トリップというジャンルの夢小説の利点と言えば、@美少女に生まれ変わる A何かめちゃくちゃ強くなってる Bご都合主義 というところであり、せいぜいトリップする時は空から落ちる、だとか、地面にあいていた穴に落ちるだとか、妙なアイテムを入手するだとかそういう展開がある。
 だからこそ言いたいが、こんなトリップはありえない。
 規格外だ、異質だ、不純物だ、サイトの紹介文見た瞬間に嫌悪感だ。私という物語を書いている人間がもし存在したら、頭が相当イっているのに違いない。面と向かって中指を立ててやる。
 私はトリップの、ご都合主義なところが大好きだ。センスがあるだとか、そんな理由で簡単に戦闘能力を身につけてしまい、キャラクターのピンチを救い、なぜか強敵と戦っても命を落とすことがない(しまいには、なかなかやるね、とか言われたり)。それで、もし、この私の物語が私の都合よく進むとするならば、この微妙に無意識と意識の狭間を漂っている私が完全に覚醒した時、恐らく、元の現実世界に戻っているはずである。あんなトリップ嫌だ。戻りたい。戻して。戻せ。戻して下さい。
 あんなこわい世界、望んでも行きたくない。目が合っただけで、あの目の黒色に殺された気がした。フィクションの世界の人間と、脆くて儚いリアルの世界に生きる私が、対峙していいわけがない。
 瞼を持ち上げる前に首に鈍痛を感じたことから嫌な予感はしていたが、目を覚ますとやはりあの黒色の眼が私をのぞき込んでいた。私は、戻れなかった。

「はは、首がもげなかただけ感謝しろ」

 三日月のように目を細めたフェイタン≠ェクロロの後ろから私を見下ろした。首はまるで一年分の肩こりを集めたように、がちがちに張っていて、ぴくりとも動かない。血の気が下がって、ひどい顔色をしているのに違いない。息をするたびに冷や汗が吹き出して、背中をびっしょりと濡らしていく。霧のかかったような頭で、フェイタンの声は新アニメで旧アニメでもない、聞き慣れない感じだな、と思う。

「そいつ、俺たちのこと知ってるみたいだったぜ」

 お願い、ノブナガ、ノブナガさん、余計なことを言わないで。お願い。
 祈るような気持ちで沈黙を貫く。「どうなんだ」とクロロ=ルシルフル。自分自身がトリップした上に、あまりにも現実味のない(というか十割十分フィクションだけど)出来事が起こりすぎてキャパオーバーした私の頭こそがトリップ状態なのか、クロロの声ヤバすぎるどっひぇいと一瞬思ってしまう。近い。マンガのキャラは人形のように整っている顔立ちだが、実際に肉のついた一人の人間として見ると、人形のような無機質さはない。しかし、元の世界にいたら一生に一回も巡り会えないんじゃないかというほど端正な顔立ちであることに間違いはなく、その顔に迫られるというのは凄みがある。
 「拷問するか団長」と降ってくる容赦のない台詞。拷問、という言葉に私の指先が震える。身体だけがこのフィクションという現実世界に馴染み、頭の中がまだ適応していない私は、目の前のことが全てマンガを読んでいるような、それこそ夢小説を読んでいるかのような、そんなぼやけたフィルター越しにしか把握できない。

「……声が出ないのか」

 クロロの質問の意図が分からず、私は黙っている。
 クロロは私の喉に触れた。その冷たい肌に触れられて、私は思わずびくっと跳ねた。出そうと思えば、声は出るだろう。だけど、クロロは私がフェイタンに首を打たれた時に、声も出せなくなったのだと思ったらしい。
 私は歓喜した。
 そう! そうだよ、これがご都合主義! 夢主ならではの超絶ラッキー、到来!
 彼らは途端に興味を失って私を放っておいて、酒を飲み始めた。逃げてもすぐに分かるからだろう。もちろん、念能力なんて私に使えるわけもない。そのことも分かっているはずだ。私は手汗を部屋着の裾で拭って、小さく身体を丸めて、腕と前髪の隙間からクロロ=ルシルフルの背中を見ていた。あれは人間なんだ。マンガの登場人物ではなく、この世界ではたった一つの身体であり、人格なのか。缶のプルタブを引く指が、嘘みたいに綺麗だった。
 彼らは内輪話ばかりして、私のことはまったく気にならないようである。そのことに少しだけ安堵して目を瞑る。こっちの世界を作った神様はさぞかし楽しかったのに違いない。あんな綺麗な人間がいるんだ。ゾル家なんて身の毛がよだつぐらい綺麗なんだろうな。見れば、ノブナガだって結構小綺麗だし、フェイタンはザ・アジアン・ビューティーって感じだし。
 ふっと目を開けば、クロロの顔が若干こっちに向いていた。前髪を下ろしているせいで、その目が私を捉えているかどうかまでは伺えなかったが、きっとその前髪の向こうであの黒い瞳を私に向けているのだろう。その口元がふっと上がったので、私は慌てて目を閉じて俯いた。
 彼らの声がだんだんと遠くに聞こえていく――


 夢を見ていた。
 真っ白な部屋にいる。床から壁から、ドアの金具や椅子やパソコンや、マウスのコードまですべてが真っ白だ。鏡……、ある程度の期待をもって鏡をのぞいた。トリップしたんだから、二次元のカワイイが体現されているべきだ。……全然、変わってないし。やっぱりこの物語は最低だ。はめ殺しの窓の外には、神々しいまでに青い空と白い雲が広がっている……。天国? 死んだの? え、やっぱり打ち所が悪くて彼らが酒盛りしている最中、人知れずコロッと死んだ? 死因がフェイタンによる打撃とか、ファンとしては最高、なのかな……。
 パソコン……、まただ。パソコンがある。画面をのぞくと相変わらず愛想の欠片もない真っ白な画面に黒い文字。


セーブしました:Aルート 分岐1
・報酬なし
・初期装備アンロックしました


 これはゲーム、なんだろうか?
 私の物語であるはずなのに、私はこの物語が何のための物語であるか知らない。どういう筋書きかも知らない。一体全体、何が起こっているの? 画面の一番右下には極小の文字で「ドリームトリッパー ver1.01」と書いてある。その横に「設定 ゲーム説明 装備 マップ ログアウト」と並んでいる。ゲーム説明という文字に惹かれたが、私は躊躇いなくログアウトをクリックした。このろくでもない悪夢から早く解放して。


 ――おかえり
 ――ただいま

 ――ーあなた、誰


「うわあああああっ、あああ……」
「ちょっとよしてよ、驚いたじゃない。早くご飯食べちゃって」

 またクロロの冷たい指が私に触れたと思い、跳ね起きると、そこには我が母がいた。母は私がまだ夢の中にいると思ったのか、また頬をぴしゃぴしゃ叩くと部屋を出て行った。確かに夢だった。あれは夢だったのだ。首は痛くない。昨日からジャスト六時間が経っている、世界の時間は規則正しく進んでいる。私は部屋のパソコンを一瞥すると、コンセントを抜いた。
 母の朝ご飯を食べ、ニュース番組を眺め、ああなんて良き平和な世界なんだろう、と窓から差し入る朝日に目を細めていると、とっくに家を出る時間を過ぎていたので激チャリして学校へと向かった。ああなんて良き平和な学校……と、じんと浸っていると親友に気持ち悪いと罵られる。ああ、平和。
 一時間目は化学だった。即、睡眠学習に入ろうとした私は昨夜のことを思い出して踏みとどまる。もしも、またあの悪夢じみたトリップという幻覚を味わったら? リアルすぎる夢を見たら? 私はしぶしぶ黒板を眺める。
 ……昨日の、あの冷たい肌は幻だったんだろうか。クロロ=ルシルフルは、やはりフィクションにしか存在しないのだろうか。「もしも」や「例えば」の世界は不可能なものとしてしか存在できないのだろうか。
 「ある」ことは証明できても、「ない」ことは証明できない。箱を開けるまでは、中の猫が死んでいるか生きているかは分からない。シュレディンガーさん、この世は矛盾だらけだね。

「……ねぇっ、あたってるって」
「うっそ、ああ、えーと、すみません、もう一度お願いします」
「……ページ五十二の、問三」
「うーんと、トリクロロベンゼン」

 クロロかあ……。
 スマートフォンに通知が来たことに気づき、机の下でメールを開く。でたらめな差出人のアドレス。件名なし。本文は「夢じゃない」。……断言できる、私はもはやノン・フィクションではなくフィクションの側にいる人間なんだと。