間違いない、あの人はフェイタンだった。
 どきどきと心拍数が上昇、冷や汗まで出てきて、私は思わずきつく目を閉じて俯いた。ふわりと、あのゴミの街のすえた匂いが鼻を掠めたような気がした。金属の錆びと何かがゆるやかに腐っていく匂いが混じったのが、流星街の匂いだった。幼かった私が毎日のように、呼吸し、纏わせていた空気だ。

「お嬢様、どうかいたしましたか」
「いいの、閉めて」

 片足をだらしなく車外に放り出してシートに沈み込んでいた私は、はっとして足を車の中へと引っ込めた。ばたん、と音がして私はヨークシン・シティの喧騒から隔てられる。滑らかな光沢を放つパンプスのつま先を見ながら、私はもうあの街とは何の関係もないのだと言い聞かせた。真新しい靴には傷ひとつない、車と専属ドライバーを与えられた私はもう歩く必要さえないのだから。
 私は裕福だった。ただ、人混みの中で見たフェイタンのあの冷たい横顔を思い出すと、車も靴も私を慰めきれないほどの痛烈な虚しさが、私の中で込み上げるのだった。
 完璧に忘れようと努力した、流星街での生活の記憶が蘇って私を苛ませる。


 ねー、パクノダ。聞いて。聞いて。ねぇってばぁ。
 どうしたの、ナマエ。

「あのね、パクノダ。私ね、ここを出て、綺麗な家に住んで、綺麗な服を着るんだって」
「そう。良かったじゃない。誰かにそう言われたの?」
「うん。さっき会った黒い服のおじさんがね、私みたいな子を探してるんだって。綺麗な家と綺麗な服をくれる家族に会わせてくれるの」

 パクノダはしきりにまとわりつく私の頭を撫でた。
 この辺りの子供の中では、私はまだまだ幼い方だった。パクノダのような年上がよく面倒を見てくれた。食事も、衣服も、彼女たちが調達してくれた。あそこにいた女の人の中ではパクノダのことを一番はっきりと覚えている。
 それからパクノダは少しだけ困惑した表情で、私の目線までしゃがみ込み、優しい声で「どういうおじさんだったか覚えている?」と尋ねた。私の頭の中は、綺麗な家と綺麗な服のことでいっぱいで、それどころじゃなく、無邪気に笑いながら首を横に振る。パクノダはいっそう顔をしかめると、立ち上がって唇に手を当てた。パクノダはよくそうやって考え事をしていた。
 私はゴミの山を駆け下りて、いつもの場所へと向かう。
 ゴミの山だけど、あの頃の私にとっては宝物の山だった秘密の場所。


 古紙の束からファッション雑誌を見つけて収集するのが私の趣味だった。私の生活のすべてを年上たちに背負わせていたから、私は何もすることがなく、その趣味が私の生き甲斐だったと言ってもいい。
 ビニール紐で結われた古紙の隙間から目当てのものを取りだそうと、がさごそ音をたててそれを引っ張っていると、後ろで古紙の束の上に座って本を読んでいるフェイタンが舌打ちをした。私はびくりと体を揺らすと、恐る恐る後ろを振り返って、フェイタンが自分を睨んでないことを確認し、作業を続ける。私とそこまで年も変わらないのに、子供のそれとは思えない鋭く冷たい眼光を私はよくこわがっていた。
 ようやく引っ張り出せた雑誌を、両手を伸ばし眺める。青い空と白い日差しの下で、それはとてもボロボロで見窄らしく見えたけれど、運が良いことに、二年前のものだった。真っ赤な唇とコケティッシュな笑顔のモデルをうっとりと眺めた。
 明日は頑張って口紅が落ちてないか探そう。
 こんなゴミの街、出て行ってやる。私は綺麗な家に住んで、綺麗な服を着るのだ。

「また、無駄なもの集めてるか。無駄無駄、どうせそれもまた捨てるだけ」
「……フェイタンこそ、つまらなそうな本ばっかり」
「読めないくせによく言うね。これはクロロから借りたよ」
「ふうん」

 フェイタンの隣に腰掛けると、あからさまに肘で目元を殴打された。そう、フェイタンは子供の時から暴力を振るうことに抵抗がなかった。怒った私がフェイタンを押しのけようとし、それに対して右手で首根っこを掴まれた私はそのまま地面に叩きつけられた。軽く土煙が舞う。目を細めて、口の中に入った砂利を吐き出そうとすると、フェイタンが私の上にのし掛かって首を絞めた。

「お前みたいな、憧ればかりの子供、吐き気がするね。ここをどこだと思てる」

 貫くような太陽の日差しがただ眩しかった。それを遮るようにだらりと、私の頬に垂れたフェイタンの黒髪がくすぐったい。フェイタンがこうやって私を痛めつける時、言うほど彼はこわくなかった気がする。だって、フェイタンだってただの子供だったのだ。



「それ、本当かしら。別のルートに繋がってるんじゃなくて? 人身売買とか臓器売買とか」
「パクノダ。ナマエに聞こえる」
「……何でもないのよ、ナマエ」
「ナマエ、ここへ来い」

 男の人の名は、確か、クロロだったはずだ。流星街の住人にしては珍しく、名字も名乗っていたはずだけれど、残念ながら覚えていない。よく思い出して見れば、パクノダ、フェイタンやクロロたちはいつも一緒に行動していたから、一種の集団だったのかもしれないが、私は自由奔放にあちこちで遊び回っていたので真偽は分からない。帰属しているという自覚はなかったのに等しい。
 クロロは偉い人、そういう風にあの頃の私は認識していた。クロロは偉い人、だから、言うことをきく、逆らわない、汚い言葉は使わない。今、思えば、あのゴミ山には不釣り合いなほど綺麗な男の人だった。色が白く、髪と瞳は黒かった。顔立ちも私の収集していた雑誌のモデルたちと比べてもずっと整っていて、すらりと足が長く、背も高かった。私は緊張してクロロの前に立った。強張った顔に気づいたのか、少しだけ穏やかな顔で微笑んで私の頭を撫でる。彼の手は大きくて、すっぽりと私の頬を包む。しゃがんで私の顔を覗き見る彼の瞳に、大人の狡猾さも、私を試そうとする不穏な何かもなく、ただ私のことを案じているのだという誠実な色が宿っていた。

「ナマエは外に出たいか」
「うん」
「俺たちとはもう会えないが、それでも?」
「……」
「今のは意地の悪い質問だったな。謝るよ。もう一度だけ聞く。……ナマエは外で新しい人生を歩みたいか」
「うん。私、外に出たいの、クロロ」

 お前、外に出るか、ナマエ。
 いつの間にかパクノダの隣に立っていたフェイタンが、いつもと違う声音で私に尋ねた。私は子供だった。世界の中心が自分なのだと疑いもしていなかった。だからこそ、何にも気づけず、フェイタンの問いの意味や、その声音に含まれた感情を汲み取ることが出来ず、いつものように無邪気に笑って「うん」と言うのだ。
 子供の無知は残酷そのものだ。
 名残惜しそうにクロロの手が私の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。


 フランクリンがどこからか口紅を拾ってきてくれた。子供の私にはまったく似合わなかった上に、オレンジなのかピンクなのかベージュなのかよく分からない変な色だったから、私は「要らない」と拗ねた。
 フランクリンはただ笑って、「そうか」とだけ言った。フランクリンのとっても大きな手にぽつんと残された口紅はひどく寂しそうな感じがした。フランクリンは、子供の我が儘によく付き合ってくれて、私にそうやってよく化粧品やらお菓子やらを拾ってきてくれた。いつのものか分からないガムを食べた日に、死ぬほど吐いた鮮烈な記憶がまだ残っている。

「……スカート、破れちゃった。マチに直してもらう」
「新しい家ではたくさん服を買ってもらえ」
「うん! おじさんが言ってた。新しい家でねー、新しいカゾクと過ごすの。ねぇ、カゾクって何? 古いとやっぱりそれってここに捨てられるの」
「オレはよく分からないな。クロロに聞くのがいいんじゃないか」

 マチー!マチ!どこー。
 ナマエ? ……あーあ、また破いたのか。しょうがない子だね、まったく。
 マチの目が赤かった。クロロがやけに優しい顔をして私とマチに背を向けた。マチは手早く私のスカートを繕う。もし、今、マチが流星街の外で暮らしていたら、やっぱり服飾に携わる仕事を選んだだろうか。手際のいいマチの手が一仕事を終えた後、私をがっちりと掴んで引き寄せ、抱きしめた。私はマチの肩越しにクロロの背中を見ていた。

「あんた、無理すんじゃないよ」
「マチ、何で泣いてるの」
「バカ。泣いてない。あんたとは今日でお別れだよ。明日の朝、あんたの家族が迎えくるってさ」
「ねー、クロロ、カゾクって何?」

 それは――
 クロロの唇の動きは覚えているのに、それが何と言っているかは分からないのだった。もしかしたら、忘れたくて思い出せないのかもしれない。ただマチの鼻をすする音だけが記憶に染みついている。


 その日の朝、私は自分の収集物を捨てることにした。
 もともとゴミ山から拾ったものだから、それは自然な成り行きだったように思う。いいや、すべてはいつか捨てられる。無価値になる。あの街はそういうものの終着駅だった。何もなかった。いいや、何もかもあったけれど、それは使い果たされた成れの果てでしかない。新しくて、美しいものなど、何一つない。
 私は、彼らは、そこで何も求め、生きていたのだろう。何もないというのに、すべてがそこにあるというのに、それ以上に何を欲したというのか。
 私は新しい世界を望んだ。ゴミの街ではなく、新しく、美しいものがある街で生きたかった。
 引きずってきた雑誌の塊をゴミ山へと投げ込むと、近くで、苛立ちのこもった舌打ちが鳴った。びっくりして振り向くと、フェイタンがいつものように読書をしていた。鬱陶しそうに伸びた前髪をかきあげて、その下に隠れていた切れ長の瞳で私を射貫いた。私は足元に落ちた雑誌を拾い上げると、フェイタンの隣に座る。最後だから、と思ったからなのか、私の口はいつもより軽かった。

「私、外に出て、こんな大人になりたい。きれい。かわいい」

 あの雑誌だ。赤い唇、コケティッシュな笑顔。
 フェイタンは今日はうって変わって静かで、何も言わずにただ眉間に皺を寄せて雑誌の表紙を眺めるだけだった。冗談気味に「欲しいの? あげる」と言えば、フェイタンは本を閉じてその辺に置くと「置き土産か? もらてやるね」と手を伸ばした。
 驚きつつも雑誌を差し出すと、フェイタンはそれを受け取らずに私の手首を掴んだ。そして、容赦なく私を地面へと押し倒す。

「ワタシからもやるよ、新しいカゾクへの手土産」

 そう言うなり私の腹に鋭利な痛みが走り、私は叫んだ。私のスカートも、フェイタンの手に握られた何かも真っ赤だった。

「はは。女なのにこれで傷物ね。わざと刃こぼれしたやつ使たから、痕残るよ」

 フェイタンは私の頬に触れた。そんな優しい手つきはこれがはじめてで、最後だった。


 私は必死だった。
 怪我をしていたら新しい家族のところに連れていってもらえない、と漠然と察し、不安で胸がいっぱいでオロオロとしていたけれど、止血するだけの根性はあって、何とか血を止めて平生を装うことが出来た。深い傷ではなかった。フェイタンに殺意などこれっぽっちもなかったのだろう。
 マフィアの人達は時間通りに現れて私の手を引いていった。一度だけ振り返ると、そこにはクロロやパクノダたちの姿はなく、ただゴミ山の近くでフェイタンがじっと私を見ているだけだった。唐突に、フランクリンからあの口紅をもらっておけばよかったと後悔した。同時に、そうしなくてよかったんだとも思った。
 私の故郷は流星街なんかじゃない。
 新しい家族は、私に新しい名前と、誕生日と、出身地を与えた。だから、これでよかったんだ。私はこの記憶を捨ててしまうべきなんだ。そう、あの街に置いてきたらよかったのだ。あそこは何を捨てても許されるから。
 新しい家族、新しい母親は子を産むことができず、ただ顔は私によく似ていた。だから、私はあのマフィアたちに気に入られ、この家族に売られたのだろう。世界でも有名な資産家の家族だった。新しい母親は私が流星街出身だということも知らず、ぬか喜びしていた。そのくせ、腹の傷のことを知ると、私を遠ざけるように余所余所しくなった。まるで、他人の手垢のついたものなど、触りたくないとでも言うように。しょうがないじゃないか、どうせ私は誰かのものだったのだ。流星街に捨てられる前は。そして、拾われ、自分で自分を捨てて、また拾われた。それだけの話だというのに。
 ヨークシン・シティの夜景は、流星街とは比べものにならないぐらい美しい。ただ、星空はビルの群れに阻まれて見えない。欲しいものはすべて手に入れた、それでも私の渇きは癒えることなく、今も、何かをただ求めている。それが何なのかも、分からずに。

「うぐっ……!」
「えっ!? ちょっと……嘘……!」

 運転手は喉を貫かれて絶命していた。窓ガラスは完璧には割れておらず、直径十五センチほどの穴と亀裂だけが無様に残されている。運転手は力の入っていない首をだらしなく垂らしながら、ばたんと横倒れになった。間髪を入れずに後部ドアが開く。ヨークシン・シティの雑踏の匂いとともに乗り込んできたのは、小柄で若い、アジア系の青年。私は言葉を失った。青年の膝がシートに沈み込む。青年は乱暴に私のブラウスをたくし上げた。

「やっぱり、お前か。ナマエ」
「……フェイタン?」
「この傷、私がつけたものね」
「どうして、何で」
「自分のものを返してもらうのは当然のこと。見かけて返してほしくなたから奪た、それだけのことね」
「……」
「お前、満足か?」

 弓なりに目を細めたフェイタンが私を見下ろした。着飾っているというのに、突然、自分がひどく貧相なものになった気がした。ゴミの街にいた見窄らしいあの子供に戻った気がした。

「見て、分からないの」
「お前、いつもそうだたよ。与えられることばかり考えて、自分で奪いにいくこと考えない。憧れるだけ、眺めるだけ、待ているだけ。ほんと、お子様ね……お前、本当に満足か?」
「……じゃない、よ。私、ぜんぜん満足できない。もっと欲しい。ねぇ、本当に、だから嫌なの、あんな街に生まれたせいだ。卑しいの、私。欲しい。ぜんぜん足りてない」
「ワタシたちと来るね。お前の望むものはそこでしか見つからない」

 フェイタンに車から引きずり下ろされる。靴に一本の深い切り傷がついたけれど、私はもうそんなことどうでもいいのだ。


20141013【底無しの貪欲のはなし】