※広がれ30代の輪

※忍足くん30代医者の、女の子大学生

※捏造パラダイス






ずるずる、今の私を表すのに最も最適な効果音だった。気持ちも体も重くて地面に引きずっている。起き上がるにもそれもままならない。
シンプルなフレームにモノトーンのシーツで統一されたベッドに横になりながら私は壁を眺めた。特にこれといった特徴のない在り来りな壁を私は眺め始めてからもう何時間が経つのだろうか。私のこれからの指標でも埋め込まれているわけでもなければ、傷や染みすらもない真白い壁だった。もはや壁を眺めているのか、それともそれはただ私の中に概念として存在するのかも分からない。若しくは眺めているというのは自分の身勝手な主観に基づいた見解であって、壁が私を眺めていたのかも知れなかった。
この(ろくでもない)家主に見合うだけの女かどうか、なんて髪の毛の先から爪先まで壁が私を観察しているから動けないのだ。その方がただ無駄に引き延ばされて棄てられるだけのこの時間に明確な理由を与えられるので良いのかも知れなかった。何故ならば壁は、日に焼けて20年という年月だけ擦り減らした私よりも、ずっと新しくて綺麗だからだ。

この小洒落たデザイナーズマンションに住んでいる男は、都内の歴史ある名門校である氷帝学園に中等部から在籍し、テニスでは全国レベルの選手として名を知らしめた。大学部では医学部に進学。国家試験をパスして順調に研修医になりインターンを終えて、今は大学病院で勤務しているという、言わば順調な人生を歩んでいるのだろう。

更に言えば、甘いマスクと甘い声で、患者さんから看護師さん、医師の間からも羨望の眼差しを集めているらしい。それもそうだ。彼は15歳近く離れている子供な私にすら特別な人間だということが分かる。
人当たりも良く、よく気がつく。優しいし温和な態度で、彼にマイナスな感情を抱く人なんていないだろう。完璧なのだ、そう、忍足さんは。


と、言うのは彼の本質を知らない人間の一方的な見解であった。あながち間違いではないけれど、それは外での姿にしか過ぎないのだ。確かに、彼の今まで述べた面は真実
だが、蓋を開けてみればそれだけでは済まないところが彼が彼である由縁であるだろう。

私が今埋もれているベッドも、そしてこの高級マンションも、それに似つかわしくないほど雑然としているのだ。混沌の中に浮かぶ小さな島のように、シーツの中だけが唯一の秩序をもった存在としてここにあった。
フローリングの床にはタオルやシャツの洗濯物が散らばっている。折角の一等物のブランドのスーツだって、本人は無頓着らしくだらしなくキッチンの椅子の背もたれに引っかけられていた。丹念につけられた上品なズボンの折り目もシワと同化して見つからない。曰く、身嗜みを整えるように口煩く姉に言われるがままに仕立てたスーツだそうだ。
それが、襟元のタグを確認しなければ、就活に疲れた学生のリクルートスーツにも見えてしまうほど疲弊していた。彼には高いブランドの服など必要ないのだ。最も、彼にかかればシンプルなシャツでさえ、パリの街のお洒落な広告のような風合いで着こなしてしまうのだからそれでも良いのかも知れない。

読み終えた本や途中で忘れられた本も無遠慮に詰まれていた。壁の収納スペースに仕舞うと見つからなくなってしまうからとあちこちに散らばった本の方が探し難いと私は思う。現に彼はベッドのフレームの隙間に挟まっている古めかしいフランスの小説の存在を覚えているのだろうか。私は、仏文は暗くてかなわないのでその存在はそっと忘れたふりをするのだけれど。物語の中でも救われることのない主人公の存在を忘れてしまうことは余りにも哀れなように思う。
そして彼は、その存在に気づかずにまた同じ本をきっと買ってきてしまうのだろう。

DVDだってCDだって、床に平置きされているのだからたまったもんじゃない。無防備に足を踏み出せば、プラスティックのひび割れる不吉な音が踵に響くのだ。
ゴミなどの衛生的でないものはきちんと分別できるのだけれど、置いてあっても害がないと本人が思いこんでいるものは部屋のいたるところに散りばめられていた。
彼はなにせ、興味のないことには極端なほどに興味がないのだ。その性分が部屋の管理に表れているのだろう。食事だって、手先は器用なのだから作れなくないのに作ることにも食べることにもさして食指が動かないので、出来合わせのものをデパ地下で購入してくる。それすら忘れたらインスタント食品か若しくは食べなかったりもした。

こういう彼の性格は人間関係にもよく表れていると思う。人はよく、彼のことを誰にでも優しいと言うが、実際はそうではない。本来は彼は情熱的な人であり、差し障りなく誰とも問題を起こさないように接している彼(つまり誰にでも優しい彼)は、対して周りに興味がないのでそうしているにしか過ぎないのだ。


さて、そこまで思案した辺りで私は今度はぐるりと寝返りをうって電話機を眺めた。先程まで煩く鳴っていたそれはやっと一息をついていたようだった。
彼の物ぐさなため、連絡がつかないのでよく活躍した。携帯電話の電源が切りっぱなしなことなど日常茶飯事で、急ではない用事は彼の自宅へと回された。普段は仕事用の携帯を使うためにプライベートな携帯は鞄の底に忘れられているのだ。

自宅の固定電話は今日はよく鳴った。5回のコールの後に機械的な女性の声に切り替わり、ピーッという発信音の後に相手の名前と用件が録音される。今日のその内容といえば、全部全部、彼の誕生日を祝うものだった。


「(そうだ、今日は誕生日なんだ)」


彼の34歳の誕生日、だった。その日もおよそ食いつぶされて残りも3時間ほどだ。
そう思うと私は今、こんなことをしている場合ではなく、一刻も早くこのベッドから抜けだし、部屋を後にするのが正解なはずなのに、それをすることができなかった。


私は、ただのしがない大学生だった。忍足さんとはきちんと名付けられるような関係はない。恋人では勿論ない。しかし、友達というには彼は幾分か年上過ぎた。私の、一方的な片思いだ。

私が忍足さんに初めて出会ったのは氷帝学園大学部の図書館だった。そこは地域に解放されていて、私はよく利用していた。氷帝生ではないけれど、自宅から近かったし設備が充実していたので高校生の時からよく勉強はそこでしていた。
彼は、氷帝学園の卒業生で、忙しい研修医期間にも図書館を訪れていた。
よく見かける忍足さんを、格好良い男の人だな、程度にしか認識していなかったのをある日覆されたのは、漫画などでありふれたような状況だった。一番高い棚にある本を脚立で取ろうとしたときに、「女の子には危ないから取ったるよ」と声を掛けられたのだ。所謂、彼の本当の性格を知る前の誰にでも優しい忍足さんに、私はいとも簡単に恋に落ちたのだ。

それから私の図書館に通う頻度は高くなり、忍足さんに会うと会釈をするようになり、彼の気まぐれも手伝ったのだろう。試験勉強や受験勉強を見てくれるようになった。
次第に親しくなって、彼のマンションでも会うようになった。初めて彼のマンションを訪れた時には、あまりの散らかりっぷりに驚きを隠せなかった。忍足さんのことだから、几帳面なほどに整っていると思い込んでいたので、その真逆を突かれたわけだ。


「あはは、堪忍な、散らかっとって。意外やった?幻滅せんでな」


そうやって困ったように笑った忍足さんが、今まで私が知っていた忍足さんとは違う子供っぽいどう仕様もない笑顔で、私は幻滅するどころかさらに心を奪われてしまったのは随分と昔の話だった。

図書館にいたころは完璧な大人の人だと認識していたわけだけど、蓋を開ければ放って置けないような人だった。
彼はきっと私のことを妹のように思っているのだろう、いつでもマンションに来ていいと言ってくれた。定期的に掃除したりご飯を作ってあげなければ大変なことになってしまうので私はそうしてあげている。それは大学に進学した今も変わらなかった。
でもそれは建前にしかすぎなくて、結局は私が会いたいから来てるだけだし、部屋を掃除してあげれば忍足さんが帰ってきたときに嬉しそうにありがとうと言ってくれるのでそうしてるのだ。


今日は、忍足さんの誕生日だ。きっと、彼はみんなから祝福されているだろう。そして、もしかしたら女の人とこの家に帰ってくるかもしれない。
忍足さんは素敵だから彼女の一人や二人いたっておかしくないのだから。もしそうなったとしたら、私はここにいてはいけないので立ち去らなくてはいけなかった。しかしながら、この部屋は以前として荒れたままだ。もし女性が来るとしたら片しておいた方がいいだろうか。いや、でも私のように、忍足さんの初めて見る欠点にときめいちゃうかも知れないからそのままなのほうがいいのかも。

いつでもきていいと渡された鍵とエントランスの暗証番号。それが果して今日も有効なのかが分からない。ベッドからは忍足さんの匂いがして胸が苦しくなる。
いつも、抱きしめられたらこんな感じじゃないかと一人想像する。せめて、一目でも会っておめでとうをいいたいけれど、年の離れた私がどうしたって救いようもないように思うのは間違いではないだろう。



ガチャリ、ロックの外れる音が鳴ったと思ったら、扉が開いた。まさか、もう。彼が帰ってくるには時間が早過ぎた。だが驚いて見遣った扉には当然ながらこの部屋の主、忍足さんがどうしたってそこにいるのだ。


「あれ、なんやいるんやん」


電気も付けんと、なんていいながら部屋に入った忍足さんはいつものスーツ姿に眼鏡。完璧な時の姿だ。その手にはいくつかのビニール袋が抱えられていた。

私はだらしなくベッドに寝転んでいたので慌てて起き上がり髪を整えた。ベッドのふちにお行儀良く座る。
忍足さんはスーツとネクタイを気怠そうに外すと、それはそのまま無造作にダイニングテーブルの椅子へとかけられた。こうして彼の部屋は蓄積していくのだ。


「メール見て来たん?」

「メール?」

「ちゃうんか。自分かて携帯ちゃんと見いひんやんか」


そうして笑う忍足さんはどこか上機嫌だった。テーブルにあった本や雑誌や資料を積み重ねて端に寄せると、ビニール袋の中身を広げ始めた。そしてシャンパングラスをふたつ用意して向かい合わせに並べた。


「パーティーでも、するの」

「あれ、知らんの。俺今日誕生日なん」

「…知ってる」


知っているからこそ、私はここでこうしているのだ。忍足さんは「そか」と短く返事をしたらそのままキッチンへと消えてしまった。
言われてみれば、随分と携帯を開いていなかったことに気がついた。ベッドの横に置いたバックの底から取り出して開いてみれば、着信が5件とメールが何通か。着信は全部忍足さんからで、メールは一通だけ彼からだった。『今日暇?暇やったらウチで飯食お。』なんて普段と変わらない飾り気のないシンプルのメールだった。


「あ、今見とるし」


気がついたら目の前に忍足さんがいて、携帯を覗きこんでいた。「これってどういう意味?」と聞いたら「そのまんま」と返された。


「やから、誕生日なんやって」

「だから、なんで、私と?」

「うわぁ、それ聞くん」


名前ちゃんは意地悪さんやねえ、ぽんぽんと頭を撫でられた。大きな手が私の髪の毛を梳いた。

テーブルの上にはケーキやデパ地下の色とりどりのサラダやローストビーフなどがあった。忍足さんがなにを考えているのか全く分からなくて、私はただ座り続けた。


「ほら、はよ食べよ」

「うん、」

「あれや、この歳になっても自分の誕生日には好きなコに祝ってもらいたいもんなんやで」

「え、」

「え?」


私には衝撃的過ぎる一言がうっかり聞き流してしまうほどに自然と会話に入ってきた。私の願望による聞き間違いかと思ってしまった。


「忍足さん、いま、なんて」

「え、せやからこの歳でも誕生日は祝ってもらいたいって」
「だ、だれに」

「好きなコに」

「じゃあ、なんで、私」

「え、好きやから、やろ」


変に気まずい空気が部屋を支配した。ベッドに座る私に視線を合わせるように向かいあった忍足さんは、いくら頭が良くても状況を理解出来ていないようだった。
私も、上手く言葉を咀嚼出来ない。どうやら、お互いに食い違った見方をしているようだ。


「あれ、ちょ、待て、自分は所謂彼女なんと、ちゃうん」

「聞いてない!知らない!私はずっと片思いのつもりだった!」

「俺はずっとお互いに好きやと…。やって、鍵渡したやん!」

「それって、妹としてでしょ」

「妹なんて思ってへん!」


忍足さんが珍しく、声を張り上げた。いや、大きな声を聞いたのも初めてかもしれなかった。いつもは優しい静さを持った目に、真剣に見つめられて私は言葉をなくした。

忍足さんが、私を好き?そんな話は一切聞いたことがない。それは確かだ。だって、普通、そんな大切な言葉を忘れるはずがない。けれども、確実にその言葉は存在した。忍足さんの中に。


「…聞いたこと、なかったですよ…」

そうだ、いくら忍足さんがそう思っていてくれていたとしても、言葉に出さなくては何も伝わらない。私だって、言ったことはないのだけれど。
忍足さんの優しさが直接イコールで好きと結ばれていると思うほど若くもないし純粋でもないのだ。困ったような忍足さんの笑顔がずっとあるから、私だって困ってしまう。

「…なんか、ほんま、堪忍な。この歳になったら言わんくても通じるように思ってたんかなぁ」

「、うん」

「ちゃんと、言わせてな」

「うん」

「好きや、名前ちゃん」


両の手を包まれるようにぎゅっと握られて、熱い体温が伝わった。変だな、忍足さんの手ってもっとひんやりとしたようなイメージがあったのに。
眼鏡越しの目が少し照れ臭そうに揺れたのを見て、忍足さんも緊張するんだとぼんやりと思った。パーフェクトだと思わせた彼は、案外こういうことも苦手なのかもしれなかった。そう考えると、どうだろう。たかだかこんな一瞬の間にも胸が苦しくなるほどどんどん好きになっていくのだ。
握られた手を、私からも力を持って返した。


「、私も、好きです」

「おん」

「お誕生日、おめでとうございます」


緊張して声が震えたかもしれない。でも、忍足さんがやっと笑顔になれたので私の緊張など些細なものだ。


「なぁ、ぎゅーってしてええ」

「うん」


ベッドから抱えて降ろされて、ふたりして床に座った。そのときにバギっていう何かが割れた不吉な音がしたのすらもはや別世界の話であって。
忍足さんの足の間でぎゅうって抱きしめられたらなんだが苦しくて涙が出そうになった。「ちいさいなぁ、なんかすっぽりはまるわ」耳元で聞こえた忍足さんの声が妙に嬉しそうだった。私も、ちょうどそう思っていた。抱きしめられていると、ぴったりと身体がくっついて酷く安心した。サイズが多分、ぴったりなんだ。


「ずっとこうしてたいな」

「うん」

「…あ、でも、やっぱ」

「うん?」

「ちゅーもしたってええ?」


そんなこと、断れるはずがないのに。

うんと素直に声に出すのは恥ずかしいので、首だけで頷いた。忍足さんの手が頬に寄せられて、彼の胸元に顔を埋めていた私の顔を上げさせて見つめ合った。なんだか恥ずかしくて笑ってしまった。

その時に、彼の着ているワイシャツの襟元に変なアイロンシワが出来ているのを見つけてしまって、私は改めてこう思ったわけです。



そういう訳で、私はここから出られない


(全部ひっくるめても好きだなんて、ずる過ぎる)

20101019
忍足くんお誕生日おめでとう!
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