとした表情を鏡越しに眺めながらそっと考える。

 手先がしびれるように冷たい。裸足の右足の裏を左足のふくらはぎに当てて、その熱をありありと感じ独りしずかに驚いた。その小さい部屋で歯を磨く音だけが適当なリズムを持っていて、あとはてんででたらめだった。
 冬の静寂、だ。

 孤独というのはどういうもののことを言うのだろうと、わたしは二十歳を折り返して初めて考えるようになった。こころを襲う冷たい波のことだろうか。わたしは、たくさんの人に囲まれて生きている。職場に大勢話せる人がいて、恋人と一緒の部屋で暮らしている。家族と疎遠な友だちとは、わたしが距離を掴めないためにうまくいっていない、と思う、もしかしたらそう思っているのはわたしだけかもしれない。どうも、うまく笑えもしなければ、話もちっとも面白くない。
 人間みな孤独だ、という解は今ひとつ納得できない。多分、ちがうから。
 毎夜そういうところまで考えて、寝る。

 救いなんてものは初めからないと思って然るべきものかもしれない。春は必ずやってくる、明けぬ夜はないなどと、それとこれを一緒くたに考えるやり方は時に誰をも救うことができない。人の言語には明るい言葉よりも暗い言葉のほうが数が多いという。つまり、良いことよりも悪いことのほうが口をついて出てくるのと同時に、これはこうだった、あれはこうだった、と細かく分類せずにはいられないのだ。そういうものなのだ、結局。だから、薄っぺらい明るい言葉よりも、ネガティヴな言葉のほうがより一層親身で信頼できる。そうやって暗やみは人から人へ伝染して、煩雑になって、憎たらしくなって、しだいに真っ黒になる。みんな、口を開けるとタールで塗れたみたいに真っ黒。
 こんな夢を見ては目が覚め、朝陽を浴びるともうどうでも良くなってきていたりする。きっと、そうでないと、人間は一歩たりともそこを動くこともできずわめく気力もなく、ただ淡々と無為徒食をするだけ。生をむげにするだけなのである。生きていくって楽しいね。そう思わないと人は生きていけないから、止む無しに陽の光を浴びると元気が出る仕組みになったのだろう。でも、そろそろそんな時代も、終わりだ。わたしは、冴えた頭であくまで前向きに思う。ひとは、暗やみの中でも損なわずに生きていくすべを身につけないと。
 わたしは家を出た。そうしたら何かが違っていた。街は朝だというのに夜で、夜にしか見えないのに時刻は朝八時を指していて、住宅街がネオンに包まれていた。ギラギラン。街の人は一様にサングラスをかけて、ジャラジャラとアクセサリーをぶらさげていた。疑りぶかく、他人と目を合わせず進んでいくと、青空と草原が見えてきた。草原の小高い丘に立ち尽くす少年がいる。なにか生き物だったものの面を被っている。わたしはその少年の顔の向きから、わたしを凝視していることを汲み取った。わたしはボンヤリとその少年に近づく。
「きみは、自分のことをどれほど知ってる?」
 少年は不気味な面を無表情にこちらに向かせ続けて言った。
「自分のことを把握している人なんて、いるのかな」
 少年はわたしを指差した。わたしは、顔の周りが生暖かい気がして、両の手で顔に触れた。なにか、ふさふさした被り物をさせられていた。
 少年は走り出した。まるで誰かと追いかけっこでもするように、あたり一面駆けた。わたしは自分に課せられた面を取ろうと躍起になった。動揺と恐怖とが混じり合って、手が思うように動かず、結局なにかしらの獣の毛並みをすこし損なわせただけだった。
 それから、わたしはいつの間にか抵抗することも辞め、小高い丘に立ち尽くした。しばらくボンヤリしていると、麓から一人女の子が登ってくる。わたしは一瞬目を瞠った。わたしの顔に似ている。でも、わたしの顔って、どういうものだったっけ。すぐにそれはわからなくなってしまった。今自分の頭部に張り付いているのは、表情さえわからぬ奇妙な面だけである。
「きみは……」わたしは掠れた声で話しかけた。
「幸せをしっている?」


 ……おっと。大丈夫? 掛からなかった? そう。ああ、いいよ、床はあとで拭くから。それより、グラスは空になってしまったね。今日はもうお終い。
 え、質問があるの。随分りちぎなんだね? いいよ、なんでも答える。なぜ夢の中のきみは女性だったのかって? ああ、なるほど。そう思ったわけだね。
 実をいうところ、あの夢のなかでのおれは、最初丘に立っていた少年だったのさ。やってきた少女になにかを問いかける、それだけの役目をおれは背負っていた。本当は、おれの夢はそこで終わり。この話は、貴女に話すためちょっと脚色を加えたってわけ。驚いた? まあ、脚色が大きいからね。じゃあ女の子は誰か、って、そんなの説明するまでもないじゃない、貴女ですよ。ねえ、なにも怒らなくったっていいじゃないか。

初出 20160203
重複掲載あり
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