今日は朝からずっと気分は低空飛行していた。むしろ厳密に言うと、常に下降状態にある。
お昼ご飯を食べてもそれは変わることはなく、来たるべく時間が近づくにつれ徐々に騒ぎ立てる心臓を落ち着かせるために、ひとり校内をふらふらと歩いていた。あと残すところ10分ほどとなった昼休みが終わってしまえば、私を悩みに悩ませる時がやってきてしまう。

緊張と不安がない混ぜになって重くなった胃が、自分の身体なのに違和感を覚えさせた。喉元まで迫り上がるような不快感で気分が悪くなってきた。
それなら一層のこともっと具合が悪くなってしまえば憂鬱な時間をやり過ごせるかもしれない。でも、今日はそれでなんとか逃げたとしても、後日改めて、という展開は簡単にも予測出来てしまうのでそれすら選ぶことは出来なかった(むしろ、後日になってしまえば余計に目立つという更なる試練が待っているのが目に見えていた)。

憂鬱な気分が積み重なり自然と下がる視線に、爪先を眺めながら一人廊下を歩いていたら、「あれ」と見知った声が聞こえた。その声に釣られるように顔を上げたら、そこには滝くんがいた。去年同じクラスだったなにかとお世話になった男の子だ。


「滝くん」

「苗字、なにかあったの」

「え」

「顔色悪いよ」


向かい合った滝くんが伺うように私を見た。まさか他人に見られて簡単に分かってしまうほど表面に出ていると思わなかった私はぐっと言葉を一回飲んだ。滝くんにいえばからかわれることは目に見えているからだ。
しかし私の言葉を促すような心配を孕んだ滝くんの視線に観念するしか私には道はなかった。


「…緊張してるの」

「え」

「次の時間、プレゼンテーションなの」

「ああ」


苗字ってあがり症だったね。と滝くんは納得の声を上げた。そうだ、私は極度のあがり症だ。なので人前で英語のリーディングをするのは嫌いだし、ディスカッションやましてやプレゼンテーションなんて苦手中の苦手である。普通に読めればまだマシなのだけれど、一度噛んだり詰まったりしてしまうとテンパってしまって、そこから内容を忘れたりとどうしようもない状態になる。前に、何度かそんなことをやらかしてしまっていて、その時の記憶があるからなお億劫になるのだ。滝くんも、そんな私を知っているからこそ、私の憂鬱の種を理解して、そしてさも可笑しそうに笑った。


「た、たきくん、ひどい!」

「ふふふ、いや、だって、苗字は変わんないなぁって」


笑う度に滝くんの綺麗な白い歯が見えて、サラサラな髪は上機嫌に揺れた。そりゃ、滝くんみたいな氷帝学園中、他校の人をも含めたギャラリーの歓声の中テニスをしたりする人には無縁な感情だろう。だけれども、私には、死活問題なのだ。
注目を浴びることは明らかに非日常であり、緊張や不安は確実に心身ともにダメージを与えている。
噛んで内容を飛ばして慌てて真っ赤になっておまけに足まで震えてしまったことのある私には、もう二度プレゼンテーションなんてしたくない。むしろ大勢の人の前に立ちたくない。その理由のひとつに、滝くんを含めた友人が、その時の私をネタに散々からかってくることがあることを知っているのだろうか。いや、滝くんは絶対知ってる。知ってて業とからかってくるのだ。
滝くんは、優しそうな風貌や、綺麗な眼差しには似合わずに意地悪な節がある。それも、あんなに部員を抱えるテニス部でやっていくためには必要な要素なのだろうか。
とにかく、滝くんは結構いじめっ子だ。王子様みたいと評される見目の造形とは大違い、というより真逆と言っていいだろう。まあ、滝くんに、からかわれたりするのは、嫌いではないのだけれど。


「あ、そうだ、苗字」


滝くんがふいに、思いついたかのような声を上げた。廊下の真ん中で立ち話をしていた私たちだけれども、滝くんは隅によってちょいちょいと手招きをした。それに従って、私たちはふたりで端で向かい合った。


「どうしたの、滝くん」

「おまじないをさ、思い出してね」

「おまじない?」


まあ、気休め程度だけどね、と。滝くんは手にあった小さなペンケースから、細いマジックペンを取り出した。滝くんが何をするのか分からず、何をしたいのかも分からない私は、どうするのか一挙一挙見逃さないようにと彼を見つめた。私の視線を感じとって、滝くんはゆるりと微笑んだ。
それでも説明しようとはせず、「手をだして」と私の左手をとった。手の平を眺めて、中指の付け根の辺りを彼の人差し指がなぞった。
滝くんの手は、見た目に反して、思ったよりも硬くてしっかりとしていた。これが男の人の手なんだ。白くてしなかやに見えるけど、節々は張っていて、しっかりしている。指先は結構熱かった。



「…たきくん?」

「ここ」

「え」

「マジックで書いていい」

「、うん、いいけど」


なんで?という私の疑問は軽くなかったことのように流されて、滝くんはマジックペンの細い方で私の手の平、中指の付け根に小さく星マークを書いた。私の手の平のシワの細かいでこぼこでいびつな星だった。
自分で書いた星を滝くんはじっと見ていた。長い睫毛が伏せられて、目の下に一本一本影を作った。半月に沿った綺麗な影だった。


「これね、」

「うん」

「緊張しなくなるおまじない、ジンクスみたいなものだけど」

「うん」

「次のプレゼンが上手くいくように」

「…なんだか、とっても効きそう」

「そう?」

「うん、滝くん、だからかな」


なんだか本当に上手くいくような気がしてきた。手の平の空に一粒輝いた星は、不思議と滝くんみたいなあったかさを感じた。さっきまでに変に速まった鼓動も心地好いリズムを打つようになる。
自分で手の中の星を指で撫でてみた。


「上手くいく、そんな気がする、滝くん」

「良かった、」

「ありがとうね、滝くん」

「うん、頑張りなね」


そうして、根拠もなにもないけれど沸き上がる自信を持って、私は滝くんとさよならをした。
先程までの憂鬱はもうなかった。



* * *


放課後、私は目当ての人物を探しにホームルームが終わると同時に教室から出た。去年までは同じクラスだったので、すぐに話すことが出来たのに今は3つ先の教室にまで行かなくてはいけない。
そこまで急ぐ用件ではないとは知りつつも、部活がある彼が、教室に長く留まっていないことを知っているので自然と足速になった。
彼の教室の扉から覗くと、まさに今、鞄とラケットバッグを持たんとするところの滝くんがいた。「滝くん」私の呼びかけに気づいた彼は、切り揃えられた真っ直ぐな髪をサラリと揺らして笑った。


「苗字、どうしたの」

「滝くん、あのね、プレゼン、」

「、どうだった」

「上手くいった!」


私の報告を聞いて滝くんも顔を綻ばせた。そう、プレゼンが上手くいったのだ、なんの、滞りもなく!こんなことは初めてだった。緊張は勿論したが、いつものような前後不覚に陥るような暴力的なまでの緊張ではなく、緩やかに静かに昂揚するようなそんなどこか心地好い緊張だった。私の失敗とパニックになっての変な発言を期待していた友人たちには残念な結果だったかもしれないが。プレッシャーとはおよそ無縁の世界で生きる跡部くんも、私の今日の様子に感心して素直に「やるじゃねぇの、お前にしちゃ上出来だ」と褒めてくれた。彼から褒められるとはまるで天変地異の前触れだ。しかしながら、私がプレゼンを難無くこなせたこと自体が奇跡だと周りの友人たちは口を揃えた。それは言い過ぎだとは思うけど、確かにちゃんと私にも出来たという驚きがあった。でも、それと同時に妙な確信もあったのだ。それは、左の手の平の星マークが私を見守ってくれていたからこそだ。滝くんのおまじないが、効いたのだ。


「ありがとう、滝くんのお陰だよ」


彼に向けて手の平を見せたら、滝くんは吃驚したような顔をして、そして口角を上げてとんでもない言葉を宣った。


「ああ、そのね、おまじない、出鱈目」


へ、と間抜けな言葉しか出なかった私に対して、滝くんは至極丁寧に繰り返す、「出鱈目、嘘、その場で思いついた咄嗟の行動」。滝くんの言葉をきちんと飲み下すまでに数秒。そして理解したときには目の前で笑っている滝くんが悪魔に見えた。つまりは、あのおまじないは、全て滝くんの気まぐれが織り成した嘘っぱちというわけだったのか!


「ひ、ひどいよ滝くん!」

「いやいや、ごめんごめん。まさかそんなに効くとは思わなくてさ」

「見損なったよ!」

「でも、効果があったからいいんじゃない」


ぐ、っと続く言葉を飲み込んだ私に、思い込みの効果って凄いねと滝くんは暢気な口調だ。まあ、確かに効いてしまったのだ、滝くんのおまじないは。本来はなんの根拠も効果もないはずのものなのに、悲しいかな私の思い込みも相まって、絶大なる効果を生みだしてしまった。もはや文句さら言えない、からかわれたのに。

せめてもの抵抗として、滝くんを無言で睨んでたら「だからごめんってば」と少し眉尻を下げた。


「じゃあ、今度こそちゃんとしたおまじないを教えてあげるよ」

「ええー」

「疑わないでってば、今度は本当。しかも、緊張しないとかそんなしょぼい効き目じゃないやつ。もっと凄いの」


滝くんを疑う気持ち半分、興味半分。訝しげな目で見ると今度は本当だってばと滝くんは言った。何度も彼に騙されたことのある私だが(樺地くんは実はロボットだとか、跡部くんは実は双子だとかよく分からない冗談を言われたこともあった)(けれども滝くんが言うと何故か本当に聞こえてしまうのだ)、今回も信じてみることにした。今日の滝くんはどこか、目の奥にテニスの試合をしている時のような静かな熱を感じたからだ。


「手出して、」滝くんの指示に従って、さっきと同じ左手を彼に差し出した。今度は手の甲をじっと眺めたかと思うと、滝くんは私の目をじっと見た。真剣な眼差しだった。ドキリと何故か、悪戯が見つかった子供のように、見透かされたような罪悪感のような気持ちに心臓が跳ねた。ドキドキする。滝くんの目が伏せられて長い睫毛のカーテンで視線が伺えなくなった。


すると、滝くんは私の手の甲を口許に引き寄せ、そっとそこにキスをした。


チュッと小さく小鳥の鳴くような音がして、滝くんが顔を上げる様子がスローモーションになった。そしていつものような綺麗な笑みを滝くんは湛える。私は金魚のように口をパクパクとさせた。本当に、暫く、言葉が出てこなかった。


「な、ななななにするの滝くん!」

「なにって、おまじない」


漸く出た言葉も滝くんにはさらりと笑顔でかわされる。事もなげだ、キキキキキキ、キスしたのに!
平然としている滝くんをよそに、私の小さな胸の下のちっぽけな心臓は破裂しそうな程に煩く鳴っている。顔が熱い。滝くんのクラスは部活熱心な人が多くて、教室にほぼ人がいないことと、いる人もこちらに気がついていないのがせめてもの救いだ。

結局、おまじないなんて嘘だったんだ。滝くんは私をきっとからかって遊びたかっただけなのだ。いつものことだ。それにしても、今回は悪質だけど。滝くんを信じた私が馬鹿だったのだ。正直者が馬鹿をみたのだった。滝くんを睨みつけたら彼は少し困ったように笑った。それがあまりにも寂しそうなので、それにすら私の心臓は騒ぎ立てる。


「今回は嘘じゃないって」

「嘘、嘘だ!からかったんでしょ」

「からかってないよ」

「じゃあなんのおまじないなの!」


「苗字が俺を好きになる、おまじない」


そうしてまた、滝くんは悲しそうに微笑んだ。身体中を巡る血が沸騰したように熱く、全身が心臓になってしまったかのようだ。目が、滝くんから話せない。彼が触れた左手が手の甲が、熱に浮されている。言葉には表すことの出来ない感情が胸を巡った。不思議だけど、不快じゃないこの気持ちは、まさか。


「そんなの、効き目がありすぎるよ…」


そうして滝くんは王子様のように頬を綻ばせた。魔法は一切使えないけれど、彼は私の中で魔法使いのように素晴らしく、でもそれ以上に何者にも変えられない存在になるのです。


フォールインラブ

20110413
滝くんは軽度の意地悪症をもつ王子様なイメージ。
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