※警察学校



休日の昼下がりの明かりが照らす大通りの少し奥、静かに佇むレンガ調の建物の前には、白いチョークで店名が書かれたブラックボードが置いてある。
『Cafe Snowdrop』と書かれたそれの横にある扉を開けばカロン、とのんびりとしたベルの音が鳴り、ふわりと漂うコーヒーの香りといらっしゃいませとはずむ彼女の声が出迎えてくれた。
その彼女の声が、自分の姿を見付けた途端にゆらりと揺れて、それを誤魔化すようにお好きな席へどうぞと案内する言葉が、他の客へ向けたものよりそわそわふわふわとして聞こえるように感じたのはいつからだったか、それが自分の自信過剰でなければ良いなと思いながら、萩原は最近定位置となったカウンターの端の席へ腰かけた。


「萩原くん、ご注文は?」

「環ちゃんで☆」

「、ブレンドおひとつですねかしこまりました〜」

「わー!待って待って!今日はパスタもお願いしたいなぁー!」

「あれ?今日はまだお昼ご飯食べてないの?」

「うん、ちょっと他の用事済ませて来たからさ。何かおススメある?」

「えっと…萩原くんトマトは好き?今朝農家やってるおじさんから採れたてのトマトが届いたから、今日の日替わりパスタはトマトとベーコンのパスタなんだけど…」

「えっ何それ美味そう!それにする!」

「ふふ、じゃあ少々お待ちください」

「はいはーい」

ひらりと手を振る萩原にお水だけを出してキッチンに入った環は、冷蔵庫から食材を出すついでに少しだけ冷気にあたって頬を冷やす。
今、萩原と環は友人という関係だけれど、萩原はその先へ進もうと隙あらば環を口説きにかかって来る。それが別に嫌だという訳ではないが、今すぐじゃあ恋人になりましょうかと安易に言えるほど、萩原のことを軽く見ているつもりもない。…いつか、真剣にお返事をしたいと考えている環は、彼のセリフを今は真に受けないようにと気を張ってはいるけれど、あんな色男に熱い視線を向けられて平然としていられるほどの経験値もなく、毎回赤くなってしまう頬は、きっと萩原にもバレていることだろう。
ちらりと振り向いた先の萩原が嬉しそうにこちらに笑みを向けるのを見た環は、困ったなぁと思いながらもそれに微笑み返してしまうのだった。








「環ちゃーん!アイスコーヒーひとつ!」

「はーい」

おやつタイムを過ぎると、店内には数人の常連客しか居なくなる。ぽつぽつとテーブル席についてのんびりしているおじ様たちは、ここのオーナーである環の伯母が店をはじめてすぐからの古株で、環を自分の娘のように気安く呼ぶ。それに慣れたように返事をした環は、水出しのコーヒーをグラスに注いでミルクだけを添えてテーブル席へ。ごゆっくりどうぞと告げてカウンターへ戻ろうとした環だったが、そういえば環ちゃん、と声をかけられくるりとエプロンの裾を翻した。

「オーナー、まだ調子悪いのかい?」

「あー、そうなんです。とっくに退院はしたんですけど、まだ杖がないと歩けなくて…」

実は先月、環の伯母は家で転倒した際に足を捻挫してしまっていた。店は環とアルバイトの店員で営業出来ていたが伯母本人は店に出ることもかなわず、環が臨時で店を仕切るようになってそろそろ一か月が経とうとしている。
常連のおじ様たちは少し寂しそうにしているが、当の伯母本人は、店に出られなくて落ち込んでいることもなければ、むしろ今までなかった一人での自由時間ができたと喜んでいた。手始めに動画配信サイトで映画やドラマを見始め、何故か韓流ドラマに興味を持ち、今朝は三日前にはじめた編み物と格闘している伯母に見送られて環は出勤した。いい機会だし、そろそろあなたに店を譲ろうかしら、なんて伯母が言っていることは、常連たちにはまだ言わないほうが良いだろうと、環は思っている。

「本人自体は至って元気なので、また顔を出すと思いますよ」

「そうか、元気ならそれが一番良いね」

お大事に、と言いながらコーヒーに口をつける客にお辞儀をして、環はカウンターに戻って来る。流し台に下げていたカップや食器を洗っていると、視線を感じて顔をあげる。もはや定位置となっているそこに座る萩原は、こそっと環に声をかけた。

「環ちゃんは平気なの?」

「ん?なにが?」

「おばさん、まだしばらく戻って来られないんでしょ?お店のこととか、環ちゃん一人で無理してない?」

「うん、大丈夫だよ。もともと伯母さんもそんなにバリバリ働いてるわけじゃなかったし、アルバイトさんに手伝ってもらって、のんびり経営出来てるよ」

心配してくれてありがとう。と言いながら水にぬれた手を拭う環に、萩原もそれなら良いんだけどと少し前に乗り出していた身体を元に戻す。彼女の言葉の通り、テキパキと働く環はいつものようににこやかで楽しそうで、その顔色も濃い目の化粧等で誤魔化されたものではなく、自然な頬の桃色が今日も可愛らしい。

……と、ついつい彼女を眺めて今日も長居してしまったが、そろそろ帰った方が良いかもしれない。門限にはまだ余裕があるけれど、この店に来て客が2回ほど入れ替わるくらいには居座ってしまった。名残惜しく思いながら、カップに少しだけ残っていたブレンドコーヒーを飲み干して席を立とうとした萩原を、真新しい白いカップを手にした環が引き止めた。

「あの、もし良かったら、コーヒー1杯ご馳走させてもらえないかな?」

「え、嬉しいけど…良いの?」

「うん、これから店に出す予定の新しいブレンドなんだけど、味の感想とか聞きたくて…」

「わかった。じゃあご馳走になろうかな」

先ほど空になったカップをカウンターに返して座り直した萩原に、環はちょっと待っててね、と返して年季の入ったコーヒーミルを取り出す。がりごりと豆が挽かれる音を聞いていると、いつも通りの、けれど少しさっぱりとした香りが漂ってきて、萩原はうっとりと目を伏せた。

「良い香りがするねぇ…」

「ほんと?良かった」

「うん、俺この香り好きだわ…」

ゆるりと口元をほころばせた萩原に、環のハンドルを回す手が一瞬だけテンポをずらす。けれどすぐにきゅっと唇を噛んで動揺を隠したのを、目を閉じていた萩原が気付くことはなかった。


「はい、お待たせしました」

「…いただきます」

ことんと静かに置かれたカップを手に取って、萩原はまず香りを嗅いでみた。先程の奥深くもくどくないさっぱりとした印象の香りを強く感じて、一口飲むとその香りの後にほろりと優しい苦味が広がった。

「これ…」

「うん…」

「めっちゃくちゃ旨いんだけど!え!?コーヒーってこんなに違うモン!?」

あ、いや、いつも飲んでるやつも旨いんだけど!俺こっちのほうが断然好き!!
きらきらと瞳を輝かせてもう一度カップに口をつけた萩原は、今度はしっかり味わってからコーヒーを飲み下してほぅ…と息を吐く。ぽやぽやと花でも飛ばしそうなほどご機嫌な萩原の様子を見て、環は強ばっていた肩の力を抜いた。

「よ、良かった〜」

「これ、今後店に出るんでしょ?俺マジで毎日飲みに来たいくらい好きだよ…」

「ふふ、萩原くんの好きそうなブレンドを研究した甲斐があったね」

「ん、え!?」

のんびりと三口目を飲もうとしていた萩原は、にこにこと嬉しそうな環の言葉に弾かれたように顔を上げた。
この、新しいブレンドのコーヒーは、萩原の好みを考慮して作られたと…?萩原の聞き間違いでなければ、今彼女はそんなことを言った、のか…?ぽかんと自身を見つめる萩原に気付いた環は、内緒話をするようにそっとカウンターから身を乗り出した。

「実はね、伯母さんから、そろそろ自分でブレンド作っても良いんじゃないかって言われてて…。でも、どんなのが作りたいか全然思い付かなかったから、萩原くんに美味しいって言ってもらえるものを目指したんだ」

でも、常連さんたちが飲んでるのは伯母さんのブレンドだから、これはまだ2人だけの秘密にしてね?


はにかんで、少し赤くなった頬をかきながら言う彼女は、その言葉に、行動にどんな威力があるのかちっともわかっていない。

そんな、自分のために作られたものを、嬉しそうに誇らしそうに告げられて、しかもめちゃくちゃ旨いし、2人だけの秘密とか、特別扱いしてもらえるなんて、そんなのめちゃくちゃ嬉しいし、自惚れてしまうじゃないか。


そっとカップをソーサーに戻して、こぼれないように少し自分から離れたところに移動させた萩原は、赤くなる顔とにやける口元を隠すためにカウンターに突っ伏した。








君の香りにまた恋をする








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