日吉くんのいるところはなんとなくの予想はついていた。予想、なんてものじゃないかもしれない。そこにいる気がしただけ、でも、いるって妙な核心があった。
中庭、私たちがよく一緒に過ごす場所。そのときは場所は中等部であったけれど、私と日吉くんが出会った場所で、付き合った場所。そこの、一番隅のベンチに、日吉くんはいた。
「…ひよ」
私の呟くような小さな声で、日吉くんは顔を上げ、私の存在に気が付いたようだった。始めは、ベンチに座って表情が見えなかったから、泣いてるのかと、思ったけどそうではなかった。泣いてない、怒ってるようで、でも悲しんでるような複雑な表情をしていた。どの気持ちを孕んでいるのか、あるいは、全てを抱えているのか。私が日吉くんにそんな顔をさせてしまったのかと思うと、私まで苦しくなる。確かに、私と出会ったころの日吉くんは、自信に溢れていて、常に上を見て、迷いなどない人だった。
「…なんで、来たんですか」
「…ダメ、だった?」
「来ないでください」
日吉くんの言葉に従わずに、私は彼に近づいた。もう夕日は沈みかけている。私の影が大きくのびて日吉くんに重なった。
「来ないで、ください」
「…なんで?」
「……今、俺はアンタを傷つけてしまう…」
いいよ、構わないよ。それくらい。私がそう言って、日吉くんになおも近づいたら、日吉くんはようやく感情を表した。私を睨んで、苦しそうに。日吉くんの強い眼差しを受けて、私は怯みそうになったけど、ぐっと堪えた。
「…苦しいんだ」
「うん、」
「いい加減、苦しいんだ」
「…うん」
ぽつりぽつりと、日吉くんの気持ちが溢れでる。私はそれを受け止めなければいけない。私たちには、それが必要なんだ。
「アンタといると、辛い、どうしていいか、分からないんだ」
「…」
「自分の無力さばかりが、浮き彫りになる。どうしていいか、分からない」
「ひよ」
「辛い、俺ばかりが、アンタのことを好きで」
初めて吐き出された日吉くんの素直な気持ちを聞いていた、けど。納得がいかない言葉が出てきたので、思わず「え、なにそれ」と反論してしまった。そんな空気ではなかったのにも関わらずの私の台詞に、日吉くんも驚いたように目を丸くした。
「なにそれって、何がですか」
「いや、だって、ひよ、俺ばっかりが好きとか、言ったよね」
「言いましたよ。何か問題でもありますか」
「あるよ!私の方が、ひよのこと好きだもの」
「いやいや、寝言は寝てから言ってください。俺の方が好きですから」
「私のほうが好き」
「いや、俺ですね」
「私のほうが」
「俺です」
「私、」
「俺、」
間 。
「…」
「…」
「…ねぇ、私たち」
「ええ、もしかして…しなくても、凄く馬鹿なこと言い合ってますか?」
目と目が合わさって、しばらくの沈黙のあと、二人で吹き出して笑った。声を上げて、ちゃんと。あ、日吉くんの笑った顔、久々に見た気がする。その時、心に絡まった糸が解けた、胸のドロドロがスッと溶けたようだった。私はやっぱり、日吉くんの笑った顔が好き。
「隣、座ってください」日吉くんに促されるままに私はベンチに並んで座った。気持ちの良い風がふたりの間にそよいだ。まだ、いつもよりも距離は遠い。でも、嫌な距離じゃない。
「ひよ、話そう、私たち。私も、言いたいことが、あるの」
そう、話せば、私たちはきっとわかり合えるよ。だって、お互いに譲れないくらい、好きなんだもん。日吉くんも、そう思ったから、私とこうしてここにいるのだろう。
「…俺は、」
先に口を開いたのは、日吉くんだった。
「俺は、いつも…不安です。あなたが、なにも言ってくれないことが。なにかあっても、俺に言ってくれない、頼ってくれない。俺は、そんなに頼りないですか」
「ち、ちがう、そんな風に思ってないよ」
「じゃあ、なんで……俺を、頼ってくれないんですか」
知らなかった。日吉くんがそんなことを思っていたなんて。日吉くんの重荷にならないように飲み込んでいた気持ちを、日吉くんは、受け止めようとしてくれていたんだ。
「私は、日吉くんより、年上だから、しっかりしたくて。日吉くんには、弱いところを見せたくなくて」
「はぁ、え、アンタそれ、本気で言ってますか」
「言ってるよ!」
「…俺は、アンタを年上だと思ったことなんて一度だってないですよ」
「ひ、ひどい!」
「だって、危なっかしくて何処か抜けてて、単純で、おっちょこちょいで、押しに弱くて情に脆いアンタを、年上だなんて、思えない」
「…ひよは私をなんだと思ってたの…」
「……た、大切な、女の子だと、思ってますよ!」
「…え、い、いま、なんて?」
…っ、うるさい!って照れた日吉くんが真っ赤な顔をして私をぎゅうと抱きしめた。まだ少しあったふたりの距離が一気に縮まってくっついた。春先の夕方のまだ少し肌寒い季節、日吉くんは半袖で寒そうだったけれど、身体はずっと温かい。胸に顔を埋めたら微かな汗の匂いと日吉くんの鼓動が伝わって、なんだか泣けてきた。なんだろう、さっきから涙腺が壊れてしまったみたいだ。日吉くんの腕に抱かれて、改めて思う。日吉くんが好き、日吉くんじゃなきゃだめだ。
「…泣いて、ますか?」日吉くんが言った。声を出せばきっと涙で震えてしまうだろうから、首を振って答えた。
「泣いて、ますよね」
「…」
「…嘘、ですね」
尚も首を横に振った私に、日吉くんは断定する。そうか、薄手のシャツはきっと、私の涙を簡単に染み込ませてしまうのだろう。私の存在も今、日吉くんに染み込んでしまったかのように、包まれている。今まで閉じ込めていた言葉が、涙と共に溢れた。
「…、私も、ずっと、不安だった」
「…はい」
「ひよが、試合とか、練習に呼んでくれなかったり、ひよの大事なテニスから、離れてる気がして」
「…」
「ひよに、なにもしてあげられない私が、嫌いで、仕方なかったの」
「…そんなこと!」
「私は、ひよに、なにもできない、彼女でいて、いいのかなって、」「馬鹿、アンタは、アンタでいるだけで、いいんだ」
それに、名前さんはなにも出来なくない、アンタはずっと、俺のこと、助けてくれてる。日吉くんにしては早い口調で矢継ぎ早に生み出された言葉。私は、日吉くんのことを、助けてあげられてた?よく、分からない。けど、日吉くんがそういってくれたことで、救われた。
「…名前さんじゃなくちゃ、だめなんです」
さっきまで私の背中をあやすように撫でていた手の平が、私のうなじあたりに移動して、髪を撫でた。あ、これ、日吉くんのキスしたい合図。奇遇だなぁ、私も、そう思ったんだ。
顔を上げたら、まだ視界は涙でぼやけてて、まぶたや頬に日吉くんの唇が柔らかに降り注ぐ。日吉くんの首に手を回したら、唇に触れるだけだけど、すこし長いキスを一回した。キスは何回もしたことあるはずなのに、今までよりもずっと近い気がするのは、心の距離の所為だろうか。唇が離れた後、日吉くんと目が合うと、気恥ずかしくて、お互いにすこし笑ったー笑ったのに、私の目からはまた、涙がこぼれた。決壊してるなぁ。
「…試合も、練習も、見に来てください、これから。勿論、約束じゃなくて、お願いですけど」
「行くよ、勿論。行かせて」
「もっと、素直になりましょう、お互いに」
「うん、悲しいことがあったら、ひよも、聞いてね」
「聞きますよ。言ってください。…忍足さんよりも先に」
「?うん、ひよに、一番にいうね」
日吉くんの肩口に顔を埋めて、ドキドキと鼓動が重なるのを感じた。一昨日よりも、昨日よりも、ずっと日吉くんを好きになるのを感じた、けど。もう、怖いとは思わない。むしろ、それはとても、素敵なことなんだ。いつの日かに桜を散らした風が、今は暖かく優しく吹く。
「…あー、駄目だ」
「…?、どうしたの、日吉くん」
「部活、戻りたくない、このまま」
「だ、だめだよ!だって交流試合近いんでしょ!」
「ちっ」
「舌打ちしない!」
「…じゃあ、今日から、部活一緒に見ててくれますか」
「…ふふ、勿論!」
鞄取ってくるね、待ってて!そう言った私の顔を、日吉くんは「アンタ涙くらい拭いたらどうですかって」言いながら指先で涙を拭ってくれた。そして、拭き終わったら今度は頭を撫でられて、本当に私が年上扱いをされてないことに今さらながら気が付いた。
「走って転ばないでくださいよ」
相変わらずも過保護な彼に、自然と口許は緩む。私たちを繋ぐものが今までとは違うものになるのを確かに感じながらも、それは嫌じゃない、むしろ。むしろ、それは愛しい気持ちを更に膨らませるようだ。跡部くんに怒られるの覚悟で、ふたりで一緒に部活に行こうね、日吉くん。
あまい夕暮れ、君とふたりで
「遅れてすいませんでした」
名前さんと別れて、コートに入るとベンチから指示を出していた跡部さんの元へ直ぐに向かい、頭を下げた。今調子がよくない上に、遅れてしまったんだ。忍足さんはすでにジャージ姿でコートにいた。跡部部長に文句を言われるだろう、と思って謝った、のに。
「アーン、なんでお前が頭を下げる必要があんだよ」
返ってきたのは意外な言葉だった。
「いや、跡部さんの指示に従えなかった上に遅くなったので謝っているんですけど…」
「お前は俺の指示に従って、それを遂行するのに必要な時間を費やしたまでだろ。なんの問題がある」
「忍足さんを呼んでふたりで戻って来いって言いましたよね」
「俺は別に、"忍足と"ふたりで、とは言ってないぜ」
そうやって、コートのフェンスの向こう側のある一人を見やって、にやりと口の端を吊り上げた跡部さんを見て、はっとした。…はめられた!ちくしょう、下剋上だ…!!全てはあの氷帝のくせ者と、この目の前の男の策略だと知り、苦い気持ちを噛み締めた。勿論感謝の気持ちはなくはないが、何処か悔しい。
「おら、日吉、ボサッとしてないでさっさと練習に戻れ」
「…はい」
「…交流試合、お前はシングルだ。俺様の采配ミスだなんて言わせるんじゃねぇぞ」
「…っ、はい!」
跡部さんという存在の大きさを改めて感じる、だからこそ、いつか倒してやろうと思えるんだ。
コートに入る途中、いつもと同じ黄色い歓声が飛び交う中に、聞き慣れた大切な人の声を見つけた。決して大きな声でなければ、控えめに俺を呼んだだけだけれども。そちらを見ると、フェンスを囲むギャラリーからすこし離れたところに名前さをの姿を見つけた。自然に頬が緩んだのを感じて、近くにいた向日さんが、俺を見て意地悪く笑った。「やっぱり若には苗字だな」うるさいですね、余計なお世話ですよ。そんなの、当たり前です。
笑顔の彼女がそこにいる。そうか、こんな、簡単なことだったんだ。なにも難しいことはいらないんだ。彼女がいて、彼女の笑顔がそこにあれば、それでいいんだ。
20100529
やっとケリがつきました!ドロドロなふたりらしく、仲直りの仕方も少し特殊な感じでしたが。
いかがだったでしょうか。これでふたりの仲も深まったと思います。これからはまた、なにげない日常と交流試合とかをドロ甘に過ごすお話を書いていく予定ですので。
お付き合いお願いします^^