あの男の笑い方は、今でもよく覚えている。
 忘れもしないあの夜、五つ星ホテルのスイート・ルームの照明はオフのままで、美しいヨークシンシティの夜景がダイヤモンドを散らしたように窓の向こうで煌々と輝いていた。ベッドの上には、私とその男、私のハンドバッグと男の上着が放り出されている。
 男の指はすべてを熟知しているかのごとく、ドレスの上で滑らかに這い、そして、触れる。布一枚越しの焦れったい温度は、触れられたところから身体の奥底までじわじわと浸食していくようで、遅効性の毒みたいだと思った。
 男からは、いい匂いがした。それは彼のつけている香水のようにあからさまではなく、かといって、男の素肌から立ち上がる動物の匂いでもない。何の匂いかは分からなかったが、今になって思うと、それはその男だけが纏う何かだったのだろう。他人が同じ香水や石鹸を使ったとしても、それは再現し得ないものだ。蝶が花に惹かれるように、男の蜜は私を酷く魅了する。くらくらした。
 私がその時、“ミョウジナマエ”ではなかったら、きっと、私はそのまま、男の指に、蜜に、導かれるまますべてを投げだし、委ねただろう。
 ――潮時だ。
 この贅沢な時間をみすみすと手放すのは本当に惜しいと思ったが、何しろ、私はビジネスでこのベッドの上にいるのである。このままでは、仕事を放棄して遊戯に耽ってしまいそうだ。

「ねぇ」

 男が顔を上げる。切れ長の琥珀色の瞳が真っ直ぐに私を射貫く。初めてターゲットとして出会った時から、この目が苦手だった。刃物のように鋭く、はっと息を呑むように冷たい底無しの色。男のその目はあまりにも艶やかすぎて、バーでカクテルを飲み、エレベーターで忙しなく唇を重ねた時の、彼の滴るような微笑も言葉も色褪せてしまう。もしかしたら全部がイミテーションなのでは? そんな風にも思ってしまう程に。
 あなたのその瞳は、殺し屋でもなく、女たらしでもなく、成金男のものでもないね。あなたは一体誰なんだろう。殺し屋のところに依頼が来るぐらいだから、まともな人間ではないのだろうけれど。
 私は、男の瞳から目を逸らしたくなる衝動に耐えて、ゆっくりと口を開いた。少しだけ笑う。あなたの命を奪う私の方が、あなたよりも優位なの、そんな傲慢を抱いて。

「私、実は殺し屋なんだ。宝石商の娘っていうのは、嘘。ごめんね、ヒソカ」

 “ミョウジナマエ”というのは、私が一般人を偽る時のための偽名。
 陳腐な映画の女優のように「劇的でしょ?」と、付け足そうかと思ったけれど、ヒソカが目を丸くするのを見て私は存分に満足し、そのまま彼の首筋にナイフを突き立てようと腕を振りかぶる。
 ――ぞっとするぐらいの、悪寒。
 それが何の警告なのか私が理解するのも、ヒソカが仮面を投げ捨てたようにその顔に浮かぶ表情を変えるのも、どちらが奪う側なのかせめぎ合いが起こるのも、実にコンマ一秒ほどの刹那の中での出来事だった。
 ヒソカは自分に迫り来る刃を見て、口元を歪めた。どこまでも厭らしく、美しく、そして、どこまでも官能的に笑ってみせたのだ。その姿こそ、その鋭い視線に似合うヒソカの本性なのだと私は気づく。では、私が誑かそうと懸命になっていたあの男は誰だったのだろうか? こんな獰猛な微笑みなんて、私は知らない。世慣れていて品の良い、あの金髪の優男は誰だったのか? こいつは誰? あなた、誰?
 悪寒の正体は、自分の身を対する脅威への本能的な警告だった。私の視界が、あまりにも鋭利な光を放つ一枚のトランプを捕らえた。ヒソカは私の視線を絡めとったまま、そのトランプで精確に私の頸動脈を狙っていたのだ。明らかに、ヒソカよりも私の命が途絶える方が早いのが目に見えている。とっさに身を起こすと、目には追うことができなかった衝撃が私の鳩尾を捕らえ、何が何だか分からないまま、私は壁に叩きつけられる。
 息ができない――今さらながら、マティーニの味が胃から迫り上がってきて口の中に漂う。

「へぇ、君、殺し屋なの? それって何だかそそるな。実は、僕は快楽殺人者なんだけど、君と僕、相性がいいんじゃない?」
「……私、マゾヒストじゃないの、生憎」

 何とか呼吸を取り戻した私は吐き捨てるように言う。ヒソカは目を細めて、それはとても愉しそうに私を見下ろした。仕立てのいいヒソカのスラックスが主張する膨らみは、彼が本物の快楽殺人者だということを示し、私を殺すことに高揚しているのだと知らしめてくる。……最悪。私はヒソカの一挙一動から目を離せずに、どうやって彼を殺そうかなんていう思考はとうに放棄し、とにかくこの場から脱出する方法だけを考えていた。
 手品のように、一枚だったトランプはヒソカの指の間で二枚、三枚、に増え、その作り物のように完璧な形の指の間で弄ばれている。
 ヒソカの間合いに、じわり、と殺気が滲んだ瞬間、私は逃げ出した。

「逃げるなよ! 僕と愉しいことをしよう」

 そんなのごめんだ、と口の中で呟くと、後ろから舌を巻きたくなるぐらいの精度でトランプが飛んできて私の肌を深く切り裂く。それでも、致命傷を避けて私は廊下に飛び出した。何事だ、と驚いた表情のボーイを突き飛ばすと、そのままヒソカのトランプが額のど真ん中に命中して崩れ落ちる。断言しよう、今日、一番の理不尽を味わったのはこの哀れなボーイである。
 私はその時、天の憐れみの声を聞いた。エレベーターが何ともタイミングよく停止した、チン、という軽やかな音だ。無神論者の典型のような私だが、誰かが「天が、しょうもない殺し屋のあなたを助けてくださったのですよ」なんて言ったら、私は今すぐナイフを捨てて聖書を持って教会に入信に行く。
 私がエレベーターに逃げ込もうとしていることに気づいたヒソカは、執拗に私の足首に向けてトランプを放ってきた。さしずめ、せっかく手に入れた新品の玩具を逃がしたくないのだろう。私は必死だった。ここで捕まったら、私は嬲られて殺される。それこそ、残酷の意味を知らない子供がブリキの兵隊の腕を捻って折ってしまうように、私は壊れた玩具になり果てる。
 エレベーターに飛び込んだ私は、一心不乱に『閉』ボタンを連打すると同時に、ヒソカに向かって思い切りナイフを投げた。ヒソカは重心を傾けて、いとも簡単に私の得物を回避すると、ただ、そこに立ってエレベーターの扉が閉まっていくのを見ている。
 追撃するなり、何なりとできたはずなのに、ヒソカは怯えきった私を見逃した。ゆっくりと私たちを扉が隔てていくその境界の向こうで、ヒソカは何を考えているのかよく分からないあの琥珀色の瞳で私を見ていた。私は、扉が閉まりきるまで、やはり目を逸らすことができなかった。
 ゆっくりとヨークシンシティの夜景の中を降下していくエレベーター、そして、疼き出す真新しい傷。絹糸のような光沢のブロンド、整いすぎている顔立ち、毒花のような危うい匂い――そして、あの冷たい色をした、熱っぽい、目。快楽殺人者のプロトタイプ。
 エレベーターの隅に座り込んで、私はただ反芻した。
 あの快楽殺人者は本当に美しい男だった。手順を間違っていたら、私はきっとあの男に惚れ、今頃、殺されていたのに違いない。




 あんな肝の冷えるような思いをしたのにも関わらず、私は未だに殺し屋をやっている。
 あの程度で殺し屋をやめるぐらいならとっくの昔に辞職しているし、皮肉なことに、私はこれが天職なのだ。
 私はちょうど仕事帰りで、殺しの昂ぶりを鎮めてきちんと寝付くためにも一杯ひっかけてから帰ろうと思った私はバーへと向かった。ヒソカと出会ったあのバーだった。手の甲に少しだけ付着していた血痕を指で擦って消すと、私はカウンター席に座り、頬杖をついて左手にある窓の向こうを見ていた。夜景は好きだ。こんな夜中でも、人がざわめき光が絶えない街を見るのは、私を孤独にもしてくれるし、その反対もまた。
 やけに品の良い靴音が聞こえるな、と思っていたら、その靴音は私の背後へと回り込み、眺めていた夜景を金髪が遮った。

「ヒソカ……」
「やぁ。ひさしぶりだね、ナマエ。お父さんの商売はどう?」

 衝動的にスツールから下りようとした私の手を、柔らかくヒソカの手が引き留めてそのまま口をつける。「君、いい匂いがするね。もしかして、どこかで遊んできたの?」、そう言うヒソカはご丁寧に、さっきまで返り血の残っていた箇所を唇でなぞる。
 ヒソカの金髪が一億ジェニーの夜景を彩り、凄艶な二つの琥珀色の瞳は未だに美しいまま。
 またしても、その瞳に射貫かれ、主導権を奪われた私は今回ばかりは逃げ出すことが叶わなかった。

「遊びじゃなくてビジネスだったの。……父の商売は上々みたい」

 あくまで私を宝石商の娘の“ミョウジナマエ”として接するヒソカは、この化かし合いを楽しむように目を細めると「それは良かった」と嘯いてみせる。ヒソカは当たり前のように私の隣の席へとつくと、ジンをストレートで頼んだ。咽が灼けるのを敢えて味わうかのように、ゆっくりとグラスを傾けている。
 上下する喉仏を横目で眺める私は、次第に変な気持ちになってくる。あの喉を切り裂けたらきっとさぞかしいい気分がするのだろう、という想像から始まり、この男はどういう殺し方が似合うだろうという職業的とも個人的趣味ともつかぬ疑問がふっとわく。
 ――顔は傷つけない方がいい、勿体ない。
 ――四肢のどれか……右腕でも切り落としてやろうか。完全なものよりも、不完全なものの方が人の心を惹く。
 ――時間をかけて殺してしまったら顔に疲労が出るから、それはダメ。
 でも、私とヒソカの間には確かな力量差があって、この男のそれは並大抵のものじゃない。何人を屠ってきたかなんて、知らない。快楽殺人者は大概、哲学じみた、あるいは美学じみた殺しのセンスを持っていて、殺しを職業とする私たちとは正確には同種ではない。
 ヒソカが私の身なりをじっと観察してから「仕事帰りにしては荷物がないんだね?」と言う。

「この身一つと、ナイフがあれば事足りるから。知ってるくせに、そういうこと言う」
「機嫌悪そうだねぇ。僕を殺せなかったこと、悔しいの?」
「……」
「そんな君に依頼があるんだけど」

 訝しげにヒソカを仰ぎ見ると、ヒソカはそれはそれはいい笑みでにっこり笑うと上着のポケットから出した写真を私に渡した。私は思いっきり顔をしかめる。……これ、ヒソカじゃない。呆れた声を出す私をけらけらとヒソカは笑い飛ばした。

「期限は今夜。好きな方法で殺していい」
「……報酬は?」
「前払いの方がいいかい?」

 低く、くすぐるような囁きが耳に吹き込まれる。
 ああ、またこの匂いだ。毒花のような、甘くて恍惚とする匂い。するりとうなじへと向かう手を引き留めて、ヒソカが私にそうしたように、私はその手へと唇を押しつける。

「その方がありがたいかな。だって、ヒソカは私が必ず殺すもの。払うもの、払えるうちに払って?」

 ビジネスは遊戯の後で、構わない。


20140622【ネオンの数だけある出会い、ヨークシンシティにて】
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