天幕に響き渡る拍手喝采、観客の口笛と歓喜の声、舞い落ちるチップという名の紙幣――それらを全身に浴びる主役の名は、ヒソカ。

 所詮はサーカス、まやかしだと分かっているのにヒソカの手慣れた指先が宙からカードを取り出すと、それは魔術としか思えないほどの妖しさに満ちて観客を魅了した。ハートのクイーンが白い鳩へと姿を変えたり、悪戯なヒソカの笑みに見入っているうちに全てのカードがジョーカーに早変わりしていたりする。
 摩訶不思議な舞台に観客は熱狂し、酩酊すら覚える者もいた。幕によって仕切られたそこは最早別世界なのである。訓練された猛獣たちの技や飛び交う空中曲芸は、華やかに会場の空気を飾っていく。奇術師としてその身を装ってきたヒソカにとってサーカスは絶好の隠れ蓑だった。奇術の精巧さはもちろん、観客の心の掴み方なぞヒソカにとってはお安いご用だ。
 誘い、惑わし、そして彼らに札を投げ入れさせる。隠れ蓑として選んだこのサーカスだが、短い期間ながらヒソカはとっくに看板芸人も同然だった。
 そして、観客の熱気は最高潮、ラストステージだ。ヒソカは不敵な笑みを浮かべると、おどけた様子で傷の入った古い板の前に立つ。ヒソカと向かい合うのは義手の少女。観客はどよめいた、ナイフを奇術師に向かって投げようとしているその腕が、球体関節が目を惹くビスクドールのような白い義手であるのを見て。

「結局、最後まで練習来てくれませんでしたね」
「君の腕を信頼してるのさ」
「……変な人。みっちり練習した相方だとしても、本番は怖がるのに」

 観客のざわめきに隠れるようにしてナマエが言う。ヒソカはただ余裕のある顔でまたナマエに応じようとするが、それを遮るようにして唐突に彼女のナイフ投げは始まった。ヒソカの耳の真上に、思い衝撃音をたてて垂直に突き刺さるナイフ。
 ナマエは練習に現れなかったヒソカに対して少なからずの怒りと苛立ちを感じているようだ。生真面目な性格のナマエにとって、サーカスのステージ中におけるアクシデントは何としてでも避けたいものである。それなのに、ヒソカは最後の最後まで練習を放り出したままだったのだ。ナマエはむしろヒソカにナイフを投げてやりたいとすら思ったが、ぐっと堪えて自分のステージを全うする。
 球体関節の義手がナマエの売りなのだろう。その人形のような腕に合わせた無表情な顔とドレスが程良い雰囲気を醸し出していて好ましい、とヒソカは思った。空気を裂く音がして、首の横にナイフがまたひとつ。そして、最後にヒソカが咥えた林檎にナイフが飛び、果汁が溢れた。様々な分野のプロを見てきたヒソカでも、彼女のナイフ裁きの技量には唸らされる。確実に板に突き刺さるために普通のナイフよりも重量があるサーカス用のナイフは、下手したら林檎を貫通して自分の喉に刺さっていてもおかしくないのだ。それを、絶技で林檎に突き刺さる程度に力加減を調節したナマエはやはりこの道のプロである。
 はち切れんばかりの観客席の熱気、そして、鼓膜を裂くような盛大な拍手。ヒソカはナマエの手を取って掲げると、恭しくお辞儀する。ヒソカに手を握られたナマエは思わず顔をしかめてしまった。

「……あれ、こっち義手だよね?」
「見たら分かると思いますけど……」

 怪訝そうな顔でナマエが言う。怪訝そうな顔なのはナマエだけではなかった。ヒソカは確かに感じていた、握ったはずの無機質な義手に人肌ほどの体温を。勘違いか、とヒソカは独りごちるとステージを後にし、宿舎のテントのある闇の中へ消えていく。ナマエはそんなヒソカの後ろ姿を見ながら、そっと自分の義手を撫でた。胡散臭い言い回しと人をからかうような態度を止めればもっと近寄りやすい人間になれるのに、とナマエは思う。




 自分でも信じられないことに、ヒソカはナマエがナイフ投げを練習する練習場へと赴いていた。まだ日が昇って間もない柔らかい淡い日差しの下で、ナイフが危うい光を放ちながら木にくくりつけられた的へと吸い込まれていく。ナマエは驚愕の眼差しでヒソカをしばらく見つめると、いつものように練習へと戻った。道化の化粧もせず、髪を下ろしたヒソカを見てナマエは面食らっていた。変人であろうとも、ヒソカは間違いなく美形の類である。

「化粧取ると眉毛薄くなるから嫌なんだよね」
「……どちらにせよ美人なんだからいいじゃないですか」

 人形のような腕が、人間よりもはるか正確にナイフの軌道をコントロールする。ヒソカは何か違和感を感じて、ナマエの傍に落ちているナイフを拾うと彼女と同じ様に的へと放った。ほんの僅かに中心からはずれたが、ほぼど真ん中を射貫いたナイフを見てナマエがまた驚きの表情をヒソカに向ける。類い稀なる身体能力を持つヒソカにとってそれぐらいは当たり前に出来ておかしいことではない。そのことに気づいたナマエはほんの少しの嫉視を彼に向けると、また練習へと没頭していく。ヒソカに負けないよう、より集中して。
 ヒソカはナマエの腕には勝てなかったことを残念に思いながら、違和感の正体に気づいてはっとした。おかしい。おかしいのだ。そこらの一般人ほどの身体能力しか持ち得ていないナマエが、神経や筋肉など繋がっていない義手でここまで正確にナイフを投げられるものなのだろうか?彼女の腕が、サーカスに飼われているライオンに食い千切られたのは数年前のことだと聞いている。数年でここまで上達するのは可能なのか?そもそもこのレベルまで達することのできる人間がいること自体が珍しいのに。

「ねぇ、なんでこんなにナイフ投げうまいの?」
「そんなこと言われましても……これが私の生活を支えてるようなものですし」
「ふぅん」
「まぁ、ナイフ投げは私そのものって言っても過言じゃないかもしれません」

 私にはこれしかありませんから、とどこか自虐的に呟いたナマエをヒソカはしゃがみながら眺めた。筋肉の少ない、少女らしい体つきが腕に送る力は弱々しいのに、その義手の腕はありえない力強さでナイフを放つ。ナイフは一直線に飛び、噛みつかんばかりの鋭い光が切っ先に浮かぶ、そして、命中。トランプを投げるのなら得意なのになぁ、とヒソカはナイフをくるりと器用に一回転させた。ヒソカは思う、ナイフ投げをしているのはナマエではなくて、むしろあの義手であり、ならば、ナマエがナマエたり得ているのはあの義手が存在するからではないかと。
 もしかすると、"ナマエ"というのはあの生身の少女の身体ではなくて、艶めかしい白色の人形の腕なのではないか?あの義手が本体で身体が付属品なのだという考えに辿り着いた時、ヒソカはおぞましいその考えにぞっとすると同時にひどく高揚した。

「ナマエ」
「はい?何でしょうか」

 君に言ったんじゃない、とヒソカは口にせずにそっとほくそ笑んだ。“ナマエ”は君の腕だ。




 ヒソカはそっとナマエの寝床であるテントの中へと忍び入る。粗末な簡易ベッドの上でシーツに紛れているのは、穏やかな寝息をたてる少女だ。そっとトランプの側面をナマエの首筋に押し当てて、ヒソカは自身に迫り来る激情を感じていた。このトランプを動かすだけでナマエは首を切られ、死ぬだろう。良くない癖だとは自覚していても、ヒソカにこの殺人癖を直すことはできなかった。それ以前に直そうという気がないのである。ヒソカは笑った。

「ああ……これだから君は僕を楽しませてくれる!」

 背後からナイフがヒソカの首筋に当てられていた。目の前の少女は未だに眠りの中だ。では、誰が自分にナイフを向けているのか?ヒソカは分かっていた、だから、笑いを止めることができない。ヒソカは構わず、少女を覆う白いシーツをなぎ払った。ナマエには腕がない、いや、腕が外されていた。人形のように無機質な美しさに溢れたあの白い腕は今、どこにあるのか。ヒソカは、くくく、と抑えることのできない笑い声を唇の隙間から漏らす。
 簡単なことだ、その腕は、“ナマエ”は今まさに自分にナイフを向けているのだから。


130623【薔薇は花が主役とは限らない、茨こそが本質なのかもしれない】
企画・人狼に提出

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