盗りたてほやほやの可愛らしいチェリー・レッドのオープンカーは、どちらかというとクロロの趣味だ。私はどちらかというと仰々しい雰囲気の黒塗りの車が欲しい。夏の眩い白の日差しをフィルターに、そのチェリー・レッドのオープンカーでオーシャン・ブルーの海を眺めて目を細める女のワンピースはお決まりのオフホワイト、ちょっと洒落た映画の断片みたいだ。何せ、運転席にいる男は二枚目俳優のような優男なのだから。彼をスカウトしてきた監督は賞賛されるべきだろう。彼の役はきっと、本や絵が好きな、売れないピアニストで、これは、友人から運良く譲り受けたこのオープンカーで、海に行きたいと騒ぐ恋人を助手席に渋々と(そして、嬉々として)ドライブしてきたシーンである。
 だけど、悲しいことに運転席にいる男は盗賊団の頭だし、この車はさっき仲睦まじいカップルがファーストフード店に入っていくのを見計らって盗んだものである。
 海が、綺麗だ。
 私たちが生まれ、いつか私たちが還るエターナル・ブルー。波が寄せては引き返していく音が鼓膜から頭の中まで満たしていき、心地よい無心が私を包む。
 ――お前はちっぽけな存在なのだと、言われているような気がする。
 ミョウジナマエ、お前は何だ? どうして生きる? どうして生命のスープから抜け出し、大地へと上がり、その二本足で立つ? 果たしてその答えはあの海の中にあるのだろうか。そこに答えがあるからあの壮大な青は私に語りかけてくるのだろうか。
 ぺらり、と本を捲る音が私を呼び戻した。クロロ=ルシルフルは美しい横顔だけを見せて、ただ黙々と小さな文字を追っている。目の前に広がる夏の景色よりも、組んだ足の膝の上の本に目を注ぐクロロに若干の呆れを覚えながら、「クロロ」と呼びかけると、彼は目を離さずに「何だ」と呟いた。

「ねぇ、どうして海に来たというのに、私が退屈そうにしているというのに、そうやって本ばかり読むの?」
「お前も本を読めばいいだろう」
「私、本を読むの嫌い。何もかも文字にしとけばいいってものじゃないでしょ」
「大体のことは文字に出来る」
「“大体のこと”は、ね。でも、私が好きなのって、その大体のこと以外の些細なことなんだよね」
「例えば、車を出て海に行くこと、とか」
「そう。それにもう少し“些細なこと”を付け足させてもらうなら、私は『クロロを、連れて車を出て海に行くこと』と言いたい」

 それでもクロロが頑固として本と視線を貼りつけたままにしているので、小さなため息をついて諦めかけた時、その頁の最後を読み切った彼が、ぱたん、と本を閉じた。海に行こう、と耳に飛び込んだテノールに、私は笑ってドアを開けた。
 世の中の人間は車のクーラーの恩恵に感謝すべきだ。車外は茹だるように暑かった。
 クロロはほんの少しだけ眉をひそめて太陽を仰ぎ見た。どうしてこんなに暑くするんだ、と言わんばかりに迷惑顔を作ると、私のワンピースと同じオフホワイトのシャツのボタンを一つ開け、袖を捲る。
 じりじりと焦がすような太陽の光が肌の上で躍っている。
 熱気を漂わせる砂浜に足元を蒸らして歩くよりも、風が吹いている崖の方へ足を進めてしまうのは、もう、しょうがないことだ。海に行きたかったのに。
 崖へと向かう傾斜はなだらかで、時たまに咲いている黄色い花が私のサンダルをくすぐった。クロロの前を危なっかしく走る私が、若緑の芝生に隠れた石ころに躓くたびに、彼の心配そうな声が投げかけられる。「危なっかしくて目が離せない。困るな」とクロロが笑う。
 崖に吹く風に近くなる。
 むっとするほどの草木の匂いを孕んだ風が、ふいに私たちを通り過ぎた。クロロの前髪が揺れ、その下の深い色の瞳が誘われるかのように海の方へと向かった。うっそりと細められた双眸と風に揉みくちゃにされた黒髪が、アンニュイな雰囲気を醸し出していて、悩ましくなるほど美しいワンシーンだ。私なんかに美学たるものは理解できないけれど、この景色を切り取って画家に描かせることが出来たら、今まで盗んできたどの絵画よりもずっと魅力的だと思うだろう。
 私のサンダルの下で、可憐な黄色い花が潰れている。ねぇ、クロロ、と私は言う。どういう感情を滲ませたらいいのか分からなくて、結局、色味の感じられない声音になった。クロロは海の方へと向いたまま、何だ、といつもみたいに返事を寄こす。

「私、もしも自分が自分で死ぬ時が来たら、海に行く、海で死ぬ。海で死にたいの」

 クロロが顔を上げる前に、私は背を向けた。そのままクロロを置いて一気に坂を駆け上がると、坂の向こうに彼の姿は消えてしまった。
 クロロはどういう顔をしていただろうか? 私の真意を測るようにその二対の瞳を静かに私に向けていたかもしれないし、ほんの少し目を丸くさせてぱっと顔をあげたのかもしれない。
 私は長らく“蜘蛛”の一員だけど、クロロの二面性が切り替わるその瞬間を見定められたことはまだそうそうない。その瞬間にこそ、きっとクロロの脆くて弱い部分が隠れているのだろう。その瞬間のクロロこそ、クロロ=ルシルフルその人なのだと思う。
 崖の上に辿り着く。海へとせり出すような突きだしたそこにサンダルを乗せると、柔らかい芝生は優しく私の足を押し返した。
 海が私を誘っている。暗く、青が澱み合うその底には何もかもが眠っている。人々の記憶も、歴史も、故郷も――パクも、ウヴォーも。

「ねぇ、私って何だろう」

 私の後ろに立つクロロへと寄り掛かって呟いた。その手に指を伸ばせば、すぐに私が何を欲しているのか察してしまうクロロがそれを絡め取る。火照った二人の肌の境目なんてすぐに分からなくなる。クロロが「お前は蜘蛛のメンバーだよ」と宥めるように私の耳へと囁く。
 違うの、分かっているの、でも違うの。そうじゃない。蜘蛛は存在の理由にするのには曖昧すぎて、でも蜘蛛を私から取り払ってしまえば、もう、そんなの私じゃなくて。存在しない、何か。私は何でもなくなってしまう。
 違う、と私は首を振る、全ての葛藤や鬱屈を振り払うように、クロロの優しい声に耳を塞ぐように。我が儘が通じず拗ねて泣き喚く子供みたいに、私はいやいやとクロロの手から逃れようとするけれど、クロロの手はしっかりと私の手を握りしめていて離してはくれない。
 つまり私には何もないんだよ、と私は短く吐き捨てた。蜘蛛は変わらず、今日もどこかで誰かの宝物を盗む。でも、ウヴォーもパクもいない、緩やかに蜘蛛は変わっていく。カルトがやって来たように、また誰かが死んだら当たり前のように代替えが現れるのだろう。それが蜘蛛なのだと理解している。蜘蛛は死なない、蜘蛛は生き続ける。でも、それに心がついていかないのだ。私の知っていた蜘蛛はもう、どこにも、ない。スクリーン越しに見る景色のように現実味のないそこで、私はどうやって生きていけるだろう? 私は、私ではなくなる。私は何?
 海の青さが憎たらしい。クロロの体温が憎たらしい。何も知らずにのうのうと地平線から上がってくる太陽が憎たらしい。
 ぐいとクロロが私の顎を掴んで、自分へと向かせた。

「お前はミョウジナマエだ。それ以外の事実が必要か? 欲しいか?」

 クロロは笑っていた。ヒステリックに暴れていた私は、息を呑む。
 何かを盗む時、欲する時、クロロはそうやって笑うのだ。その蠱惑的な微笑みはこれまで私たちを惹きつけてきたものだし、貪欲に生きている人間のそれだった。その微笑み方はクロロが持つ表情の中で一番美しいものだった。うっすらと睫毛で瞳を翳らせて、口角をほんの少し持ち上げて。それはクロロ=ルシルフルしか持てない、誰にも真似できない、何かだ。
 本当は、私、クロロがいれば、それだけで――
 私がクロロに見惚れているその刹那を見計らって、彼は私の肩を押す。白いシーツに押し倒すように柔らかく、首を絞めようとするように荒く。

(欲しい、そう言えば、盗ってきてくれるの、海の底から?)

 抱き合って二人で入水自殺のお芝居だなんて、こんな映画、クソだ。
 激しい水飛沫が耳のすぐ傍で上がり、そして次に鼓膜を支配するのは無音。涙を拭いた後のようにひりひりする目に最後に映ったのは、遠退いていく光との狭間で舞う泡と揺れるクロロの黒髪だった。目を閉じて、音のない世界に耳を澄ます。私の手はきつくクロロのワイシャツの前を握っていて、反対の手は磁石のように彼のと引っ付いたままだった。冷たい水が私たちを包む。
 私、ただ、後悔しているだけなんだ。別に死にたいほど思いつめている訳じゃない。
 例えば、どうしてヨークシンでパクノダを救えなかったのだろうか、とか、どうしてウヴォーを単独行動させてしまったのだろうか、とか、どうして私はクロロを守れなかったのだろう、とか。数えても、きりがない。
 もう一度、彼らに会いたい。会って、このやるせない気持ちをぶちまけて、頭を撫でて、ナマエは悪くないって言ってほしい。許されたい。自分で許すことのできない自分を、誰かに許されたい。私は蜘蛛でいたい。
 かけられた“念”によって離ればなれになっていたクロロは戻ってきた。その幸福をパクとウヴォーと噛み締められないことが辛い。そして、私はクロロのことを自分自身よりも、また、パクやウヴォーよりも大切に思っていて、二人を喪った悲しみよりも、クロロにおかえりと言えることの喜びを感じている自分が嫌になる。
 嫌なの、認めたくない、許したくない、私なんか。否定したいのだ、自分を。
 ちょっとずつ変わっていく私の世界は、私を置き去りにしていってしまう。
 私は、いつからか、ずっと海の底にいる。ずっと、ずっと、海の底から、色褪せていく世界と、空回りする自分のことを、見ている。忘れられて、置いて行かれて、ただ眠っている。
 ――私を見つけてよ、クロロ。盗ってよ、欲してよ。
 
(私はずっとここにいるのだから)

 探るようにしてクロロと唇を重ねた。クロロが声にならない声で、ただ私の名前を形作ったのだけが、触れあう感触の中で私に伝わる。
 優しい肌をくすぐる冷たさに包まれる中、胎児のように身を丸めて沈んでいる私を呼び戻してほしい。記憶の果てには、パクもウヴォーも、みんないる。全てが沈んで、ゆっくりと錆びていく。
 ――でも、いいよ、私のことを置いていっても。
 苛んでくる全てを沈めたまま、この寂しい海の中から出て、太陽の下を暑いと文句垂れながら、また二人で生きていこうか。
 今日で、ヨークシン襲撃から四年が経つ。



20140328【もう二度と起こされることのない眠り】

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