「苗字、帰ってきて、ホンマ、もう、限界や」


携帯越しの少しくぐもった声、忍足くんは言った。外は降りしきる雨、陰欝とした空。梅雨は空気が喉に張り付く様で呼吸がしづらかった。一瞬、言葉を忘れ去ってしまったかのように私は話すことが出来なかった。
久しぶりに聞いた懐かしい声が絞り出されたような切実なもので、私の心臓を刺だらけの茨が縛り付けたようなチクチクとした痛みが広がった。じわり、忘れていた(ふりをしていた)傷口が熱を持って疼き出すのを感じた。


「なぁ、ホンマ、後生やから」


心臓がドクドクといつもよりも早いペースで動く、自分で鼓動を感じることが出来る。固まっていた血流が生き返って、身体を巡り出す、それは、傷口にもたどり着いては血を滲ませるのだ。息が浅くなって酸素濃度がそこだけ異様に低くなったような錯覚を覚えた。


「なぁ、苗字、」

「…、で、でも」

「苗字頼むわ、もう、見てられんねん」

「…でも、」

「跡部のこと、忘れてへんのやろ。…忘れられへんの、やろ」


「せやったら、」そのあとに続くであろう忍足くんの言葉を聞きたくなかったので、遮った。「うん、分かった、考えて、みる」私の曖昧な返事に忍足くんの言葉も受話器の向こう側の世界も色を失ったかのように静かに消える。忍足くんは、思慮深く、そして私たちのことを理解している人物であるからこそ、これ以上の言葉に意味を為さないことを知っているんだ。誰かの言葉に動かす力はない、止まった螺子を巻くことが出来るのは私か、彼、しかいないということを。


「…忍足くん」

「考えといてな、」

「うん」

「忘れたらあかんよ、」

「…うん」

「…突然、すまんかったな」

「ううん、…電話、ありがとうね」


プツッ、遮断された音がなって、通話終了の無機質な合図が鳴った。遮断、された。されたと、思っていた。私と彼との繋がりは簡単にも切れて、きっともう会うこともなく別々の世界で生きていくのだと思っていたし、それでいいと思っていた。けれども、電話という薄っぺらいツールではあるが、彼の世界の断片に触れた。
忍足くん。彼の、チームメイトで、数少ない気のおけない彼の友人だ。忍足くんの声を聞いただけで、閉じ込めてた思い出とか、気持ち、とか 彼 とかが古く錆び付いた錠が解かれた箱が開いたように溢れ出した。


跡 部 景 吾


言葉にださずに唇で形作った彼の名前。もう久しく、その名を音にして命を宿したことはなかったように思う。けれども、簡単にも思い出せる、絶対的な音を持っている。目を閉じれば姿も浮かぶ、色素の薄い柔らかくはねた髪、太陽の光ですら彼を汚せない透き徹った白い肌、強い光を宿すアイスブルーの目。
どうしたって忘れることの出来ない彼の姿。いつも、背中ばかり見ていた気がする。広い、氷帝学園テニス部のレギュラージャージと重い肩書きと期待を背負った真っ直ぐな背中。私はそれをずっと見ていた。見ていた、しかし、見ることを、止めたのだ。見続けることが、出来なかった。そして私は彼に背中を向けた。

思い出して、脳みその奥が痛んだ。記憶を司る場所なのだろうか、ジンジンと痛い、視界がグラグラする。手に持ったままの携帯電話をベッドに放って、その場にうずくまった。膝を抱えて額をつける。
まさか、こんな、未だに彼を思うと膝から下の感覚が曖昧になるほどに震えてしまうのだ。思い出してしまう。けれども、もう、思い出せない、声が。聞きたい、会いたい。


「跡部、景吾」


螺子を巻くのは私か。




* * *


苗字が中等部まで氷帝学園にいたことを覚えている者がどれくらいいるだろうか。きっと、数人にも満たないのではないだろうか。
2年の時が過ぎてしまえば、彼女のいた痕跡は簡単に薄れていった。それは当たり前のことであった。これだけ人があふれているのだ。きっと、大抵の人間は忘れられてしまうだろう、跡部みたいな特別な人間を除けば。
学校というのは社会の縮図だ。苗字は、そこに埋もれてしまうほどの些細な、普通の、女の子だった。正直あまり関わることのなかった俺としては、顔もイマイチ思い出すことはできない。携帯の番号だって、知らなかった。
けれど、苗字と親しかった滝の携帯電話のメモリーには沢山の名前のなかに苗字名前という彼女の存在がひっそりと息づいていた。携帯電話の中でも彼女は静かに世界の片隅で生きていたのだ。それを見て、ああ、下の名前は名前といった気がする、とやっと思い出せたくらいだった。
滝は「俺には連絡出来ない」と言った。彼女が氷帝からいなくなってからその名前を選択することが出来なかったらしい。親しかったのにも関わらずだ。それでも、消すことも出来ずに残していたのは、滝は、こうなることを少なからず予感していたのかもしれなかった。

苗字と俺は、話したことは殆どない。けれど、彼女のことを知っているのは、それは、彼女が常に一緒にいた人物が、跡部だったからだ。
誰もが、跡部と苗字は、付き合っていると思っていた。中学生くらいの年頃では、男女の仲と言えばそうとしか思えなかったんだろう。単純だとは思うが、そう思わせるには十分すぎて余るほどの親密な空気がふたりの間には存在した。

跡部が中等部、氷帝に来た頃には既に苗字と跡部の2人でいる姿をよく見ていた。滝から聞くと、苗字は幼稚舎から氷帝なので、イギリスの学校に通っていた跡部とどういう関係なのかは俺には知れない、他の誰も知らない。あいつらも、それを話そうとしなかったから、勝手に跡部と苗字は俺たちと出会う以前からの親しい付き合いなんだと認識していた、それはきっと間違ってはいないだろう。テニス部の誰かしらが言った、跡部は何故氷帝に来たんだろうという疑問も、跡部と苗字を知る人物は自然と、「跡部は苗字がいたから、氷帝に来たのではないか」と考える。あながち、検討違いでも、ないと思った。

正直、あんなにも選ばたような人間が苗字と一緒にいることに初めは疑問を抱いた。本当に、良くも悪くも目立たない彼女を大半の人間が知らない。一方、跡部は中等部からではあるが、派手な入学式の代表挨拶のパフォーマンスで皆が知っていた(それがなくても、跡部財閥の御曹子という肩書きだけでも十分過ぎるパンチはある)。
けれども、その疑問がちっぽけなものにしか過ぎないことを、人はしばらくして気がついた。跡部は、苗字の前では跡部ではなかったからだ。
跡部財閥の御曹子ではなく、苗字の前ではただの男の跡部景吾だった。それでも、あの恐ろしく整った顔や人をひき付ける力は存在するのだが、苗字に対する甘ったるい態度や過保護な行動は普段の印象を崩壊させる効果は抜群だった。

そう、誰もが跡部と苗字は付き合っているのだろうと思っていた。当然だった。仲睦まじい二人の様子を見れば誰だってそう思うだろう。俺も違わずそう思っていた。
けれども、跡部が他の女子とふたりきりでいる姿 が度々あった。茶化すように「彼女に嫌われてまうで」と言うと、「あいつは彼女じゃねぇ」と至極あっさりと返された。その時、跡部と苗字は恋人ではないことを知ったのだ。


跡部は、中学校生活の中で何回か女子と付き合っていたみたいだが、どれも長続きしなかった。女遊びが激しいというわけではなく、極々短い期間だけ気が向いたら付き合うといった気まぐれなものだった。跡部は、テニス以外には情熱を捧げる気はさらさらないようだった。付き合っている女子がいるときは苗字といるところを見かけることは少なくなっていたが、正直苗字といる時の方が楽しそうだった。
所謂彼女、といる時よりも、苗字といる時の方が跡部は人間らしく、彼女になった女子にもそれは感じられるらしい。結局、その事実に跡部の彼女は自らその位置から自然と去ることになった。それが、跡部に長く付き合う恋人がいない由縁にもなっていた。


傍から見たら奇妙としか言えなかった。そんな跡部と苗字の関係が崩れたのは、いつからだろうか。中学3年、気がついたら、ふたりでいる姿を見なくなった。跡部といる姿をみなければ、苗字の姿を見かけること自体も少なくなった。それもそうだ、彼女は跡部とは違い目立つような人間ではないのだ。テニスコート近くで話すふたりがいなければ、俺にとっては苗字はいないも同然のようだった。
苗字といない跡部は気がついたら、急速に、跡部財閥の跡取り、テニス部部長、生徒会会長としての跡部のカリスマ性をより高めていた。誰もが憧れる跡部景吾だ。完全無欠の跡部景吾だった。だが、なにかが大きく欠けた完璧であることに、誰が気がついているというのだろうか。そして、高校に進学してから、苗字が外部進学していたことを知った。



そこで、ふたりの時は止まった。螺子が巻かれることもなくなった。俺が知るのは、それだけだった。



「見てられへん、もう」


俺の呟きに、隣にいた岳人は何か言ったか?と聞き返したが、完全なる独り言だったので流した。
苗字に連絡をとってから、もう3日は経つ。滝から連絡先を教えてもらいかけた電話の番号が変わっていないことに安心した。しかし、ろくに会話もしたことのない俺からの電話に彼女は明らかに動揺していた。それとも、その内容が、跡部のことだからかもしれないし、両方かもしれなかった。その様子から、跡部と苗字が連絡を取り合っていないことが伺われた。連絡先が変わっていないのに。苗字は知らないのだ、今の跡部を、完璧なまでの跡部景吾を。


もう3日も雨が降り続いていた。部室から絶え間無く途切れない雨空を眺めた。部長の不在で始まらないミーティングに宍戸は幾分か苛々としていた。日吉は一人勉学に励んでいる。隣の岳人は携帯ゲーム機で遊んでいる。俺は窓の外を眺めていた。


そう、跡部はいつからか、強硬な殻を持つようになった。跡部景吾という殻だ。誰もが跡部は傷つかないと思っている、泣かないと思っている、不安なんてないと思っている。当然だ、俺たちですら、そんな跡部はみたことがない。
跡部にはそれが必要だということは、重々承知している。跡部はいずれ、あの家を継ぎ、日本や世界を動かすような人間なのだ。きっと、殻がなくては中の柔い部分を護れないのだ。悪意に満ちた嫉妬や羨望や言葉から。

けれど、その殻が硬くて頑丈であればあるほど、重いことを跡部は知っているのだろうか。知っているのに、最早下ろせない状態なのだろうか。いつからか、跡部は俺達の前ですらきちんと笑わなくなった。いつからだろうか。


「なあ、岳人」

「あん?なんだよ、あーっ、今いいとこ!」

「跡部が跡部やないとこ最後にみたんって、いつ」


我ながら意味の分からない質問だ。岳人にしては脈絡がなさ過ぎる。なんの的も得ていない。跡部の変化に気がついているかも分からないのだ。しかし、岳人は急に押し黙り、指先がボタンから離れた。宍戸の不機嫌な声や、それを諌める鳳の声は変わらずに聞こえているのに、俺は妙な静寂を感じた。

「…それって、きっと、苗字がいなくなってからだよな」

意外だった。
岳人が跡部の変化に気がついていたことも、苗字の名前を覚えていることにも。俺と、全く同じ考えを持っていることにも。

そうだ、跡部は、苗字がいなくなってからはずっと、笑っていないのだ。表面上の話ではなく、殻の中身の話だ。苗字とふたりきりの時の、あの安らいだ、だらしのないただの男にしかすぎない跡部景吾は、苗字とともに消されたのだ。


しとしと降る雨、斑に通る下校する生徒の流れに逆らった、青い傘が目についた。何故かは分からない。その傘を持つのが、ここらでは見かけない制服だったからかもしれない。
だが、見知らぬセーラー服を着たその女子には見覚えがあった。つい先日、記憶を辿る為に開いた中等部の卒業アルバムに載っていたのを確認したばかりだった。その写真よりは随分と大人びたような表情だったけれども、髪型はそのままで見間違える方が難しい。岳人も気がついたようで、言葉を失った。
岳人の手の中のゲーム機から、爆発音とゲームオーバーを知らせる 音がなる。


「…苗字、?」


「コンティニューしますか?」その機械的な声と岳人の声が混じった。
螺子は巻かれるのだろうか。

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