※少し倒錯的な痛いお話








初めてその本を手に取ったのはいつだったか。確かな時間を思い出せないほど幼かったことは相当昔のはずだった。つまりはこうして日々にデータを紐付けするようになった以前のこと。自分で言うようなことではないのかもしれないが、小さな頃から利発な子供と言われ大人達からは将来を期待され、同輩達からは一目置かれていた。当時から読書を嗜み、姉がいることも手伝ってその年代の子供が手に取っても到底理解出来ないような文学にも手を出していた。


そう、あれは梶井基次郎。


日本文学史の中でも有数の名作と名高い檸檬、その中の名前はなんだっただろうか、短編のひとつだ。それを読んだ俺は嫌悪感とも憎悪ともとれるような感情しかしどちらとも取れないような感想を抱いた。内容は幼い頃には到底ーー、到底理解出来ない、したくないものだった。一文を今、はっきりと思い出した。



”私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。”



狂気ともとれる一文だ。実際彼はそんなことはしていないはずだ。しかし、小さな子猫という愛玩すべき存在を、自分よりも圧倒的に無力で、どうしようもない生き物に対して夢想してすらいけない感情だ。
彼はその話で、猫の耳の滑らかな描写と観察を述べた後にそれに残虐な心を抱く。いたけな存在に倒錯的な加虐を想像する。切符切りで、パチンと。


読み終わった後の不快感を抱きながらも、何故それにそんなにも心を奪われたのか考察したものだった。
近所に住んでいた猫と戯れた時に猫の耳がどうしても気になった。物語であったように耳を観察し、気まぐれにそれを触ったりもしたが、彼のような歪んだ感情は終ぞ浮かばなかった。あの話はどこか可笑しいのだ、小さいながらそう結論づけ、そしてそのまま思い出すことはなかった、この時までは。



俺の片手には彼女の、名前の小さな耳がある。そしてもう一方の手の中にはプラスティックの、一見してホチキスのような器具がある。それは、ピアッサーだった。
怯えて俯く彼女を前に、俺はどうしてか梶井基次郎の文章を思い出していた。手に持っているのはピアッサーで断じて切符切りなどではないのに。


思えば、俺はまだその本を読んだときは子供で世界を知らず、自分の思考も感情も完成されておらず、一方的な見方しか出来ていなかったのだ。当然だ、幾ら周りから持て囃されようが、まだ子供なのだ。
理解出来ないと思った彼の気持ちが今になって急に分かった気がした。当時の俺が感じた嫌悪感も今になると、同族に抱くものだったのかも知れないとも思えてきた。


名前がピアスを開けたいと言い出した。薄くてつやつやとした小さな耳に穴を開けると、言ったのだ。一緒に出掛けてた際にピアッサーを買おうとしてた。売り場には提携院の案内がありそこに頼めば無料で穴を開けてくれると。
彼女のすることにいちいち保護者ではないので反対する権利もなく、趣味嗜好に関しては他人にとやかく言われるものではないと好きにさせていた俺だったのでピアスに関しても自由にさせてやろうと思っていた。
今時の若者であればピアスをつけたいと思うこともあるだろう。イヤリングだと可愛いデザインが少ないと嘆いていたのも覚えていた。どうせ開けるのであれば清潔で安全な病院で開けてもらうのが一番だ。そう言おうとして、医者が彼女の耳に硬い針でぷすりと貫通させる想像を一瞬、した。白く真っさらな耳朶、ぷすりと穴が、開く、誰かの手で。



「俺に。開けさせてくれないか」



どうしてそう言ったかは分からなかった。名前は少し不思議そうな顔をしたが、俺が普段から何にも好奇心が旺盛なことからそれ以上は気にならなかったようだった。「この病院少し遠いし、早く開けたいから柳くんにお願いしようかな」そう、屈託なく笑う、小さくてか弱い彼女。
めらりと火が灯ったのを、微かに、でも確かに感じた。


冬の入口、急に寒くなった夕方に彼女の手を引いて俺の家に連れ立って帰った。家には誰もおらず妙に静かでふたりぼっちが際立った。
手に持っていた袋からピアッサーを取り出した。痛みの感覚を麻痺させるために冷やした方が良いとのことで彼女の耳朶を氷で赤く鈍くする。普段は白い耳が、俺に攻められた時のようにピンク色に染まっていた。ケースを剥いたピアッサーを見て彼女はゴクリと唾を飲み込んだ。

冷たい耳に無機質なピアッサー。

梶井基次郎を思い出した。
狂気的だ。俺は今、切符切りで猫の耳を切ることを夢想する男に自分を重ねて、高揚していた。


柳くん、と俺を急かすように彼女が呼んだ。綺麗な耳だった。これに今から穴を開けると思うと俺は惜しいような可哀想なような感覚と、それをも勝る痛くしたい、傷つけたいだなんて馬鹿げた嗜虐的な思いに駆られてる。
その鬩ぎ合いに気が付かない名前は俺がピアスを開けることに反対していると思ったようで、「柳くんはピアスなんて反対?」と尋ねてきた。
きっと、俺が反対したら彼女は思いに留まることは想像に難くなく、微かだった火はメラメラと大きくなっていく。


「いや、ピアッサーと一緒に買ったさっきのピアス、名前には良く似合うと思う」


名前は綻んだ。
彼女自身も可愛いものを身に付けたいという思いと共に、身体を自らの意思で傷付けることへの罪悪感や痛みへの恐怖に揺らいでいたのだ。それが、意図も簡単に俺へと流される。柳蓮二という存在になんの疑いもなく信じきっているのだ。飼い主を信頼しきっているペットのように。

彼女の穢れのない耳に別れを告げるように口付けた。
吐息が掛かったのかピクリと腕の中で身を捩らせた。舌で耳の淵から軟骨のこりこりした感触をなぞる。や、柳くんと戸惑いながらも抵抗のしない小さな彼女。余りにも可愛くて穴が開くであろう場所に歯を立てた。あっ、直ちに小さな声が上がった。
読んだのは随分前に一度きりな筈なのに、物語の彼が猫の耳を噛んだ一節を思い出した。弱く噛むと微かに鳴く。そして強く噛むとだんだんと強く、クレッシェンドに。それも、また夢想であったが彼女は猫よりも木管楽器のように噛む強さに合わせて声をあ、あっ、と大きくさせた。うっかりと自制が効かなくなる前に口を離した。びっくりと目を丸めている彼女はまるで猫だ。

冗談だ、針が貫通するんだからもっと痛いのにそんなに怖がってどうするんだ。あやすように耳を撫でた。怯えているが、俺の手のリズムに合わせて目を細める。「柳くん、少し怖かった」そう言っても俺からは逃げない。疑わないのだ。



折角冷やしたのにもう彼女の耳朶は熱を持っていた。

ピアッサーを耳に挟んでセットする。
手に汗が滲んでいるのが自分で分かった。俺は今、興奮していた。得も言われぬ興奮だった。彼女に気取られぬように平静を装っていたが、背徳感や罪悪感をスパイスに、高ぶっていた。
自分よりも無力で、いたいけで、そして可愛らしく愛らしい彼女に、パチンと傷を付けるのだ。パチンとやってみたくて、堪らなかった。


油断すると荒くなりそうな呼吸を抑えて軽く力を入れてピアッサーの針を耳に当てがう。カチリという音に名前は身を強張らせた。
初めて名前と交わった時と重なる。穢れない白い花を散らしたあの時。鋭い針の先端が彼女を貫かんと肌に触れている。


俺は分かってしまった。
彼女に痛みを与え、消えない傷を残す。これは愛なのだ。倒錯的だとは思う、しかし愛しい彼女にそうできると思うと俺はますます名前が愛しく思えるのだ。
物語の彼が猫に抱いた気持ちに共感出来なかったのは、その時の俺にそうすべき相手が存在しなかったからで、名前は猫よりも何よりも可愛いらしい。

彼は更に考えた、猫の爪を引っこ抜いてしまおうと。猫の身を守り、自由のつばさでもある爪を切ってしまうと、猫は自信をなくし、ブルブルと震えて絶望してしまうのではないかと。
ああ、絶望。
彼女にとっての爪を考えた。足だろうか、手だろうか。失くしてしまったら、嘸かし困って泣くではないのか。初めは外に恋い焦がれて泣くかもしれないが、次第にそんな渇望も薄れて絶望するのだ、俺の腕の中で。想像するだけだ、本当にそんなことを出来る筈がない。俺は彼女の手も指も足も爪先も愛しているのだから。だけれどもそんな考えで満たされている自分がいた。
歪んだ愛だ、小さな彼女を征服して加虐して悦ぶ、どうしようもない、男の欲望。


柳くん、早く。
はやく、強請られて、でもいつか来るであろう痛み備えて俺のシャツをギュッと握り縋る手。健康的なピンク色の爪を見て、怯えた色の目を見て、指先に力を込めた。



パチン



込めた力に素直に従い針は降りた。呆気ない手応えとは裏腹に彼女の耳は赤く腫れて、申し訳程度の飾り石の光るファーストピアスが耳の薄い肉を穿ち、其処にあった。血は出ないんだなとどこか冷静に観察しながら、小さく息を漏らすほどに妙な快感が身体を巡った。

バチンとした衝撃のあと、ジンジンとした痛みがあると彼女は言った。彼女は俺の与えた痛みに従順に応えた、今回も。


そういえば、忘れていたその短編のタイトルを思い出した。そうだ、『愛撫』だ。
俺は静かに微笑んだ。




レモンを飲み込む唇




一対の穴を開ける為に新たなピアッサーを手に取る、彼女は俺の思いにまだ気が付かず、俺にいつかそのまま飼われるのだ。

20141204
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