第八話:虚無と楽園







 鉄太は知っていた、彼女と実の兄の関係を、密やかな情事を。
 梨由の頭の中は、さざめいて真っ暗になる、何を言葉にしたらよいのかわからず足元がぐらついた。

 「そんな顔をさせるために、言ったわけじゃないんだけど……」
 気まずそうに笑った鉄太は、少し、俯いた。
 彼は何も悪くない、けれど、彼はたくさん傷ついているはずだ。
 否、彼が一番に――傷ついているに決まっている。
 それなのに自分ばかりが絶望的な気分に襲われて、いったい何をやっているんだというとてつもない罪悪感が、梨由をさらに絶望的な気分へと陥れてゆく。
 犠牲になったのは鉄太だけというこの場所で、梨由は絶望のループに嵌まる。


 不毛な関係は、不毛なものしか、生み出さないのか。



 「…――梨由が何も言わずに走って帰った夜に、どうしても心配でさ、俺、ここに一度来てみたんだよね」
 鉄太は俯き加減に、明かした。
 声色は優しかったが、肩が微かに震えているように見えた。
 彼のしたことは、彼氏としては当たり前のことなのかもしれない、梨由はあの日、鉄太に何も告げず突然帰ってしまった挙げ句、彼からの電話をことごとく無視してしまった。
 心配に思うのも、無理はない、様子を窺いに来るのも、無理はない、だって鉄太とは、世間には怪訝に思われることのない恋人同士なのだから。

 「そしたら、声が聞こえてきて……全身が凍りついたみたいに動けなくなって、でも、梨由に対して一方的な偏見だけは持ちたくねぇなってずっと思ってた」
 苦しげに言葉にした鉄太は、顔を上げた。
 嫌悪してもいいのに、罵倒してもいいのに、とことんまで責め立ててもいいのに、彼はどこまでもそれをしない。

 「俺、別れねぇから」
 彼女を真っ直ぐに見つめて、鉄太は言った。
 梨由はまだ、兄に誓わされた別れ話を彼に持ち掛けていなかった。
 持ち掛けてはいないうちから、力強く一蹴された。

 「相手が梨由の本当のお兄さんじゃなかったら、俺だって潔く手を引いてたと思う」
 茫然自失としている梨由の手を取り、鉄太は歩きだす。
 彼にしては少し強引なやり方で、前へと進みだす、朝日が眩しくて痛いくらいの日常へと。

 「本当のお兄さんだから、俺は別れないよ」
 彼女を引っ張って歩き、背を向けたまま、鉄太はもう一度はっきりと言葉にした。
 梨由は兄との誓いを、破棄するしかなかった。


 追い詰められる、どんどん、追い詰められる。
 正しいものと間違っているもの、それは昔に誰が決めたのか、誰がこの先も定め続けてゆくのか。
 何が正しくて、何が間違っているのか、“一般論”としてのそれに何度でも気づかされるから梨由は途方もなく追い詰められる。

 この苦悩を、絶望を、最終的に共有することになるのは、兄か、それとも鉄太なのか。

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