ある朝、殺し屋の“ミョウジナマエ”は消えた、おともだちのナイフも、血のにおいもまるで、ウソのようだった。そうやって、目を覚まして、一人暮らしのしっちゃかめっちゃかな部屋に漂う、平凡・退屈・一般ピープルな空気を吸い込んで、わたしは気づくのでした。私はとっくのとうに殺し屋稼業から足を洗っていたことに。
 足に絡みつく薄い布団を蹴り飛ばして、扇風機のスイッチを押し込む。まとわりつくようにじっとりとした部屋の空気も、少しはマシになった。ぶううん、とリサイクルショップで買った古めかしい扇風機は、こちらの様子を見ながらこわごわと唸るような声を出し、首をゆっくり振る。
 三年前にこの部屋にやって来た瞬間から、ニヒルでクールな(なんてね)殺し屋の精度は失われた。牙を抜かれた、ただの獣は、ただの獣以下に成り下がったのです。牙を抜かれたわたしは、怠惰に今日も生きている。落とし前をつけなくてよかったんだろうか? 足を洗ったからといって、よくもぬけぬけと表を歩けるものだ。生きていていいんだろうか? ふと思う。いや、これは神様からの憐れみであって、同時に戒めなのです。煙草とかお酒とか、くっだらないメロドラマに依存してどこまでも堕落、そして、気が狂いそうなほど退屈な日々に耐えるだけに設計された人生。でも、わたしの神様っておバカさんだ。わたしを不幸せにしようとすればするほど、わたしがぐずぐずと意味もなく生きる生き物に近づくほど、わたしは幸せなのである。なぜなら? それはひとえにわたしが根本的にマゾヒスティックな存在だから。残念ね。
 食パンを一枚、コップにミルクを一杯、そして、ベランダに出る。灰色の雲のせいで空がくすんでいる。黒い猫が、にゃあ、と鳴いてコンクリートだらけの街へと消えていく。この街は、あじけない、つまらない街である。
 チャイムが鳴る。集金か、それとも、隣のおねえさんが「ドライヤーぶっ壊れたからすみやかにあなたのを寄こしなさい」と、また頼みに来たのだろうか。欠伸をしながらドアを開けた先にいたのは、クロロ・ルシルフルだった。

「……ひさしぶりだな」

 すごく、心から、脳味噌のど真ん中から驚きました。たぶん、生粋のバンドマンがドアを開けた先にエルヴィス・プレスリーがいた時のショックが、または、末期の自傷依存少女がドアを開けた先に美形の死神がいた時のショックが、これに等しい。
 わたしは、うん、と呟くとクロロを招き入れる。わたしが別れを告げた、うつくして、きたならしい、あの世界のにおいが、ふわりと、クロロから香る。奪いあって、憎しみあって、殺しあって、たまに愛することを思い出す、あの世界。
 においと記憶が結びつくの、プルースト効果っていうんだって。金と愛が結びつくのも、男と女が結びつくのも、なんとなく理解はできるけれど、においと記憶だなんて、へんなはなし。そのプルースト効果やらに、ふと同業者のことを思い出して「イルミ、元気?」ときく。クロロはこいびとの部屋に来たみたいに自然な動作で、椅子に座って、「ああ、イルミなら二日前に会ったばかりだよ。元気だろ、たぶん」という。

「何しに来たの、クロロ」
「さぁな。ところで、こんな退屈なところでお前は何をしてるんだ?」
「わかんない。生きてる。ぜんぜん儲からないアルバイトしてる」
「戻ってこい」
「どうして?」
「似合わない。オレはナマエが殺し屋だった時の方が好きだな」
「それって見栄えのはなし?」
「いや? 存在のはなしさ」
「それで、何がいいたいかというと?」
「イルミは高給取りだからな……ナマエが戻ってきてくれると助かる。便利だ。手籠めにしたい。ただ働きさせたい――これが本音」
「自分で殺せばいいのに」

 クロロは「それもそうだな」とけろりとした顔をする。ハンサムな顔立ち、包帯、無造作に捲られたワイシャツからのぞく手首、すらりとした手足、丁寧に造られた指、唇、耳、剃刀みたいに冷たい色をした目――あなたは綺麗な人間でいいよね。わたしは、完成されたものや綺麗なものは、すみからすみまで壊してみたいと思ってしまう人間だけど、あなたにだけは手をつけるまい。
 なぁ、とため息をつくような、ちょっと甘ったるい声でわたしの胸のなか、頭のなかを掻き乱して、クロロの手が私を捕まえる。

「どうしても戻ってこないのか?」

 わたしの殺し屋現役時代なんていうのは、ポップで可愛いB級ホラー映画だった。小説のなかの悪夢だった。玩具で遊ぶかのように銃器とナイフを振りかざしました。わたしの仕事仲間はゾルディックという名家のお坊ちゃまで、すこぶるうつくしかったです。ナイフとフォークでごはんを食べるようにヒトの腹や顔を裂きました。無感動にヒトを撃ち抜きました。それが生き返ってゾンビになって某ゲームみたいに襲ってこないかなあ、なんてことを考えるぐらいの余裕すらありました。ぜんぶがたのしかった。殺し屋のじぶんが気に入っていた。
 そんな殺し屋のわたしが何よりも憧れていたのは、ゴロツキの中のゴロツキでさえ名前を聞けば震え上がる、幻影旅団の団長、クロロ・ルシルフルだ。欠片ほどの憐れみのない、残酷の名が相応しい手口。めずらしいもの、うつくしいもの、ふしぎなもの、それだけを求め、愛でる、団長の美学。ゴミばかりの街で生まれたくせに、財宝をしかと見定めるその審美眼に皮肉を感じ、ぞくぞくしたものだ。
 私のとっての悪のカリスマだったんです。わたしの上位互換なんです。もはや、憧憬じゃなくて崇拝なんです。え? もしかしてクロロはわたしの神様?

「クロロはわたしの神様なのかな」
「……急にどうした。オレを宗教にするなよ」
「そうだよね。神様なんかじゃないよね。わたしの神様ったらおバカなんだもの。バカだからこんなつまらない退屈な街や世界をつくったんだよ。ほんと、バカ。クロロならもっときちがいじみた、刺激的な世界をつくるでしょ?」
「どうだろうな……ナマエに神様扱いされるのは、それはそれでとても愉しいかもしれない」

 クロロは唇の端だけで笑って、わたしの手の甲にキスをした。まるで、わたし自身が神様になった気分がした。

「低俗な神様だね。神様は人間の手の甲にキスなんてしない」
「神様は人間の手の甲にキスなんてしない、とは聖書には書いてない」
「詭弁」

 わたしはクロロから離れてソファーに埋まった。猫が、とクロロがベランダを見つめながら囁く。億劫そうな様子の黒いあの子がベランダで座り込むと同時に、ぽつぽつと雨が降り出す。開けっ放しのベランダからは、雨の音がよく聞こえた。
 さびしい音だ。
 目を瞑ってその音に聞き入れば胸がいっぱいになってしまいそうな音だと思った。透き通った色の雨がカーテンのように街にフィルターをかけている。もともとコンクリートの鉛色ばかりの色合いの街が、すこしだけ青白くなる。湿った、黴臭いにおいと猫のにおいがベランダからやってくる。きっとこのにおいを嗅ぐたびに、クロロのことを思い出すようになってしまうのだろうな。プルースト効果。
 そっと伺うようにクロロを見る。クロロは頬杖をついて、完璧な角度で足を組んで、目を細めてベランダの向こうの雨と街を見ている。あんなアンニュイな視線で見つめられたいものです。あれだけで天国にも昇れちゃう。わたしを召すってことはやっぱり神様?

「どうしてクロロは盗賊なんてやってるの? 器用だから他のことだってできるはずなのに」
「何かを盗むのはオレにとって呼吸みたいなものなんだよ。今さらやめられるはずもない」
「呼吸はしなかったら死ぬけれど、別に盗みをしなかったらといって、クロロは死なないでしょう」
「いいや? その時点でオレはもう死んでいる。オレはオレであるけれど、それはクモの一部だということで、盗賊団の頭だということだ。盗賊は盗む、オレも盗む、それは存在のはなしだ」
「つまり?」
「例えば、クロロ・ルシルフルを辞書で調べたときに出てくる意味が、オレの存在そのものだよ」
「そんな辞書があるとしたら、確かに『幻影旅団の団長』と出てきそうではあるね」
「そう思っているなら、お前の中のオレも幻影旅団の団長でしかないということさ、ナマエ。オレはそろそろ帰るよ」

 雨は激しさを増す。
 ざああざああ、と容赦なく嬲るように街に落ちる雨。女が泣いているようにヒステリックな雨。
 叩きつけるように降り出した雨は、猫を部屋の中に追い立て、クロロを部屋から追い立ててしまう。ベランダから水たまりがはみ出して、フローリングにそろそろと手を伸ばしていく。クロロは、きっともうここにはまた訪れてこないだろうに、気軽に寄ることのできるこいびとの部屋を出るみたいに、何の未練も感傷もなく、来た時と同じ自然な動作で玄関で靴を履く。
 好きなの。好きなんです。やっぱりあなたはわたしの悪のカリスマで、神様なんだ。
 でも、結局それって子供が不道徳でふしだらな何かに一時心を奪われることと同じで、わたしはもう大人にならなきゃいけないんです。インモラル・アノマリーな存在に憧れる時期はとっくに過ぎている。賞味期限ではなく、消費期限です。だから、わたしは殺し屋を辞めた。30・40・50になっても、おばあちゃんになっても殺し屋のじぶんは許せない。かわいくない。夢見がちなわたしだけの都合で偶像としての殺し屋という夢ある職業を穢したくはなかったのです。
 ねぇ、あなたはいつまで偶像でいられるだろうね? あなたは劇的な死によってその存在を完成させるのでしょうか? あわよくばその死神の代理を務めるのがわたしだったらよかったのに。
 クロロはいつまでわたしの知っているクロロ・ルシルフルでいられるのかな。わたしは気になっている。
 クロロは今朝、クロロの知っている殺し屋“ミョウジナマエ”の存在の消失を、死を、確かめた。そして、今夜、わたしはクロロの中で故人になる、棺桶に入ってどこかに埋められて眠りにつきます。永遠に開かれない辞書のページになる。
 だから、たぶん、これは、雨は、来訪は、クロロが言いたいのは、さようなら、なのでした。

「またな、ナマエ」
「そうだね。またね、クロロ」

 同じ「またね」を駆使して、嘯くクロロと、毒づく私。
 わたしは大人になった。
 ずっと無垢なままでも、純潔のままでもいられない。子供であり続けることなんてできない。夢を見続けられるわけがない。夢はいつか醒める。わたしだけの、わたしではいられない。わたしがなりたいわたしには、なれない。どこで諦めたかって? そんなの知らない。大人になった瞬間だと思う。
 さよならだけが人生だ、っていう言葉がある。わたしはもう、たくさんのものにさよならをしたから大人なのだ。何に別れを告げて大人になるかなんて人それぞれだけど。わたしが別れを告げたのは、殺し屋のわたしと、子供だったわたしが神様だと信じ切っていたクロロ・ルシルフルなのです。
 部屋に戻ったわたしはベランダへと出た。水浸しの床が冷たい。濡れた手すりから身を乗り出す。わたしの髪の毛、服、からだ、心が雨に濡らされていく。傘を渡すのを忘れていた、とはっとした。わたしの眼下を傘もささずに、散歩をするような調子でクロロが過ぎっていく。
 つまるところクロロとわたしの違いは、雨が降ったとき、傘をさすか、ささないか、なのかもしれない。殺し屋だった時のわたしなら、喜んで雨に濡れて街を闊歩しただろうから。確証はないけれど、確信だけなら、あるのだった。
 クロロ、わたしは幸せなの。マゾヒストだから、退屈なわたしにも酔いしれることができる。でもね、その幸せをあなたと一緒に味わうことができないのが、わたしに与えられた唯一の不幸せで、罰なんです。それがわたしを殺すのよ。


Mo(u)rning
T
o say goodbye is to die a little.



20140815【雨が降るのは誰かが何かにさようならを告げたから】
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