ひよ、と彼女の俺を呼ぶ声を聞いた。
彼女だけの特別な俺の呼び名だった。家族のように名前を呼ぶわけでもなく、友人やテニス部の仲間のように苗字を呼ぶわけでもなく、なまえさんだけの親密な呼び方。
付き合う以前は日吉くんと呼ばれていた、その甘酸っぱいようなもどかしい距離感を覚えるそれも今となっては悪くはない、が。付き合ってから少し経って、「恋人同士なのに日吉くんって呼び方は変なのかな?」といつも些細なことで悩んでしまうなまえさんが、名前で呼ぶのは恥ずかしいし呼び捨ても変だしと折衷案として出してきたのがその呼び名だった。


俺としては付き合えたこと自体奇跡のような産物で、俺のとなりで俺に笑いかけて俺のことを呼んでくれるなら正直なんでも良かった。ひよ、で止められるとひよことか雛鳥の様な俺に似つかわしくない妙な可愛らしさがあるような気がしたが、彼女の声で聞けば悪くない響きだった。

遠くから呼び止められる時や、近くで囁く様に呼ばれたり、いっぱいいっぱいになったなまえさんが沢山ひよ、ひよ、ひよと俺を呼ぶ時も全部が全部、悪くない、というか、凄く、良い。
俺を呼んでくれるならなんでもいいって当初は思ったが、振り返れば俺をひよ、なんて可愛らしい名前で呼ぶのなんてなまえさんしかいなかった。家族とも、先輩とも、友人とも違う、特別な愛称だって気がついて、そしてそれがなまえさんの口から紡がれれば唯一無二の愛しい響きだ。ひよ、と言われたら俺はプログラムされたみたいになまえさんの姿を想像して、探す。鈴を転がしたような優しい声の元を。

暗い闇にいて、声を頼りに顔をあげると、やはり。


なまえさんだ。
林檎みたいに赤い頬にパチパチと瞬きを繰り返す潤んだ目。俺と視線が合うとそれが嬉しそうに細められた。
釣られて俺も頬が緩むのを感じた、こんな所を人に見られるから俺はなまえさんに甘いだのドロドロだの言われると分かってはいるが、自然とそうなってしまうのだから仕方ないことだった。


「ひよ、」


彼女は再びそう呼んで、俺の手をとった。遥かに小さな手だ。大きさも太さも全然違う、オマケに俺はテニスをしてるから節々は硬くて余計に際立った。時々折れてしまうんじゃないかって、心配になるくらいにか弱い。爪も薄くて、ピンク色で甘皮さえ可愛らしと、思ってしまう。
そんな手が俺の手をきゅっと握ってそれに頬寄せた。あ、れ。なまえさんが俺に甘えている!

強がりだからふたりきりの時もなかなか素直に甘えてこない、頼りない癖に俺より年上だから余計にタチが悪くて、お姉さんぶることが多々あるので彼女を甘やかすにはそれなりの土台を用意してやらねばそうさせてくれない。
こんなのっけから、こんなことするなんて!

俺の掌に彼女の柔らかな頬がくっついている。まるで猫みたく構って欲しいってアピールしてきてるようにも思う。窺うような両の目はキラキラと光っていた。ああ、可愛い。俺には情欲とは別の感情で胸がいっぱいになる。
この小さな女の子が愛おしい、守ってやりたい。全てが大事で、髪の毛の一本から爪先まで、俺を映す目を縁取る睫毛も、それが落とす影ですら飲み込んでしまいたくなるような、衝動が芽生えた。
好きとかって言葉では陳腐に感じるし、愛してるなんて軽々しく言えないくらいのこの気持ち。何て言えばいいのだろうか。言いようがない、


「ひよ、好き」


なまえさんの言葉に対して、俺は言い淀む、だってなんて言っていいのか分からないのだ。俺の言葉を促すように手を握られるが、今俺がなまえさんに感じてる気持ちは何とも言い表せず、苦しいような気さえしてくる。クラクラしてる、俺の身体の細胞ひとつひとつにまでなまえさんでいっぱいにしたいくらい。

どうしたら伝わるのか、俺はあんたが。

俺の手をとり自分の頬を寄せていたなまえさんの手を、引っ張って今度は俺がなまえさんの手のひらに頬を寄せた。スベスベしてる、素敵な手だ。俺の思ってることの10分の1でもいいから伝わって欲しくて彼女の手のひらにキスをした。言葉では形容できない、想いを念じて込めて、なまえさんをじっと見つめて。

ポッと、もともと血色の良い顔が更に赤く染まって、そしてふにゃりと笑ったなまえさん。

ああ、すこしでも伝わったかな、良かった。俺はアンタを心底思ってる、いつでも思ってる。触れた場所からジワリと温かいものが広がっていく、溶けてくみたいに。このまま境が曖昧になってしまえばいいのに。こんな気持ちは、言葉には出来ない。





***



はっと、目を覚ました。
しばらく考えて俺はベッドで眠っていて、さっきまでのが夢で、なまえさんがそこにはいないことを理解した。
1月1日、午前6時を回ったあたりだった。

新年早々、彼女の夢を見たのか。俺は自分が自分でおかしくて一人で少し笑った。今年になって初めて見たのが彼女の夢なのだ。
初夢とは1日の夜に見る夢をそう呼ぶらしいのでこれは単なる夢にしか過ぎないけれども、初夢だったとしてもさぞかし目出度い事だ。富士山よりも鷹よりも、茄子よりもなまえさんの夢を見れた方がずっといい夢だし、いい気分で過ごせるだろう。

少し早いが、もう起きようとしよう。
これから彼女がやって来て、一緒に初詣へと出掛けるのだ。夢でも現実でも、なまえさんばかりだ。
暦が1月を刻んでから一気に冷え込んだ気がする、朝の凛と刺さるような空気を感じて、彼女の冷たい指先を思い出した。


どうせ、今日の夢だって彼女を見るのだ。彼女はいつでも俺を離さないのだから。



寝ても醒めても

(貴女のことばかりだ)

20150114
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