どうしてこんな目に遭わなきゃいけないかとか、こんなことされる覚えがないだとか、考えるのは暗くネガティブな思考ばかりだった。無理もない、仕方ないと優しいお声が欲しくても、今わたしを見る目はあまりにも白く、また蔑み、心地いい気分ではない。街を通り抜ける冬の風がわたしの身体に当たるたび、また一度また一度大きく震え上がるほどの寒さを感じるのは言うまでもない。わたしは今、びしょ濡れだ。
 何故こんなことになってしまったのかと聞かれれば、それはこっちが聞きたいことだと返していただろう。言い逃れるつもりはないが、自分のせいだとか責任だとかを一切感じていない。いや、感じられない。そのくらい意味の分からない状況に立たされ、いきなりグラスに入っていたお酒をかけられた。かけられたなんて可愛いものじゃなかった。顔に向かって、大きく手を振り上げぶつけてきたのだ。言い換えるのならば昼ドラだ。まるで昼ドラのワンシーンにありそうなものをわたしは初めて体験してしまった。あのとき確か、「泥棒猫」なんていう見に覚えのない言葉をもらったんだっけ。思い出したくないことばかりが、脳裏を過ぎっていった。不名誉なことだ。そして理不尽なことだ。浮かんでくるのは怒りかも悲しみかも分からない感情。さてこれを何と呼ぶだろう。

「今からどこ行こう」

 ぽつりと放った独り言は、静かに消えていく。例えばそれが誰かに聞かれていたとしても、返事は来ないだろう。
 街を歩くに連れて、耳が前よりずっと冴えているように感じる。周りの雑音、話し声など望んでもないものが耳に入ってくる。その中には、ひそひそと小さな声で「なんかお酒臭くない?」「昼間からよく飲めるな」「あの女だ」「あいつからだ」と聞こえてくる。それが誰のことを指しているかは分かっていた。わたしだ。
 恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい。
 今すぐにでも駆け出して、あの高いビルの屋上まで登り詰め、飛び降り自殺でもしてしまいそうな勢いだった。今ならあの場所からでも悔いを残さずこの世とおさらばできる気がしてきた。それでも、死にたいと思っているわけではないなんて、なんて矛盾している気持ちだろうか。ただ、出来そうな気がしただけ。ほんとうはそんなつもりはない。悔いはなくとも、思い残すことはいくらでもあるだろう。そうだ、死ぬ前にあいつに一言文句を言ってやりたい。今日のこの惨事だって、元はといえばあいつのせいなんだから――。
 そうと決まれば向かう場所とは決まってくる。あいつの、あいつの仲間たちがよく集まるという場所。流石にお店自体が開いているということはないが、誰もいないというわけではないだろう。あのお店の主人、そう確か草薙さんぐらいはいるはずだ。できれば、そのほかの人がいることは好ましくないが。

「こんにちは」
「君か、久しぶりやね」
「草薙さん。いきなりで申し訳ないですけど、千歳くん出してもらえます?」
「何やその喧嘩腰の言葉。女の子がそんな言葉使うもんやないで」
「いいから」
「けど残念なことに、千歳は今日まだ来てへんで」

 いつもここにいるわけではないのか。ならば今の時間帯、仕事でもしているわけ――でもなさそうだが、きっと何も考えずにフラフラ出歩いているに違いない。思えばわたしの中の千歳くんのイメージというのは酷かった。今更訂正するつもりもないから、ここに来れば何か決着でもつけられるとでも思っていたけれど。ことはそう簡単には運んでくれない。ガラリとした店内で、草薙さんはひとりグラスを磨いていた。他に行く宛のないわたしは、カウンター席に座り、黙々と行われるその動作を見ているだけ。どうせ外に出たって、あの白い目たちが襲ってこよう。「いやだなぁ、もう」と小さく呟き蹲った。この声が草薙さんに聞こえなければいい。
 わたしは、自分が間違ったことはしていないと思っていた。でもそれはあくまで主観的な意見であって、そんな風に考えてしまっていいのなら、すべてが丸く収まることとなる。だけど、そうならない、そうはいかない。なぜなら主観的に感じたことが、全てではないからだ。この世界には客観的に述べたことがひとつの意見として採用される。要はわたしが間違ってないと思っていたも、あの暴言と酒を吐いてきた女性に間違っていると認識されているのなら、間違っているんだ。今更引き返してどうもこうもない。わたしがすべきことはただひたすらあの人を待ち、一言怒鳴ることだけ。





 顔を起こしたとき、外はすでに暗がりを見せていた。グラスを磨いていた草薙さんも何処かへ行ってしまったようだ。ここでわたしは、あの時間から今まで寝てしまっていたことを気づいたのだった。いつまでもこんなところに居座っていたら、草薙さんが店を開けるときに邪魔かもしれない。当初の目的が果たせなかったのはとても残念だが、致し方ないだろう。人に迷惑をかけてまでしたいと思える目的でもない。
 立ち上がったとき、もうひとつ、椅子を少し揺らしたような音が聞こえた。小さな音でも、誰もいない部屋――いやただ静かな部屋にはよく響くのだ。ふたつほど離れたカウンター席に、人影があった。その人は物憂げな横顔をこちらに見せながらも、ゆっくりと視線を合わしてくる。その素振りに、少なからずも苛立ちを覚えた。わたしが待っているという千歳くんだったからだ。うまく言葉が出ないのは、緊張しているせいだと思いたい。じゃないと、格好がつかないじゃないか。

「おはよう名前。あ、それともこんばんはの方がいいかな」
「どっちでもいいよ。久しぶりだね」
「そうだね。結構会ってなかったね」

 こんなにも上手く会話が続くなんて思っていなかった。わたしの思いなんて知らないだろうに、千歳くんは最近あったことなどを手始めに話し始める。ちがう、違う違う。そんな世間話をするためにここに来たわけじゃないのに。楽しそうに話す千歳くんを見ると、わたしの中にはよくない感情ばかりが渦巻いていた。いつからわたしは、こんなにも退屈な人間になったんだろう。恋人である彼の話のひとつも、心地よく聞くことができないなんて。どこまで、わたしの心と彼の心との距離は伸びてしまってんだろうか。拳を握り締め、唇を噛み締めた。そんな関係も、今日でおしまいだろう。何を手始めに言葉を発するかは、未だにわたしの中では決まっていない。何も決まっていないのに、この場に立っているというのはそれだけで、何と気力のいることだろうか。

「ねぇ千歳くん。どうしてわたしたちって、こんなにも中途半端なのかな」

 それは意味合いからすれば直球な質問であり、また考え込めば回りくどい言い方だった。果たしてこんな言葉で、彼が勘づいてくれるだろうか。可能性は低いと思った。千歳くんは馬鹿ではないけれど、さほど頭のいいイメージもなかったからだ。
 わたしたちの関係を表すのなら、その言葉が一番相応しいだろう。中途半端。そう、何もかも中途半端な気がしていた。付き合い始めたころはまだ新鮮な気持ちで触れ合えたというのに、今ではそれが幻のようにも感じてしまう。最近ろくに連絡だって取り合っていない。今日会いに来ようと思ったのも、思いもよらぬ事件に巻き込まれない限り、あり得なかっただろう。わたしの中で、少なからず千歳くんへの諦めさえも感じていた。このまま自然消滅という形を取るのであれば、それでもいいなんて。でも、本当にそんな方向に転がってしまえば、わたしたちの関係は本当に中途半端だったと言えよう。それだけはしたくなかった。中途半端で終わらせるために、わたしはあの日、千歳くんの想いに応えたんじゃない。
 千歳くんは何も言わなかった。もしかしたら、わたしの質問の答えを慎重に、慎重に考えてくれているからかもしれない。否、そうだと思いたかった。こんな真剣な話をしているというのに、他のことを考えているなんて冗談じゃない。そんなことされていたら、わたしは今すぐにでも彼の、あの整った顔を殴りにかかる。

「千歳くん、わたしの話、聞いている?」
「うん。聞いてる。じゃあ今度、一緒に出かけようか。要するに名前は、寂しかったんだよね」

 小さな、小さな声が漏れた気がした。話の趣旨とは合わない言葉が出てきたからだろう。失望、それだけが頭を埋めた気がする。
 千歳くんは、わたしの話なんて聞いていない。始めから、聞く気なんてなかったのだろうか。どちらにしよ、わたしの想いとは全く伝わってくれていない。この関係をどうにかしようと思っても、彼にはその気がないということなのか。終わらせようとも考えた。真剣に、わたしなりの悩みとは、彼にとっては微塵でもない。そういうことか。悲しい、とても悲しい。こんな一方的なものなのに、どうして彼は続けたがるの。

 あの出会った日の夜のことが、こんなにも悲しいなんて。
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