白い病棟の白い部屋、白いベッドで迎える土曜日を私はどのくらい繰り返しただろう。病室には私だけだ。染みひとつない清潔なシーツのかかったベッドがベッドメイクされたまま、使われる予定もなく並んでいるだけである。誰もいない。田舎の寂れたこの病室に入院したわけは、ただ単純に私の病気は手の尽くしようがなかったからで、私自身、物も言わない機械に管で繋がれて、患者と医者の溢れる喧騒の中で延命したいなどと思わなかったからである。
 もう一つ、私は、病気だということを悟られたくなかった。長年、苦楽を共にしたゴンやキルア、そして私を支え、時には支え合った仲であるクラピカやレオリオ。どうしても言えなかった。口にしてしまえば、それは残酷な運命として私の現実を染め、仲間との死別をまざまざと想像させてくるだろうと思った。いつか、自分がいなくなる。彼らの一部だった自分が、欠ける、消える。とても耐えきれない。
 ここを見つけたのは、たったの三人だった。そして、彼らは総じて私の仲間にわざわざ私の状況を伝えるような律儀さや正義感など持っていないものだから、ある意味、気に病む必要がない。
 ヒソカ、彼が一番先に私を見つけた。私を見るなり、一言、『残念だ、君が元気なうちに殺してみたかった』と言い(これはヒソカなりの褒め言葉なのかもしれない)、死神の獲物になった私に別れを告げた。腐りかけた林檎には興味がないらしい。
 クロロは近くの屋敷で窃盗を働いたついでに私の元を訪れた。私が最後の最後までバツ印をつけたかった賞金首なのに、私はもう自分にその気力すらないことに気づいた。美しい男だった。彼が残していった本を私は暇だからと何回も読み直している。
 最後にやってきたのはイルミだった。真夜中の暗闇からぬっと躍り出てきたものだから、私の短い余命がさらに縮んだ気がしたものだ。イルミは無機質な声で、『辛いなら俺が殺してあげようか。特別価格で』と言った。一瞬、ぎくっとするとイルミは『冗談だよ、はは』と笑いもせずに言葉を吐いた。それから、それはそれは微妙に声音を変えて『……キルが――』と言いかけて、止めた。あの言葉の続きを、私はまだ知らない。
 ――今日は気分がいい。
 揺れるカーテンの向こうの午後の日差しが私を誘うようで、私はそっとシーツの海から抜け出した。足首に絡みついたシーツがするりと床に落ちる。筋肉の落ちた足を眺め、いつものように力の無い微笑を自分に送った。後、私はどのくらい土曜日を繰り返すことができるだろう?きっと運命はそこまで来ている、静かに、優しい仕草で私を手招いている。そっとカーテンを捲り、窓枠にもたれかかって病院の中庭を見下ろした。陽気な声がするなぁ、と思っていたが、どうやら入院している子供たちが中庭で鬼ごっこをしていたらしい。頬杖をついてふっと笑ってしまう。
 ゴンとキルア、何をしているだろう。
 幸い、私たちは全員ハンターとしてそれぞれが世界中のあちこちに散らばっていたから、私の近況を知る者はいないはずだ。誰も、私が入院していることなど知りもしないに違いない。あいつのことだからのんびり賞金首を狩っているだろうとキルアは言うと思う。後、数年もすれば誰かが「ナマエが失踪した!」と騒ぎ出すかもしれないが(多分、クラピカ辺りな気がする)、その時には私はもういない。
 不思議と、死を恐れていない。
 そろそろ、その手招きに振り向いてやってもいいかな、とさえ思っている。そして、死を以て私は永遠に彼らの仲間になる。彼らの心の隅っこに置いてもらって、ゴンやキルアと世界中を、クラピカと荒んだアンダーワールドを、レオリオと彼の故郷を、旅するのだ。素敵じゃないか。

「……キルア」

 口にして少しだけ後悔した。会いたくなった。
 押さえようと思っても込み上がってくるもどかしさ、愛しさ。病による痛みよりも、点滴や注射の傷よりも、ずっと辛い。だけどその辛さが胸を満たす時、私は今まで自分が幸福であったことを噛み締める。優しい痛み、甘い傷跡。キルアの不器用なりの愛情と引き替えに抱え込んだものが、本当に辛いわけがない。でも、この切なさはナイフのように冷たくて鋭い。会ってしまえばもっと切なくなる、辛くなる、だって近いうちに私は永遠にキルアと別れるのだから。
 「あー、もう」と独りごちて、私はごろごろと子供のようにベッドの上で転がった。ずきり、と脇腹に響いた痛みが私を現実に引き戻す。私は大人しくそこに横たわったまま、白く無口な天井を眺めて痛みが引いていくのを待った。痛みが引くと同時に、目尻にあたたかさがじんわりと滲んできて、それはこめかみから耳まで軌跡をつくり、シーツに落ちる。
 無愛想だったり、計算高かったり、むきになったり。それでも、たまに見せる寂しそうな顔だとか、どこに行けばいいのか分からない迷子のような不安そうな顔を目にするたびに、この人は知りたくないことばかり知っていて、本当に知りたいことも、知っているべきことも知らずに歩んできたんだと思った。初めて、私の目の前に現れたキルアは、私と同じ子供のはずだったのに、自分よりずっと幼くて脆い気がしていた。そして、どうかキルアが飛び込んできた、逃げてきたこの世界が彼にとって優しい場所であってほしいと私は願うのだ。色んなことがあったね、私たちはもう大人だね。
 泣いたりしたって、またキルアにからかわれるだけなのに。

「点滴の時間ですよ」
「あ……すみません、ありがとうございます」
「どうかされましたか?」
「いえ、ちょっと故郷のことを思い出していて」
「そうですか。ふふ、きっと素敵なところなんでしょうねぇ」

 故郷、キルアたちのことを思い出していたのにそんな単語が口を突くとは思ってもみなかった。いや、確かに私の故郷だ。私の世界は、あの日を境に広がり、色づき、意味を孕んだ。まるで、土の中の種が芽を出して初めて青空を仰ぎ見たように。あの人たちが、ゴンが、キルアが、彼らとの出会いが私の世界の原点であって故郷だ。彼らがいる限り、私の世界は死んだりしない。
 カテーテルの中を透明な液体が滴下されている。看護師さんが廊下を遠ざかっていく音を耳の奥で聞いている。蜂が巣に戻るように、鮭が川に戻るように、私も最期ぐらいは彼らの元へ帰りたかったけれど。でも、自分の我が儘を我慢するぐらいには大人になったよ、私。
 キルアはゴンや私たちに救われたと思っている節があるらしいけれど、私に言わせてもらうなら逆だ。

「キルア」

 どうやら私の回遊の行方はいつだって、キルアの元らしい。

Saturday,
I saw a daydream that the world cried silently under my eyelids.


 足音を立てずに歩くのも、音を殺してドアを開けるのも、物心がついた時からの俺の癖。そっと部屋に入ると、ぐちゃぐちゃになったシーツの上でナマエが穏やかに寝息をたてていた。細くなった手首や足、見ないうちに伸びた無造作な髪、何よりも賞金首ハンターとして生計をたてていて警戒心だって人一倍あったはずの彼女が、俺の静かな来訪に気づかなかったという事実が、彼女の容態の悪さと年月の経過を俺に思い知らせた。ナマエ以外には誰もいない病室だ。ガキと、ばあさんじいさんがちょっと、その程度しかいないこじんまりとした病院だった。すれ違った看護婦が俺のことを物珍しそうに見ていたのを覚えている。通りすがりに眺めた中庭には草がぼうぼうと好き勝手に生えていて、多分、ナマエがこんな病院を選んだのは、田舎ののんびりとした風の中に自分の姿を隠すためだったんだろう、とふと思った。

「馬鹿かよ」

 自分のいつもの辛辣な口調はまったく冴えていなかった。ナマエは起きない。
 もう一度、口の中で同じ台詞を繰り返した。
 馬鹿かよ、俺がどんなに心配したか知らねーで暢気な寝顔晒しやがって、治療不可能とかいう変な病気にかかって、その上、お前を最初に見つけ出したのは俺じゃないとか。
 俺たちはそれぞれ違う道を歩み出した、俺とゴンは旅に、ナマエはキャリアのために、クラピカは復讐のために、レオリオは人を救うために。だけど、いつでも点と点は線で繋がっていて、その線は切れないのだという不確かな確信があって、誰もがその点のひとつが欠けるだなんて思ってもいなかった。ナマエと連絡が取れなくなった時も俺たちは笑い合って「ヒソカに追い回されてるんだろ」と、いつか来るだろう連絡を暢気に待っていたけれど、俺の気取った無愛想にオブラートされていたのは、言いしれぬ不安と動揺だった。俺はゴンに隠れてナマエの行方を捜し回ったけれど、その足跡すら見つからなかったのだ。
 ――キル、ナマエに会ったよ。
 最後の手段だと思い、自分の家族のコネを使ってナマエを血眼で捜索していた時、ひさしぶりに会った兄貴がどうでもよさそうなことのように、その言葉をぽろりと溢した。兄貴からは少しだけ病院の消毒液と薬剤の匂いが漂っていた。俺はすぐに悟ったが、兄貴は丁寧に「あの子、もうすぐ死ぬね」と感情の抜けた声で付け足した。
 ナマエがいなくなる、死ぬ、それは辞書を捲っても捲っても出てこない単語のように現実味に欠けていた。

「なぁ、お前、死ぬのかよ」

 返事はない。
 気怠げな日差しがカーテンに弄ばれて、ナマエの投げ出した腕と頬の上でアシンメトリーに輝く。伏せられた瞼や病的に白い肌が死の匂いを美しく着飾っていて、ナマエに訪れるであろう生の終末は自分ではもうどうしようも出来ないことなのだと知らしめされた。
 死、俺が無造作に他人に与えてきたもの。人を殺すことは簡単だった。死は恐れるものではなくて飼い慣らすようなものだとすら思ったことがある。だけど、じゃあ、俺が今、心から恐れているこれは何なのだろうか?死、だ。ゆっくりと大事な人を蝕んでいくもの。とんだ皮肉だ。俺は傲っていた。死は人に優しく平等だ。
 ゴンに人の強さを教えられた。クラピカに人の哀しさを教えられた。レオリオに人の尊さを教えられた。ナマエは、人の愛しさを俺に教えた。正直、俺は人間が都合良く愛情などと謳うものの曖昧さに辟易しているし、時に人を醜くしたり狂わせるものだとして厭っている。だけど、ナマエが俺に与えるもの、俺がナマエに差し出すもの、それはいつだってイーブンで、いつだってそれが永遠に近い意味合いを持つことを願っていた。ナマエは分かっている、俺は言葉にすることが苦手なんだ。ナマエは俺にとって唯一の存在の、一つだ。
 そんな奴が今、死にかけている。冗談じゃない。
 俺はナマエにそっと手を伸ばした。だけど、俺の指先はナマエの温かい皮膚に触れることなく宙で止まる。数え切れないほどの人間を死に追い込んで来た俺が、ナマエに触れるのか?この手で?生が死を拒絶するように、俺は自分で自分を否定した。必死に残り少ない命を灯し続けているナマエに俺の手で触れたら、蝋燭を消すよりも容易く崩れ落ちてしまいそうで。
 分かっている、これは全て俺の妄想だ。生は死を拒絶しない、受け入れる。ナマエはいつだって俺を笑って受け入れる。その優しさがたまにとてもこわくなるんだ。失うことへの恐怖は死への恐怖と似ている、俺は初めてそう思う。そして自分がぞんざいに振り回してきた死という鎌の鋭さに怯え、振るってきた罪なき人々への罪悪感が喉の奥を詰まらせる。

「俺の目の届かないところで死ぬのは難しいぜ」

 ナマエに触れる。生きている人間の温かさ。
 ――アルカに頼めば不可能なことはない、でも、俺はきっとそうしない。だって、これは不可逆の定めであって、出会いがあれば、別れは絶対。いつか人間は死ぬ、それが思っていたよりも早く訪れてしまっただけの話だ。だけど、こんなに若くて綺麗なうちに死ぬなんて、そんなのあんまりだ。俺たち、大人になったばっかだろ。俺はそんなお前の記憶を抱いて老いていくのかよ、そんなの、やっぱりあんまりだぜ。
 俺はただ、俺たちがよぼよぼのばあさんじいさんになった時に、昔の写真を見て、あの時は楽しかったなって笑い合いたいだけなのに。なぁ――

「ぐーすか寝んな、起きろ、馬鹿面!」

 う、とナマエが身じろぎした。俺は笑う。この調子だと数分後にはすっかり目覚めているだろう。
 ナマエ、出し抜いたと思ってんじゃねーよ。病院食よりずっと美味い食べものとテレビゲームを買い込んで、ゴンとクラピカとレオリオとここになだれ込んでやる。お前が寝る暇なくて船を漕ぎ出すぐらい、俺たちの話を聞かせてやるよ。俺とゴンがお前の欲しいもののために世界中を駆け回るし、クラピカがお前の代わりに幻影旅団の首を獲るし、もしかしたら(期待はしねーけど)レオリオがお前の治療法を見つけ出したりするかもしれない。
 ナマエ、元気になったらまた旅に行こうな。ちょっと嫌だけど、俺の家族も紹介してやるよ。そろそろヒソカとも決着つけろよ、あの変態が死んだところで悲しむ奴はそんなにいないだろうし。それで、それで――
 俺は足早に廊下を通り過ぎようとして、足を止めた。さっきの中庭だ。相も変わらず、人の気も知らないで穏やかな風が緑の草を揺らしている。それは優しく俺を絶対的な答えへと促した。ああ、やっぱり、ナマエは死んでしまうだろう。乱暴に頬を拭う。


20140216【いつかまた原点に戻る日まで】

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