その夜、待ち合わせ場所にわたしは行かなかった。携帯電話の電源も落としてしまった。
ウイングさんは約束をしたが最後、いつまでも待ち続けるって知ってた。
でも、どうしても顔を合わせるのが怖かったのだ。
絶対に別れ話を持ち掛けられるってわかってる。別れ話なんてものじゃない、あるのは、一方的な通告だ。
わたしはベッドにもぐって、ここで眠っていたウイングさんを思い出し(メガネがとても似合うひとだけど、メガネなしの意外と整った顔を見られるのはわたしの特権だと思っていた)、
リビングのソファで毛布をかぶったけど、ここでコーヒーを飲んでいたウイングさんを思い出し(ソファにはウイングさんがこぼしたコーヒーのしみがついている)、
キッチンの隅っこにうずくまったけど、そこでも洗い物をしていたウイングさんを思い出して(ウイングさんはわたしのお気に入りのお皿から割るのでそのうちキッチン立ち入り禁止令を出した)、
とうとう居場所がなくなってしまった。
仕方がないのでダイニングテーブルの下にもぐりこんですっぽりと毛布をかぶり、まんじりともしない夜を明かすことにした。
明日になったら新しい部屋を探しに行こう。家具も全部捨てて、この町も捨てて、もっと大きな町へ行って、一粒の蟻になったみたいにちいさくちいさく生きよう。
そう決意したところで、玄関のベルが鳴った。いちど、にど、さんど。
規則正しく鳴るそれは、ウイングさんの鳴らし方だ。ウイングさんは合鍵を持っているにもかかわらず、律儀にベルを鳴らした。
そうだ、合鍵があったのだ。わたしはそそっかしいウイングさんがうっかり合鍵なんてどこかへやってしまったことに祈りをかけてみたが、鍵はあっけなくその役目を果たし、ドアの開く音がした。
もう、逃げることはできない。
わたしに為す術はない。
ウイングさんの口から紡がれることばを待つだけだ。
最後の最後だけ、ウイングさんはやさしくない。お堅くてまじめで、そして残酷だ。
絶望の足音が近づいてくる。目の前にしゃがんだ気配がする。
「nameさん。」
ああ、大好きなウイングさんのやさしい声。名前を呼ばれるのもこれで最後かと思うと、本題に入る前に涙が浮かんだ。
「結婚してください。」
ウイングさんは、ベールというには少し厚すぎる毛布をめくり、わたしの顔を手で包んで覗き込んだ。
わたしの目からは大粒の涙がぼたりぼたりと落ちている。まるで涙腺が壊れたかのように。
「こんなに泣いて……。」
「だってっ、ひるまっ、ようじがあるっていってたのに、指輪とブーケ、店員さんにっ、あのひととっけっこ、こん、けっこんっ、するんでしょっ?なのにっ、なんでっ、わたしにっ……!」
しゃくりあげながら、ようやくこれだけ伝える。ウイングさんはいつも通り、わたしが話し終わるのを待ってくれる。
背中をやさしくなでてくれるから、わたしはとうとうこどもみたいに、声をあげて泣き出してしまった。
泣きつかれてぼーっとした頭に、ウイングさんの落ち着いた声がしみこむ。
「ほんとうは今夜、あのレストランでプロポーズするはずだったんですよ。」
「花束と指輪をお店に預けて、頃合いを見て持ってきてもらう手はずだったんです。」
「あなたが店にいたとはぜんぜん気づきませんでした。」
わたしにわかるように、一言ひとことゆっくり話してくれる。
どうやら事の次第はこういうことらしい。
「誤解させてしまいましたね、すみませんでした。」
最後にこう言ってウイングさんは説明を締めくくった。
「それで、」
ウイングさんは再びわたしの顔を両手で包み込む。
「わたしと結婚してくれませんか?」
(答えはキスに埋もれた)
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