もし人生というものが劇に例えられるのなら、オレの劇に出てくる登場人物は少ない。親父、母さん、ミルキ、キルア、アルカ、カルト、使用人、一握りの知り合い……これが限界だ。他はすべて名前も顔も与えられていないエキストラ。スポットライトにあたることすら叶わず、すぐに舞台から去っていく。
 オレは舞台上で踊る自分と人々を見ている。シナリオに忠実に沿って劇は進んでいく。誰かにスポットライトがあたる。今まで一度も登場したことない人物だ。名前もなければ、特に目立ったセリフもないはずのエキストラ。さては、照明係が間違ったな。オレはそう思ったけど、劇はシナリオを外れたまま進行を止めない――主人公は、エキストラに一目惚れをした。






ドラマチック エラー





 ナマエと呼びかけると、綿あめを持ったままよそを見ていた彼女が小走りで近づいてくる。あれに乗りたいな、と眉尻を下げて指差す方を見ると何やら高い塔を模したアトラクション。昇りきった太陽の眩しさに目を細めながら、そのアトラクションの趣旨を見定めるためにじっと見やる。バカみたいに甲高い悲鳴をあげて塔のてっぺんから椅子に固定された人間たちが降下していく。なんなの、あれ。オレは予習した遊園地のアトラクションについての情報を頭の中で次々と引きずり出す。まずい、ナマエが黙ったままのオレを不思議そうな顔で見ている。
 ああ、そうだ。あれ、フリーフォールってやつ。

「いいよ」
「ずっと黙ってるから絶叫系が苦手なのかなって思った。やった、行こう行こう!」
「好きなの、そういうの」
「そうでもないよ。普通にこわいし……。イルミは?」
「オレもこわいよ、フツウに」

 フツウってやつは少しだけ難しい。正直に言うとあんなものに恐怖など欠片すら感じないし、あれに乗りたいならオレがナマエを放り投げてやった方が早いし、そもそも遊園地というものに来たのが初めてで何がなんなのかさっぱりだ。ナマエが楽しそうにしているなら、オレはそれだけで構わない。ナマエはぎこちなさを隠したさりげなさでオレの手に自分の手をもぐりこませる。手のひらにおさまる小鳥を思い起こすような温かさとやわからさ。オレは出来うる限り力を殺してその手を握った。ナマエはオレがそうするたびに少しだけ笑う。壊れ物を扱うような手つきを面白がるのだ。でも、そうしなければ、オレは簡単にナマエの手を握りつぶしてしまう。フツウは、やはり少しだけ難しい。
 陽気なメロディとともに座席が上昇していく。あいにく、オレの心拍数は上昇の傾向を見せないけど。隣の座席のナマエはすでにぎゅっとセーフティーバーにしがみついて嫌だ嫌だと喚いている。こわいね、とオレの視線に気づいて言う。伸びてきた手がオレの手をぎゅうと握る。今、ちょっと心拍数が上がったような気がする。もしかすると、オレはこれをこわいと思っているのかもしれない。なら、つい力を込めてナマエの手を粉砕してしまいかねない。手を握り返すこともせずにあれこれと考えていると、やっぱりこわいんでしょイルミ、とナマエが囃し立てた。気づけば自分の心拍数は平常通りで、気のせいか、と安心したオレは、こわくないよ、と返す。あ、今のはこわいと言うべきだったのかな。
 大分、上まで来た。オレにとっては未知の世界である遊園地が眼下に広がった。家族や恋人や友人と連れだった人々がみな笑顔で歩いている。自分も今はその中の一人なのだと考えると不思議な気持ちが胸の中で広がった。ここには躊躇いなく人を殺すやつはいないだろう。金を払って人の死を願うやつはいないだろう。殺し屋も、殺し屋を必要とするやつもいないだろう。殺し屋という職業に従事するオレを知るやつは、いないだろう。ナマエの隣という場所は、それだけではない意味をオレにくれる。それは踏み入れることが叶わなかったどこかへの切符であり、しまい込んで鎖をかけたはずの感情を取り出すための鍵だ。ナマエの隣にいることで、オレはなんだか許された気分になる。手に入れることが許されない何かを執拗に求めていたわけではないが、ぽんっと与えられるとそれはそれで悪くない気分だ。そう、悪くない。
 いよいよ塔のてっぺんまで上り詰めようというところで、乗客たちが悲鳴を上げ始める。ナマエに至っては息を止め瞼をぎゅっと閉じて絶対に下を見ないという険しい表情だ。オレはちょっと笑って(オレの表情筋がはたして動いたかどうかは疑問だが)、その手を握り返した。次はどこに行こうかと眼下をぐるっと見渡して、ドリンクスタンドに目をつけた。
 手渡される飲み物を眺めていると、数ヶ月前のことが懐かしく思い出された。ナマエとの出会いは、彼女が街でぶつかったオレにコーヒーをこぼしたのがきっかけ。法律事務所に勤めるオレは仕事帰りに待ち合わせてその時に借りたハンカチを洗って返した。そこからがはじまり。給料をためて買ったオンボロの中古車でドライブをしたり、職場で流行っているのだというダーツバーに連れて行ってもらって酒を飲んだりもした。……なんて――ぜんぶ、演技だけど。ナマエのことは数ヶ月前というより半年前から知っていたし、コーヒーを持っている彼女にぶつかったのは故意。法律事務所に勤めているというのはもちろん嘘だし、何ならオレの本職に対するとんでもない皮肉だ。一回の仕事の報酬額であの中古車を二十台は軽く買えるし、ダーツバーではむしろ手加減するのにめちゃくちゃ骨が折れた。あと、水のようにアルコールを摂取したのに平気な顔をしたのはまずかった。
 どんな暗殺よりもフツウのふりをする方がややこしい、と最近はよく思う。憎しみのために金を払う連中を見ていると、金という物差しで計れずとも愛情を示すための対価の方が大きいんじゃないかという気がする。オレはそんな対価を支払ったとしてもフツウの人間に今更なることはできない。痛いほどよく分かっている、ナマエはフツウの人間しか好きにならないということを。間違っても、殺し屋なんか。
 それがフツウならば、ここで悲鳴をあげるべきなのだろう。ついにてっぺんに届いた瞬間、座席がふわりと浮く。ナマエや乗客たちが一斉に叫ぶ。誰かが手放してしまった風船が漂う遊園地の空に楽しいのか嬉しいのかよく分からない声が響き渡る。オレも叫ぶべきか、と迷っていたが、その機会は失われた。下に、同業者を見つけたから。
 急速に流れ、近づいてくる景色の中、その数を数える。……下手そうだが、数が多いな。狙いは恨みを買いすぎているオレだろうが、対象はオレだけではなくナマエも含んでいるだろう。いつかは、と予期していたことではあった。
 「楽しかったね」とナマエがドリンクを受け取りながら笑う。その髪の毛はフリーフォールのせいでもみくちゃだ。その髪を整えてやって「こわかった、じゃなくて?」と聞く。「こわいけど楽しい!」そっか、とつぶやく。ナマエはかわいい。最初はナマエをどうしたらいいのか分からなくていっそのこと針で操り人形にして自分のものにしてしまおうかと考えていたけれど、そうしなくてよかったと思う。ポケットの中の針を無意識に触る。

「ねぇ、次、あれ行かない?」
「イルミが行きたがるなんて珍しい。ミラーハウスかぁ」
「ダメ?」
「いいよ! もちろん。空いてるし誰かに並ばれる前に入っちゃお」

 受付の女を針で操作し、オレたちを追いかけてきた人間以外を入場させないように命令した。牽制をかけているうちは距離を保っていた殺し屋たちが慌ててオレたちを追いかけてミラーハウスへと入ってくる。
 ミラーハウスの中はひんやりとしていて、静かに光が反射する。宙で埃が謎めいた煌めきを見せる。人一人が通れるような狭い迷路をオレたちは進んだ。オレはナマエの手を離して「どっちが先に出られるか競争しよう」と彼女に持ちかける。返事一つで勝負を受け取ったナマエは駆け出していく。
 子どもみたいに悪戯っぽい顔をしたナマエがいろいろなところから姿を見せる。まるで、人を惑わすみたいにオレたちの周りを駆け巡る。鏡から消えたり、唐突に現れて誰かに笑いかける。ナマエの姿に翻弄されているのか、下手な殺し屋たちは標的の場所が掴めずに無様な足音を響かせた。スピーカーで流れる冷たい温度のワルツのリズムを上手く踏めていない。リズムを踏めない、踊れない役者は舞台から降りてもらわなきゃね。針を飛ばす、調子外れの足踏みが一つ消える、ナマエが無邪気に笑う。オレは崩れ落ちたそれの襟首を掴んで引きずり、鏡の迷宮の最奧へと隠す。

「イルミ、どこー? ぜんぜん出口が見つからないよ〜!」

 イルミ、と呼びながらオレの周りを虚像のナマエがくるくると踊る。
 ここではすべてがまやかし。贋物も真実も入りみだれる世界。出口なんて、なければいい。


20161024【彼女のマリオネット】
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