Q.例えば、人間が卵から生まれるぐらいありえないことが起きるという事象をX≠ニしよう。Xが起きないということを証明せよ。ちなみに数学ではなく概念の話をしてもよいとする。

A.それは以下の物語で証明される。


 うん、例えばの話なんだけど、人間が卵から生まれるぐらいありえないことが起きるという事象をX≠ニしよう。私のこの十数年の人生の中でそんな突飛なことが起こったことは一度もない。地球外生命体に出くわしたこともなければ、画面から素敵な男の子が飛び出してきたことも一度もない。つまり、私の人生そのものがXの否定を証明しているし、私の人生の時間軸の全ての点においてXの否定は成り立っているわけだ。
 だけど、一秒先はどうだろう? 私の未来に、おいて。「ある」ことは証明できるが、「ない」ということは証明できないのが未来だろう。どんな馬鹿げた天文学的確率だろうが、確率として存在する、あるいは「ない」ことが証明できないうちは、Xはそこに成り立っているのだ、証明される余地があるのだ。
 ――だからといって、こんなことがある?

「いやいや……ちょっと、待ってよ」

 何ここ、私の呟きは冷たい静寂に溶ける。
 五感は冴えている。部屋着越しに感じる、コンクリートの冷たさはリアルだ。私の頭を駆け巡った単語は主に――誘拐、拉致、強盗、夢、幻覚。私は、いつも通り、自室のベッドに寝転がってスマートフォンを弄って、それから……、それから……? 寝た。当たり前に、寝た。そこに何らかの非日常が交わった覚えはない。誘拐や拉致にしたって、おかしいでしょ、こんなの。私は立ち上がった。私を拘束するものは何もない。怪しい物音がすれば就寝中でも起きただろうし、まず家族が気づくだろうし……誘拐や拉致なら身動きできないようにするんじゃないの……?
 そっと踏み出すと、砂のような細かい粒子が足の裏に纏わり付いてチクチクした。ありえない、これは夢なんかじゃない。自分の首や頬に触れる。これは自分の肌の感触だと痛い程に知っている。

「なんなの……、なんなの、これ……」

 切羽詰まったか細い呟きが、私の恐怖を助長させる。じわじわと押し寄せる得体の知れない恐怖と比例して心臓の鼓動は強まっていく。痛い程に跳ねる心臓が喉から出てきそうだった。私はそっと辺りを見渡す。コンクリート打ちの建物だ。窓……窓はある、ただガラスはない。廃墟、だろうか。窓の外の遠くには木の輪郭がぽつぽつと闇に浮かび上がっているが、私に窓辺に近づく度胸はなかった。何か、恐ろしいものに出くわしてしまいそうで。夜明けが近いのか、闇の濃度は薄かった。出口……、扉はないけれど隣の部屋に通じているらしい穴がある。私は音を立てないそうに震える足を動かして、近づいた。人の気配はなく、隣の部屋からはうっすらと光が漏れていた。
 パソコンだ。生活感のまるでない部屋には不釣り合いな、パソコンラックに据えられたパソコンの光……。床には空き缶やコンビニの空き容器のようなものが散らばっている。パソコンの存在から、自分のスマートフォンのことを思い出して部屋着のポケットを叩くが、そこには何もなかった。気を落とすも、パソコンがあるなら助けを呼べるかもしれないと思って光に縋りついた。青白い光を放つパソコンの液晶に目を細める。
 その真っ白な画面に、黒い文字が浮かんでいた。


目覚めますか
Loading 89% ...wait for 10sec


 何これ。まるで問いかけるようにそこに並んだ言葉に、ただならぬ不安を感じる。画面のあちこちをクリックしても、その文字が消えることはなく、また、違う画面が出てくることもない。ねぇ、何なの、何なのもう、苛立ちのこもった恨み言を泣き出しそうな声で何回も洩らす。八十九パーセント、もしかして、このローディングが終わるまではパソコンは動かないのだろうか。私は十秒間を永遠の時を過ごすような気持ちで待った。転がっている空き缶の端から垂れた液体を見て、私は気づく――ああ、嫌だ、どうしてこんな時にだけこう頭が冴えるんだろうか。空き缶の中身がまだ乾いていないということは、少し前までここに誰かがいて、これを飲んでいたということだ。
 神様に泣きつくような気持ちでパソコンの画面を凝視すると、新たな文字が浮かんでいる。


目覚めますか
100% Loaded Welcome
 はい いいえ


「いい加減にしてよ……! 意味が分からない!」

 意味の分からない問いかけに「はい」と答えるのはあまりにも愚かな気がして、私は「いいえ」をクリックした。


目覚めますか
 はい はい いいえ


 選択肢「はい」の数が増えている。私は何度も「いいえ」を連打したが、その度に選択肢「はい」の数は増えていった。無機質な文字の羅列が私の正気を壊していく。画面が無数の「はい」という文字で埋まった時、私はそその狂気的な画面を見つめながら、そうしなければいけないということを理解して、震える手でマウスを動かし、「はい」をクリックした。白い画面がブリンクして、同じ書体の黒い文字で画面の真ん中に新たな文章が浮かぶ。

ドリームトリッパー Lv.1


 おかえり、とパソコンから声がする。スピーカーはどこにもない。それは私の声だった。私の声が、私の声帯からではなくパソコンから発せられているのだ。まるで優しく、両手で迎えるように、親しげに愛おしげに耳に響いた声に思わず私の声帯から声が出る。「ただいま……?」ああ、一体、世界はどうなっているの? 何だ、ドリームトリッパーって。呆然とする私の頭にふいに寝る前の記憶が過ぎった――トリップ、私は携帯小説を読んでいた。夢小説という類の。その中のトリップというジャンルを。記憶が反映されているということは、これは夢なの? 耳鳴りがしてきそうな程に混乱している頭の中を、一瞬でクリアにしたのは、外から響いてきた人の声だった。二、三人ほどの男の声が徐々に近づいている。

「先に二缶も開けちまったぜ、つまみもあらかた食っちまったし」
「はは、ノブナガ、寂しく一人酒か」
「お前らが遅いのが悪いんだろうが」
「ノブナガの言うとおりだ。だけど、着くの早すぎじゃないのか?」
「暇人ね、ノブナガ」
「っるせー……、あ? 誰か来てらぁ」
「……団員じゃないな?」

 その声は部屋の手前でぴたりと止んだ。私はへたり込んでしまって、惨めな体勢のままずるずると後進する。にゅっと、誰かの顔がのぞき出た。強く吸い込んだ息のせいで、ひ、という悲鳴がこぼれ落ちる。ちょんまげ……。このご時世にちょんまげなんて、相当頭がイかれてる。だが、そのちょんまげの男は、呆けたような表情を見せた後にニヤニヤと笑い、「ただの一般人だ。ぜつは要らねーぜ」と快活な声で言う。怒鳴りもしない、拳を振り上げてきたりしない。

(助けてくれるだろうか……)

「何だ、嬢ちゃん、肝試しでもしてんのか?」

 違う、私はその刹那、はっと気づいた。
 この男はちょんまげの男じゃない、違う、そうじゃない、この男はそっくりだ。
 ノブナガ≠ノ……、瓜二つとかそういうレベルじゃない、あのマンガのキャラだ。嘘でしょう。やっぱり夢なの……!? ぜつ……違う、絶≠ニ男は言ったんだ。
 驚いた猫のようにぱっと見開いた目を見て、男は訝しげに顔をしかめた。私を疑っているのが分かった。「おい、ノブナガ、そいつ、シャルのパソコン弄ったはずだ。スリープだったのに起ち上がってる」、この声は、この含み笑いを堪えた冷たく静かな声は、きっとクロロ≠セ。
 思わず、見てしまった。私は、クロロ≠ェ好きだったから。あのマンガを読み始めてすぐに好きになったキャラクターだったから、私は、つい。つい、見てしまったのだ。
 ――目が合った。
 私は人に対してこんな恐怖を感じたことがない。こんな感情を抱きうると露とも思わなかった。その黒い眼を見据えられた瞬間、私は、すぐにここから逃げなければと思った。さっきまで部品が外れたロボットのアームみたいにガタガタと震えていた足は、驚く程の速さで平生を取り戻し、脳からつま先までの連絡網が瞬時に繋がった。コンマ一秒の世界で私の足が地面を掴み、蹴るのを感じる。視界の隅に移ったパソコンに、あのヘンテコな文章は浮かんでいなかった。ただの、デスクトップだけが映っていた。私は何を見たんだ?

 黒いものが飛翔して私の視界を過ぎったのだけを、感じた。
 首に、生まれて以来、感じたことのない鋭い衝撃を受け、私は自分の意識がシャットダウンするのを感じた。