* * *




雨はもう何日も降り続いていた。雲は世界を覆うようにして広がり私たちを太陽から隠した。
何日も、太陽を見ていない、もしかしたら、何年も見てないんじゃないかとも思ってしまうほどに雨は続く。青い傘に弾かれた水は足元を濡らした。

テニスコートには誰もいなかった。それもそうだ、この雨だ。きっと室内トレーニングかなにかでもしているのだろう。氷帝学園の高等部には、中等部の時に施設を利用するために何度か来たことがあるだけだったが、中等部とそう作りは変わらないので不便はなかった。けれど、幼稚舎から中等部までの12年間通っていて、殆どが持ち上がりのエスカレーター進学の氷帝なのに、自分に気づく人間が少しもいないことに不思議な気持ちになった。親しかった人間はごく僅かだし、目立つ人間ではなかったから、当たり前だけれど。


跡部くんの姿も見当たらない。ほっとした。会いに来たというのに、往生際が悪いことは自覚の上だ。今更、会おうが何をしてもいいかも分からないし果して彼が私に気がつくとも分からない。本当に、今更私は何をしに来たのだろうか。



跡部くんと私は、いつ出会ったのかは実は詳しくはよく覚えていない。
私が小さな頃、跡部くんのお城のようなお家が好きで、外から眺めるだけだったが一人でよく遊びに行っていた。毎日のように外から見ている私に気がついた跡部くんは、お城の中から出てきて声を掛けてくれたのだ。それが私と跡部くんの出会いだった。氷帝に通ってはいたが、ごくごく一般的な家庭な私が跡部くんに出会ったのは偶然な出来事だったのだ。その頃から、習い事などに奔走していた跡部くんと私が遊ぶようになり、あのお城のようなお家でずっと遊んでいた。
跡部くんが、日本で小学校にあたる教育をイギリスで過ごすことになると知り、彼が引っ越す時には大泣きをして、だだをこねたらしい。なんとなく、うろ覚えな記憶だけはあった。

跡部くんは、泣きじゃくる私に手紙を書くと約束してくれて、彼がイギリスにいる間ずっと、連絡を取り合っていたし、長期休みに帰ってきた時はやはり一緒に遊んだ。
小さな頃から、遠く離れていても、一番親しい友人はずっと跡部くんだった。

中等部課程で、跡部くんが氷帝に来てくれると知った時にはまた嬉しくて泣いて、電話口で怒られた。
中等部では、跡部くんと同じ学校で一緒にいられて、単純ながら毎日が楽しかった。跡部くんは忙しかったし、頻繁にいられるわけではなかったけど、テニスを見ているのも好きだった。跡部くんは近づかせてはくれなかったけれど、テニス部には個性的な人も多かったし、なによりも跡部くんがいた。


ただ、跡部くんとの関係に違和感を覚え始めるのも時間の問題だった。2年生の時だったか、跡部くんに彼女が出来たのだ。跡部くんは綺麗だし優しいし、それは当たり前のことだった。少し寂しさは感じたけれど、変わらずに跡部くんは私といてくれたから、特に気にすることはなかった。…たまに、たまにだけ、跡部くんも彼女とキスしたりするのかなぁなんて漠然と思ったりもしたけれど、その頃は、まだ子供だったから自分の感情に気がつくことはなかった。

跡部くんの彼女が、何度か変わり、3年生になった頃、私に変化が訪れたのだ。クラスの男の子から、告白されたのだ。男の子友達は殆どいなかったし、初めてのことなので正直、驚いた。
けれども、素直に私を好いてくれることが嬉しかったし、跡部くんも彼女がいるから私も、なんて我ながら単純な気持ちでその人と付き合った。好きという気持ちは分からないけど、付き合ったら分かるんじゃないかとも思った。


その人はとても優しい人だった。彼が教えてくれたのは、私と跡部くんが付き合っていると思ったけれど、跡部くんに彼女がいることを知り、私に声をかけてくれたらしいのだ。
跡部くんと、私が、付き合う?考えたこともないことだった。だって、跡部くんとは出会ったときも曖昧なほど昔から一緒なのだ。好きだけど、跡部くんの好きを恋とするのなら、それはあまりにも深い慈しみに溢れたものだ。


跡部くんの家に遊びに行くのはもう自宅も同然で、初めての彼氏が出来たその日にもいつものように行ったのだ。その日のことは、昨日のことのようにも、覚えていた。


いつものように、課題を広げながら跡部くんの帰りを待つ。嬉しい報告が出来るので私はケーキを買って来ていた。高級なものではないけれど、以前にも跡部くんと食べて、あの彼も美味しいと言ってくれたケーキだった。
跡部くんは最近、中学最後の大会に向けて張り詰めていたから、私の報告を聞いて喜んでくれればいいと思った。跡部くんはあまり人には見せたがらないけれど、随分と疲れている様子だったから。
中学の3年間で、彼は随分と大きくなった。背は高くなり、声は低くなった。同じ目線で話していたのに、彼の目を見るのに見上げなければいけなくなった。上から、大きな手が頭を撫でてくれるようになった。広い背中は沢山の期待を背負った背中だ。私はその背中が大好きだ。だが、その荷物の重さは私にはきっと、想像もし得ないもので、彼には尊敬の念を抱いていた。穏やかに笑う跡部くんが一番、好きなんだ。


彼が帰ってきた時は、相変わらず我が物顔で寛ぐ私に苦笑を漏らして、頭を撫でてくれた。安心する。私が幸せから顔を緩ませたら、跡部くんも柔らかく笑うのだ。
そのままの表情で受け入れてくれると思い、私は告白されたことと、それを受け入れたことを告げた。跡部くんの顔が、冷たく凍ったのはその瞬間だった。


やめろ、とか、別れろとか言われた。私は訳が分からなくて、おまけに跡部くんに怒鳴られたのは初めてだったから意味が分からなくて、跡部くんにだって彼女がいるじゃない、と言ったような気がした。すると、跡部くんに手を掴まれて、そして力任せにキスをされた。怖くて掴まれた腕が痛くて、無理矢理に突き飛ばして逃げた。拍子に机の上のケーキがぶつかった衝撃で床に落ちて潰れた。ケーキも私もぐちゃぐちゃだった。


私は、彼から逃げた。


翌日には、私が置いて帰ったノートがちゃんと学校の私の席に置いてあった。跡部くんが何度か私に会いに来たけど、避けた。次第に、跡部くんは私に会いにこなくなった。私も、テニスコートの傍に寄らなくなった。あれだけ広い氷帝で、人間一人と会わなくなるのはとても簡単だった。跡部くんの姿を見ると意味が分からず苦しいのだ。会わないことも、話せないことも苦しかったけれど彼を見た時の得体の知れない心臓が縮こまった苦しみに比べれば幾分かマシだった。

彼と話さなくなって何ヶ月かした。跡部くんがイギリスにいた間だって、こんなに連絡を取らなかった時はなかった。
夏になり、テニス部は全国で負けた。跡部くんが切に願っていた全国制覇の夢が、絶たれたのだった。

それでもいつもと変わらずに堂々とした姿で、後輩に氷帝の旗を託した彼を見て、その背中を見て、私は彼を抱きしめたいと心から思って、私は彼のことを好きなんだと初めて自覚した。それは言葉には出せない感情だった。いつも私を守ってくれた、私は頼りきっていたあの大きな跡部くんを抱きしめてあげたいと思ったのだ。心臓がざわめいて苦しい。だけれど、私がどうして彼を抱きしめてあげられられるのだろうか。
既に私は、彼氏とは別れていて、跡部くんも恋人はいないと噂には聞いていたけど、それは問題ではない。私と跡部くんはもう、決定的に間違ってしまったのだ。抱きしめたいけれど、彼の背中みることすら、私にはもう出来ない。もう、すれ違うことすら出来ないのだ。彼を抱きしめたいと思っても、彼の姿を見ることが酷く恐ろしかった。そんな恐怖が込み上げて、私は外部進学を決めた。


その後、跡部くんがどうしたかは知らない。彼はどうしても、色々な方面で目立つから名前を聞くことはあっても、名前も口に出来なかった。口にした瞬間に、跡部くんの存在が明確になるのが分かっていたからだ。
きっと彼とはもう会わずに、違う世界で生きていくんだと思っていた。



しかし、未だに細い線で結ばれていたのだ。私は気にしないふりをしながらも、それに縋ってしまった。跡部くんが私を覚えているかすら、限られていないのに、彼が私を思って私と同じように、少しでも胸が苦しくなれば嬉しいと思っている。


けれども、どこかで期待もしていたのかもしれない。公立の高校に入り、彼と会わないと思いながらも、だんだんと大人びていく顔つきに、昔の面影が薄れていくことに不安を覚えていた。いつまでも、中学の時から髪型を変えないことはせめてもの抵抗だったのかも知れなかった。気づいてもらえるようにって。跡部くんなら気がついてくれるのではないかと。なんて身勝手なんだろう。



テニス部の部室の傍に佇む。中に人の気配はする。だけれども、声をかける勇気がない。あの時のまま、私はなにも成長していないのだ。跡部くんに声を、なんて掛ければいいのか氷帝に来るまでに、必死に考えたはずだけど、そのどれもが陳腐な言葉でどれもが相応しくない。その場で立ち尽くして、もう動かない足を見つめた。
2年以上経った、今更私はなにをしようと言うのか。私なんかがなにを出来るというのだろう。忍足くんが言っていた、跡部くんは今、見ていられないと。完璧を常に求められている跡部くんがいくら親しいとは言え、忍足くんにそう察せられてしまうほどの状態にいる。そんな彼に、私が、何か出来るのだろうか。何故私は彼に救いを求められたのだろうか。何故私は、それに従ったのか。
救われたいのは、私ではないだろうか。



ピシャリ、前で水の跳ねる音がした。自分の足元から顔を上げるとそこには、もう何年も見ていない、私の太陽がそこにあった。
跡部、景吾。



変わらない、何も。背は高くなったし、顔つきは更に整ったような気がするけれど、でも記憶と変わらない。私の知る、跡部景吾その人だった。
跡部くんの顔も、私を始めは訝しむように見つめた後、すぐに息を呑んで、アイスブルーの目が見開かれた。
時が止まったような気がしたけれど、雨は変わらずに傘に、地面に跳ね返り音を鳴らしていた。


沢山考えた言葉はなにも出て来なかった。でも、涙だけは溢れて凍りついていた足はもつれながらも動き出す。ダムが決壊した。私は青空のような傘を投げ捨てて、跡部くんに駆け寄ったのは、頭で考えた行動じゃない。


「…っ、跡部くんっ!」


跡部くんも、持っていた黒い傘を投げ捨てて、駆け寄った私の身体を抱きしめた。抱きしめられたのは初めてなのに、酷く懐かしい。跡部くんの匂いが身体に染み込んだ。


「あ、跡部、跡部くん、」

言いたい言葉が見つからない。ごめんなさいも久しぶりも、なにもかも。ぎゅっとまわしていた腕を離されて、距離をとって顔を見つめられた。


「違う、俺は、跡部じゃない、違う、」

「あとべ、くん」

「違う!俺は、お前は、」


跡部くんの綺麗な顔が今までに見たことのないくらいに雨で濡れてくしゃくしゃになっている。
お前はそうじゃない、絞り出されたような跡部くんの声で、私は一気に昔へと連れ戻された、そうだ。


「…景吾くん、」


止まっていた時間が動くのを感じた。景吾くんが何度も何度も、名前名前と呟いて私の身体を雨の中掻き抱いた。まるで、私の存在を確かめるように。
私も、景吾くんの身体を抱きしめた。腕の中で震えた景吾くんはなんだか子供のようで、いつの日に感じた抱きしめたい衝動が、彼を護りたい気持ちなのだと私は知った。
用意した言葉は全部いらなかった。濡れた頬を景吾くんの冷たい手でなぞって、景吾くんと目があう。どちらからともなく、キスをしたら、景吾くんの気持ちも私の気持ちも、全て伝わったような気がしたからだ。


青い傘が、雨の中の唯一の晴れ間のように地面に投げだされていた。



螺子と出口が見つからない


泣いてぐちゃぐちゃな私の顔を景吾くんが笑って、大きな手が私を撫でた。いつだってそれは変わってなくてそして私は再び泣くのだ。

20101209
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テーマ「人外ファンタジー」
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