※※第168話:Make Love(&Engross).96







 スタジオでの仕事を終えた屡薇は、鼻歌混じりに駅への道を歩いていた。

 「豆におやつでも買ってくかな、」
 と、足取りも軽くコンビニに立ち寄る予定で。




 ふと、足並みが途切れた。
 喧騒が心なしか遠ざかる。

 夜風に金髪をなびかせ、スマホを眺めていた屡薇は顔を上げた。




 ひとりの男がすれ違っていった。
 普段なら、気にも留めない、何気ない場面のはずだった。






 ところが屡薇には、その男の纏う雰囲気が、日常とは切り離されたとても異様なものに感じられたのだ。
 春の夜にやけに厚手の、モスグリーンのコートより遥かに異様な“何か”が、そこにはあった。


 そして、最も確かなこと、

 男はヴァンパイアだった。




 思わず振り向こうとした屡薇の耳もと、声ははっきりと響いた。

 「君には感謝しているよ…、おかげでとても感動的な再会を果たせた。」












 バッ――――――…!

 屡薇は急いで振り向く。
 しかし、声の主はどこにも見当たらない。
 やや向こうを歩いてゆく人々が視界の隅に映るだけだ。
 後ろには、誰もいなかった。


 「………………、」
 無言で遠くを眺め、屡薇は再び家路を歩き出す。
 未だ耳の奥響く不気味な言葉の、意味も理解できないまま。

 じわりと伸びた筒闇に反し、透き通るほどに明るい下弦の月が、雲さえ退け夜空から街を見下ろしていた。












 …――鮮少な歪みが立てる音は、まだ、

 誰の耳にも届いてはいなかった。














  …――And trouble comes.

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