_20120614. T.u.boy with love.


 ねえ、あのさ、あたし思うんだよね。あたしさ、よく人にさ、何にも考えてなさそうだよねって言われるんだけどさ。何にも考えてない人なんていると思う?いないでしょ?だって人間だもの、大なり小なり何かしらいつだって考えてるものじゃない。見えないからって、そうだとは限らないわけよ。そりゃあまあたまにはぼんやりしてるときだってあるよ、人間だもの。でもさ、何にも考えてなさそうに見えるあたしだけど、悩みがないわけじゃなくって。は?あるのかって?そりゃそうでしょ。例えば?うーん……そうだな、お金ないなあとか。は?ボンビーって言うな。いつ流行った言葉だそれは、案外古い知識だな。まあいいや、とにかく今は大した悩みはなくとも、あるときはあるわけよ。家族のこととか友達のこととか老後のこととか、年金とか明日のこととか。は?昨日のこと?過ぎたことは悩まないの、意味ないじゃない。こうしとけばよかったなってのは、次やればいいの。やんない奴は延々悩んでも結局やらないものなの。だからね、まあ、あたしも人並みには悩むってこと。考えてないわけじゃないんだよ。だけどさ、そういうのは特に見せたりしないの。見えないからわからないものだけどね。は?見えないものはこわい?ああ、まあね、そうだよね。とにかく、言いたいときは言うし、言わなくていいときは言わないから出さないの。わかる?

 ここまで口にしてから持ったまま飲まなかったグラスを置いた。梅雨に入る直前の熱気を含んだ風が、飲み屋の軒先に掛けられたビニールカーテンの隙間から入り込んで纏め損なった後れ毛を揺らす。カラン、と鳴った氷はだいぶ溶け出していて、やたらと軽い音を鳴らした。ああ、少しばかり一人で喋り過ぎたらしい。何をそんなに熱弁することがあったか……大したことも話してないのに。
「で、何かあったのかって聞きたいんだけど」
 隣の奴は一杯目の生中グラスを握り締め、青ざめたまま応えなかった。しかし、これだけ“何かありました”的空気を出されていれば、流石にお伺いの一つも立てたくなるのが人間の性さがだ。そのあからさまな構って態度に対する苦言進言が前述の熱弁なわけだが、さて、奴は自分に一杯一杯で伝わったかどうかは怪しい。本当、何があったんだ。
「何か……あー、女にでも振られたとか?まあ、大丈夫だよ。そんなの星の数だしさ、ほら、あんたはそれなりに器量よしって言うか」
 何でこんなフォローをしなければならないのかと口にしながら首を捻れば「……そんなんじゃない」と小さく否定された。なら最初からそう言ってくれ。つまらないことを言ってしまった。しかし、とまた首を捻る。あたしが知る限り、この男はなかなかに生真面目だ。例えば、親兄弟に何かあったとして、青ざめ動揺はしても飲みに来たりはしない。つまり、何か話したいが話すのが躊躇われる──今のこいつはそんな状況なのだろう。問題はその何かであって、それがわかるまで、あたしはこの微妙な空気に付き合わなければならないわけだ。……早く決心してくれ、さっきの熱弁からあたしの性格を察して欲しい。
「……あのさ、」
 祈りが届いたのか、重い口を開いた奴に「うん?」と胸中は隠した大人の対応で相槌を打った。
「笑わないで欲しいんだけど」
 笑わない、だから早く吐き出せ。酒が不味くなる前に。
「“一つ目の付いた傘が一本足で飛び跳ねる姿が一般的であり、傘から2本の腕が伸びていることや、目が2つのこともあり、長い舌を伸ばしていることもある。まれに、狩野かのう宴信やすのぶによる妖怪絵巻『百鬼夜行図巻』などで、2本足で描かれている例もある”」
 笑いはしなかったが、問題は解決しなかった。
「……何の呪文?」
「真面目に聞けよ、Wikipediaで調べたんだから」
 大の大人がWikipediaで何を調べているんだ。いや、わかる。言いたいことはわかるし、それを調べるのにWikipediaが最適だったろうことも理解は出来る。わかるが、結局よくわからない。
「……それが何なのよ」
 飽くまでも普通であったこいつが、真剣にWikipediaで調べたのが妖怪?よりによって妖怪?諳そらんじてしまえるほど読み込んだってこと?本当に意味がわからない、寧ろどんどんと理解及ばなくなってきている。わたしの胸中やはり知るよしもないこいつは、至極真剣な表情でぐっと生中グラスを握り締め言った。
「見たんだ」
「見た」
「そう、俺は確かに見たんだ」
「はあ」
「見たんだぞ!?」
「唐傘小僧を?」
「バカ!その名を口にするな!」
 何が琴線に触れたのかを言葉にするのもバカらしく「ああ、ごめん。何て言えばいい?」と至極冷静に返したあたしに、眉間に皺を寄せた奴は大層真面目にこう言った。
「“Tang umbrella boy”」
「……」
 やたらと発音がよくて、ああそう言えばこいつ英文科出てたんだっけなとか、意識が逸れる。何を考えているんだ、お前こそ何も考えていないのか。このご時世、この時代、お前の学歴と肩書きと外見と営業成績で、Wikipediaで調べたことが唐傘小僧でしかもその名を口にするなとそれはそれは大層真面目に言ったあげく、ネイティブ顔負けの発音で“Tang umbrella boy”?あたしにどうしろと。そんなあたしの戸惑いならぬカオスにやはり気づくことなく、奴の青ざめた表情は幾分か血色が戻り、肩の荷が下りたかのように強張っていた体の力も抜けたようだった。いや……まあ、いいけど。
「話せば長くなるんだけどさ……」
 そうしてあたしは、梅雨に入る直前の熱気を含んだ風がビニールカーテンの隙間から入り込んで纏め損なった後れ毛を揺らす飲み屋の軒先に設置された木製テーブルで、肉じゃがを突きながら、新たなる都市伝説を延々聞かされたのであった。ああ、やっぱり

見えないものはこわい



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