オレはときどき、思い出す。
 夏になると、よくあの不機嫌そうな横顔を思い出す。夏の真ん中、アスファルトの上。恨めしいぐらい青い空と、作り物のような白い雲を見上げると、あのマンションのベランダから眺めた空に回帰する。すぐに大人ぶりたがるキミから取り上げた煙草を暇潰しに吸いながら(煙草なんてホントは吸わないんだけどね)、キミが帰ってくるのベランダから眺めていたの、気づいてなかっただろ。なぁ、キミの夏は少しは鮮明になった?
 ――もう、いつの夏かも思い出せないぐらい、前のはなしだ。
 めちゃくちゃつまらない街にオレはいた。昨日も明日もまったく同じ速さで時間が過ぎていくような街。テレビを賑わす殺人鬼もいなければ、思わず振り返るような美少女もいない。コピーアンドペーストしたんじゃないかってほど、どこにでもありそうな、ありきたりな街。デパートも映画館も、プールだって、ある。食事も服も娯楽も何でも手に入る。でも、オレは何もない街だと思った。そんな街にわざわざやってきた理由……、生憎、理由なぞこれっぽっちもなかった。ただ情報収集のために部屋が必要で、たまたま寄った街がここだったというだけで。次の仕事の集合場所と時間が決まり次第、こんな街とはおさらばだ。
 数え切れないぐらいの街を後にしてきた。部屋には何も残さず、誰の記憶にももうオレの姿は残っていないだろう。それでいい。オレは捨てるだけのものは欲しくないし、捨てたものを思い出して拾いに戻るのも御免だから。
 しかし。
 女子高生たちの騒がしい声が遠ざかるのが、開け放したベランダから耳に入る。昼間よりも彩度は落ちたといえ、夏の夕方はまだノスタルジックに青い。チャイムが鳴る。オレは無視する。オレがいることを見抜いているかのように、連打されたチャイムがやかましい音をたててオレを呼ぶ。「あー、わかった! わかったから!」とオレは降参して、ドアを開けた。隣に住む女子高生が、泣き腫らした顔でオレを見上げていた。少しはしおらしくしていればまだ可愛い泣き顔かもしれないのに、この世の全てを憎むといわんばかりに虚空を睨んでいるので可愛いなどという言葉とは程遠い。

「で、今日はどうしたの」
「……バイト、クビにされた。もうやだアイツ、殺したい」
「あー……、失敗したこと全部押しつけてくる例の先輩?」
「そう! もう無理。何で私ばっかり。死にたい」
「女の子が簡単に殺したいとか死にたいとか言うもんじゃないよ」

 可愛い顔が台無し、とにっこり笑って付け加えてやれば、嫌味が分からないほどニブくはないのか、こわい顔で睨まれた。冷蔵庫から勝手にソーダ味のアイスキャンディーを持ちだし、すでにソファーの上に居座っている。隣に住んでいるナマエはよく下校時にオレの部屋に寄っては愚痴をこぼし、隣の我が家へと帰っていく。最低な先輩にいびられるバイト先のこと、まったく伸びない成績、何かと口うるさい母親の話。その項目からバイト先の話は消えたわけだが、すぐにそれを埋める新しい不満が生まれるのだろう。彼女の話を聞くオレの顔こそコピーアンドペーストしたような、貼りつけた笑顔だ。
 ナマエはありきたりな街の、ありきたりな住人だ。殺意のない「殺したい」という言葉も、絶望も知らない「死にたい」という言葉も、オレには響かない。毎日、晩飯の時間になれば薄い壁越しに家族の笑い声が聞こえてくる。この街は幸福といううすい膜に包まれている。本物の殺意も絶望もその膜に弾かれ、住人は何が幸福かもよく分からずに、満ち足りた空気を吸い、生きている。見渡す限りゴミの山しかない、捨てられた街の黴臭い空気なんて知ることはないだろう。殺意と絶望を教えてやることはできても、幸福だけは語ることができない。神様はオレたちからそれを奪って、捨てた。
 正直、オレはこの街が苦手だ。この子が苦手だ。街を歩けば、纏わり付く他人の多幸感。どう考えても神様に愛されて生まれたこの子は、不幸を語る。

「シャルってさ」

 体育座りのままだんまりを決め込んでいたナマエの、静かな声に顔を上げる。彼女の視線がテーブルの上に置きっぱなしだったパソコンの画面に注がれていることに気づいてオレはさりげなく画面を切る。まさか、何か見たのだろうか?
 それはオレの杞憂だったらしく、ナマエはぼうっとしたまま喋り続ける。

「……この街の外から来たんだっけ? この部屋って家具が少なくて生活感はないし、仕事してないっぽいのにお金はあるしさぁ。シャルって謎だよね。顔は腹立つぐらい綺麗だし、色んなこと知ってるし。よく分かんないけど、羨ましい。シャルって絶対、他の人とは違う。変なやつ。自由って感じがする。目を離した隙に、消えてそう」

 やっぱりオレは違う匂いがするらしい。流星街の酷い匂いがまだ染みついたまま、消えてないのかもしれない。無意識にそれを嗅ぎ分けたナマエに、オレは、若干の恐怖さえ感じる。
 ナマエは馬鹿な子だ。苦手な勉強が山程あって、ちょっとした些細なことでヒステリックに泣き喚き、不器用な失敗ばかりする、馬鹿な女子高生。でも、たまに、こういう賢さを見るたびにオレは困惑する。この子が何を考えているか分からなくなる。何も知らないくせに、オレのコンプレックスを嗅ぎ取ることに嫌悪感すら感じる。
 ナマエが、「あっ」と小さく叫ぶ。真っ白なセーラー服にアイスキャンディーの青い染みが浮かぶ。止めを刺されたという感じで、彼女は力無い声で「あー……。もういや、もう死にたい。いいことない……」と呟いた。あぁ……蝉の声がうるさい……、空気も冷えてきた……もうそろそろ窓を閉めなければ。でも、何となく今、この場でこの子と二人っきり、静けさの中に残されるのはよくないと思った。部屋に侵入する陽射しは赤を帯びている。なぜか彼女は俯いたまま、ぐすぐすと泣いている。オレは、死んでこの街の住人に生まれ直さない限り、キミを理解することはできないよ。泣くことなんて、何もないだろう? バイトをクビになったって、成績がイマイチだからって、親子喧嘩が絶えないからって、ねぇ、オレには分からないんだ。
 ふざけるな、と言いたくなる。窓を閉めて、赤い部屋に二人で残されたら、オレは間違いなくキミを傷つけたくなる。もし、オレになりたいならオレのすべてをくれてやるから、すべて残さずもっていけばいい。
 分かる? 真っ白なセーラー服に小さなアイスの染みが出来たくらいで家に帰れば母親に洗濯してもらえる、それってちょーハッピーな女の子だってこと。キミは馬鹿だから、分かんないだろうな。
 すべてオレの諦念と怨嗟だ。死ぬほどイライラしていることは、実際、ナマエのせいではない。オレは傷つけることなく女子高生を優しく部屋から追い立てた。すぐに、隣の部屋のドアが開く音がした。幸福とは、相対的なものではなく、絶対的なものだ。ナマエが不幸だと嘆くのも自由で、オレが幸せになれないのもまた自己責任。金、名誉、生まれ育ち、思想、容姿、価値観、すべてのパロメーターに意味はない。


 ――詳細は追って連絡する。
 ぷつりとクロロからの電話は切れる。オレは携帯をソファーの上に放り投げた。
 次の集合地はヨークシンシティ、か。この街ともお別れだな。余計な家具がないから部屋は数日で片付くはずだ。冷蔵庫に溜まったアイスキャンディーは元々ナマエが好きだから買い置きしておいたあげただけだし、彼女が処分してくれるだろう。パソコンもデータ消してからあげようかな。
 ソファーに寝転んで、ベランダの四角く切り取られた世界を見る。過去でも未来でも、そして流星街でもここでも、見上げた先が同じ青に染まっているのはとても皮肉な話だ。何一つ、変わらない。クロロの声はいつも通り恐ろしく静かで、オレたち旅団は底のないコップに水を注ぐように、尽きぬ衝動に身を任せては何かを奪い続ける。旅団結成のあの日から始まり、オレたちは終わり続ける。
 睡魔がオレの目を隠し、心地良いうたた寝に身を任せていると、遠くの方でチャイムが鳴った。無視する。チャイムは喚き続けていたが、ふいに沈黙した。誰かが泣いている。また、ナマエが泣いているのだろうか。耳元で泣き声が聞こえてぱっと目を覚ますと、それがただの勘違いであることが分かった。ただの蝉時雨だ。白い天井がハレーションを起こして目に焼き付く。オレはドアを開けた。ナマエはまだそこにいた。泣いてはいなかった、が、今にも泣きそうだった。

「キミってホントに泣き虫だね」
「泣いてない」
「知ってる。……ああ、そうだ、悪いけど冷蔵庫の中のアイス、全部、もってっちゃってくんない?」
「どして」

 息もつかずに、嘘を吐く。

「冷蔵庫、買い換えようと思って」
「ふぅん。分かった」

 ナマエは部屋に入るや否や、すぐにベランダの窓を閉めた。すとん、と刃物で切り落としたみたいに蝉時雨が止む。彼女は、夏は嫌い、とぶっきらぼうに言い捨てた。この子と二人っきりになるのが嫌でいつもベランダを開け放しているというのに、困ったものだ。彼女はテーブルの上の煙草を黙って眺めている。これは、すぐに大人ぶりたがる彼女からオレが取り上げたものだった。悪い友だちに夜遊びや煙草、酒を教わったようだが、オレの姿を写メらせてくれと前から懇願されていたので、それと引き替えに止めるように言うとあっさりと手を引いた。友だちに年上の友だちを自慢したかったらしい。その後に消すように約束させていたけれど、まだ画像フォルダにオレが残っていることに一万ジェニー駆けてもいいし、さらにオレのことを彼氏と友だちに自慢したことに倍プッシュだ。
 なぜ夏が嫌いなの、とオレ。静かな部屋には二人分の声だけしかしなくて、何だか居心地が悪い。画面の中でやりとりされる電子メールように、今度は淡々とナマエのレスポンス――蝉はうるさいし、暑いし。空が青すぎて、……落ち着かない。夏って、胸がぎゅっとなってすごく気持ち悪い。夏って短いよね、すぐ死ぬって感じ。置いてけぼりにされて、自分がどこにいるか分からなくなる。こっちまで死にたくなる。夏って嫌だよ、大嫌い。夏って生き急いでる。生き急いでるの……。

「生き急いでる?」
「うん」
「……生き急いでるのはキミだろ」

 ナマエが顔を上げる。すぐに大人の真似事をしようとする、死にたがる、子どもの純真さを汚したがる。キミのそういうところがオレも大嫌いだ。
 つい苛立った声を出したオレをじっと見つめていたナマエは、そっと目を背けた。
 なぁ、ぜんぶ持ってるのになぜ捨てようとするんだよ。不幸ぶるんだ。キミは紛れもなく、このありきたりな街の住人だ。ありきたりな幸福の中、これからも生きていくはずだ。オレたちみたいに、毎日の食べ物を確保するためにゴミ山を彷徨き、明日を生きるという恐怖に怯えながら寝たことなんてないだろ。なのに生き急ぐとか、どれだけオレたちを馬鹿にすれば気が済むんだよ。

「……そう? みんな生き急いでるよ。季節も、人も、私もシャルも、いつか死ぬ。死ぬまで全速力で走ってるだけ。」
「キミはまだ子どもだし、それに、恵まれている。家も家族もある。生き急ぐ必要なんて何もないだろ」
「……わかんない。私、馬鹿だから難しい話しないで。私……、シャルが羨ましいよ。早く、大人になりたい。ここじゃないどこかに行きたい。自由になりたい」
「何もないから自由なんだってば。まだ分からない? オレには何もない。羨ましがられる意味が分からない」

 何にも知らないくせに、とオレが素っ気なく言い放つと、ナマエは怒って、何も話してくれないくせに! と叫んだ。やばい。もう限界だ。オレはベランダの戸を開けた。蝉時雨が二人の間の沈黙を埋める。暮れが近くなって冷えた風がオレの頭から熱をすうっと奪っていく。子ども相手にムキになりすぎだろ、オレ……。最初から分かっていた。オレたちは理解の範疇に住んでいない。あまりにも生まれ育った環境が違いすぎる。彼女は馬鹿なりに、恐らく分かっているのだろう、オレが自分の話をしない理由。交わりもしない世界で生活していること。理解など、臆測の延長線上にしか存在しないフェイク。
 オレも彼女も謝るタイミングを測り損ねていた。今にも部屋を埋め尽くしそうに膨張していた熱はいつの間にか消えていた。オレはベランダの手すりにもたれたまま「こういうの、ないものねだりって言うんだろうね」と呟く。彼女は棘の抜けた声で、「そうだね。お互いにね」と言うとオレの横に並んだ。
 キミは馬鹿だけど、少しだけ賢い。そのせいで生きづらい。賢い大人になんてならなくていい。もうちょっと馬鹿になって、自分にないものが分からないぐらいになった方がいい。オレたちは自分にないものを相手に見いだすが、自分がもっているものは見えないみたいだ。
 終わり続ける、今日はそのフレーズだけがよく脳裡に浮かぶ。どこかで聞いた歌の歌詞だろうか……、それとも雑誌の広告だっただろうか。

「何もかも、終わり続けるんだ。夏はその感覚が強いから、何だか寂しくなる。だから嫌いなんだろ、多分」
「終わり続ける……」

 旅団も、クロロも、オレも、ナマエも、この街も、夏も、終わり続ける。
 神様が始まるすべてに与えた平等の権利、定め、いずれ死ぬこと。朽ちること。いつかすべてを失うというのなら、何も持たずに生まれたことも、悪くないかもな。

「……そういえば、進路のやつ、どうなったの?」
「ん? あ〜、適当に書いて提出しちゃった。どうせこの街で生まれてここで腐って死んでいくんだし。私はどこにも行けない気がする」
「オレはどこにでも行けるけどね」
「連れていってよ」
「……キミが本気でそうしたいなら、オレはいつでもそうしてあげるよ」
「は、ちょっと何それ、変なこと言わないでよ……」

 ナマエが少しだけ顔を赤くしてオレを見た。初めて、ちょっと可愛いかな、なんて思った。
 下の方からナマエの名前を呼ぶ声が聞こえる。どうやら彼女の友だちらしい女子高生たちがオレたちに手を振ってる。「マジでナマエの彼氏じゃん〜!」「ナマエ、下りてこーい!」ほら、やっぱりオレのこと彼氏って紹介してる。彼女はオレに弁解することなく、冷蔵庫からありったけのアイスを引っ張り出すとばたばたと部屋を出て行った。数分後、彼女が合流した女子高生たちがアイスを頬張りながら、長々と話し始めたのを見て、オレはベランダの戸を閉める。
 捨てるだけのものは欲しくないと思ってたのにな。どうやらこの街に捨て行くには惜しいものを見つけてしまったみたいだ。


 ――そして、オレは街を出た。
 ナマエが帰宅する時間帯の前に部屋を引き払った。もう何も入っていない冷蔵庫とソファーとテーブルを売り払い、僅かな衣服は捨てた。街は相変わらずで、出て行くオレに何とも思っていないようだった。後ろから急接近する気配に気づいて振り向くと、頬が涙でびっしょりなあの泣き虫がオレの胸を殴った。痛くも痒くもないんだけど、ナマエは「シャルの馬鹿」と繰り返して何回も叩いた。全速力で走ってきたのか、荒い呼吸と嗚咽で何を言っているか分からない。
 大分、落ち着きを取り戻したところで「一緒に来る?」と聞いてみる。答えは分かっていた。分かっていて聞くのは、ただ単に意地悪してやりたいからだ。ナマエは笑って、「行けるわけないの、分かってて言う」とぼやく。

「何でオレが出て行くの分かったの」
「アイス、全部あげるって言ったときに予感はしてた。っていうかあんな家具少なかったら、いつかいなくなるって分かるよ。今日はたまたま午前授業だったから、驚かそうと早めに遊びに行った。いつも部屋にいるくせに出てこなくて……。走り回って探した」

 ナマエはそこでまた泣き出した。
 この子はどこにでもいるような、そんなやつ。誰もと同じものを背負う重みを知っている。幸福の膜の向こうに見える景色に少しだけ憧れている。優しさとちょっぴりの悲しさだけで生きていける。家族や友だち、名前、あったかい布団、携帯、この子が捨てられるわけもないだろう。

「キミは自由だよ。本当は自由だ。いつだってどこにだって、好きに行ける。この街から出られる。好きにやればいいとオレは思うよ」
「……何が自由なの……、わたし、シャルと行けない……わたしどこにも行けない」
「ほんっとよく泣くなぁ。オレは行くよ。行かなきゃならないんだ」
「分かってるし。もう行ってよ……」
「じゃあね」
「うん」

 オレは何も持たないからどこにでも行けるけど、キミはどこにでも行けるくせにあまりにもたくさんのものを持ちすぎて動けない。それのどちらを幸せと呼ぶかは、そいつの自由だ。あっちの国では紛争が起こっているらしいし、朝刊には猟奇的な殺人事件が載っていたけど、あの子に嫌われただとかあいつにフられただとか、そんな些細なことの方がよっぽど大事なやつもいる。オレはその方が幸せだと思う。


 ――八月になると、思い出す。あの泣き虫。
 最後に伝え忘れたことは、泣くな、ってこと。いちいち泣いていたら干涸らびるぐらい辛い思いをすることは誰だってあるし、だとすれば綺麗なものを見て泣く時に困るだろ? キミはまだそうすることができる。嬉しくて泣くことができるし、正しくないことに怒りを感じることができる。きっと幸せだと笑うことができる。オレには出来ないこと、オレが持っていないもの、たくさんあるはずだ。泣くなよ、そう簡単に。まぁ、でも、八月には泣いてみせてよ、オレのこと、たまに思い出して。
 ほら、もうすぐ短命な夏が死ぬ。オレたちは終わり続ける。自由だとかそうじゃないとか、幸せだとかそういうまどろっこしいすべての答えを出すのは最期で構わない。


20150824【八月に夏は死ぬ/企画「サイレント映画」様に提出】
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