※転生/現パロ

 目を覚ました時、まだ部屋は薄暗くて、カーテンに少しだけ朝の気配がにじんでいた。家は静かだった。長い、長い、夢を見ていた気がする。いや、見ていたのだと思う。本当に長い夢を見た、何百年も、何千年もの時の風が体の中を吹き抜けていったみたいな。
 夢のことは何も思い出せない。生温く、幸福の温度がかすかに胸に残っていることから、きっといい夢を見ていたのだと思う。いい、夢。あたたかい布団の中で丸まっているうちに、その夢のことを思い出せないということに焦っている自分に気づいた。今、手を伸ばして掴もうとしているのに指の隙間からさらさらと砂のようにこぼれ落ちてしまう。やっぱり、何も思い出せない。歯がゆさにぎゅっと目を瞑り、色も音もない部屋の静寂に身を委ねた。
 再び眠りに落ちようとするものの、部屋の静けさを強調するような時計の秒針の音がそれを許さない。完全に目を覚ましてしまったみたいだ。私はカーテンを開けた。それから、その景色に少しだけ見入った。
 春だ。
 通学路に植えられた桜の蕾が解かれ、淡い色の花弁が、夜明けの瑠璃色の空気の中でこぼれ落ちそうに身を乗り出している。
 何だか、不思議だ。私は歳の数しか桜が咲くのを見たことがないはずなのに、まるで、ずっとずっと昔から数え切れないほどの春を繰り返してきたような錯覚に陥った。何度も、何度も、私は。
 ――思い出した、私の夢に知らない男の人が出てきたんだ。
 でも、おかしいよね。知らない男の人なのに、私は何度も彼に会ったような気がする。


 オレは、見下ろしていた。
 これが夢であると知っていた。女が倒れていた。その顔や、放り投げられた髪の上に白いものがひらひらと落ちてきては彼女を埋めていった。雪? 違う、冷たくない。いや、夢だから冷たいも熱いもないだろうけど。
 桜の、花びらだ。白かと見紛うような淡い色の花びらが顔の上に舞い降りても、彼女は微動だにしなかった。死んでいるのだとオレは知っていた。悲しかった、なぜか。不可解なことに、同時にオレはちっとも悲しくなかった。相反する二つの感情がオレの中から、その女を眺めていた。
 顔が見たい。
 オレが顔に積もった花びらをどかそうと手を伸ばすと、急に世界がぶれて、地面が消えた。雪崩を起こしたかのように、花びらごとオレと彼女は流されて、遠くへと離されていく。不意に生身の体に感じる感覚が戻ってきて、誰かがオレを揺さぶっていることに気づく。指先は自分の体温であたたまったシーツに触れている。

「……起きた? 兄貴、桜が咲いたんだぜ」
「桜?」

 最愛の弟が、楽しそうにそう言いながらオレの布団を剥がしにかかる。最近は反抗期に入ったのかいつも不機嫌なくせに、やたら上機嫌の弟の様子をひとしきり堪能してから、リビングへと向かった。庭に植えてある桜が、確かに咲いていた。あんな変な夢を見たのは、桜が咲くことを体が無意識に察していたからとかそういうことなんだろうか。「あと、一年ね、イルミ! 来年もサクラが咲くように頑張ってちょうだい!」と母親が朝食を並べながら、オレに言う。オレの家は医者の家系だった。母親が言う、サクラが咲く、という言葉の意味は簡単に言うと受験に受かれということだ。口うるさいなあ、と思いながら駆け寄ってきた末っ子の弟の頭を撫でる。
 ここには幸福があった。厳格だが医師として尊敬を集める父親がいて、朝も昼も夜も母親の料理が食卓に並ぶ。可愛い弟たちがいて、まぁ肥満傾向が見られるのもいるけれど、みんな健やかに育っている。オレは何かヘマをしない限りは来年には大学の医学部に進学し、父親の後継を目指すようになるのだろう。何も、欠けているものはない。
 それでも、今日の朝は、まるでこっちが夢のように感じる違和感がつきまとう。無感情にこの朝の光景を眺めている自分がいる。何か、忘れている。オレは、確かに何かを忘れている。

「兄貴? どうかした?」
「いや、何でもない。何でも……、ていうかオレの携帯で何してるの」
「べーつに。ほら、送っておいてやったぜ」

 弟に差し出された自分の携帯を受け取ると、付き合っている彼女宛に庭の桜の写真が送信されていた。すぐに返信が来る。珍しい、あいつは朝が弱いのに。

『綺麗だね、イルミのお家の庭』
『ナマエの家の近くは咲いた?』

 ややあって来た返信には桜並木の写真が添付されていた。


 今朝もあの夢を見た。
 やっと気づいたのだけど、その男の人は私を殺そうとしているらしかった。白くて細くて無慈悲な感じのするその手がすっと伸びてきた時、そう思った。思った、のではない、知っていた。知っていたから、夢の中で私はそれを当たり前のように受け入れようとした。恐怖はなかった。むしろ、それはあたたかい、幸せな気分のする夢だった。まるで、旅の目的地にやっと辿り着いたかのような、待ちくたびれていた約束を果たしたような、深い満足感が私を包んでいた。
 遠くからやかましい音楽が聞こえてきて、私はその男の人の顔を見る前にぱちっと目を開いてしまった。乱暴に携帯のアラームを止めて、また目を閉じてみるけれど、あの夢に再び戻るのは不可能だった。
 馬鹿な夢。状況と感情が乖離しているというのにもほどがある。
 ぼーっとしてるね、と、その言葉が自分に投げられたものだと気づいてはっと顔を上げる。

「ほら、上の空だ」
「考え事してたの」
「何の?」
「進路希望調査のこと」
「ああ……、あれね」

 その言い方があんまりにもぞんざいだったから、私は苦笑してしまった。新学期早々に配られた進路調査の紙。粉々に破いてこの桜吹雪とともにどこか彼方に流してしまいたい気持ちだったけれど、いつまでも高校生を続けられるわけじゃない私たちはその紙に自分の未来を預けるしかないのだった。
 桜吹雪の中で、イルミが鬱陶としそうに髪を押さえる。イルミは髪が伸びるのがはやくて、放っておいたらすぐに女の子も顔負けの綺麗な長髪になってしまうだろう。イルミは何でもできる、勉強も、運動も。弟さんたちもみんな優秀で、お父さんはお医者さん。イルミは来年の受験で医学部を受けるらしい。合格するはずだ。

「いいなぁ、イルミは頭がよくて。医学部狙えちゃうもんね」
「……ねぇ、オレって治すこと向いてると思う? 人を生かす職業に向いてる?」

 イルミにしては珍しく眉を少し寄せて、どことなく考え込んでいる風だ。何か、余計なことを言ったかな。私は寸前までの自分の軽率な口調を思い出して、ひやりとした。黙り込んでいると、イルミの手が軽く私の手に触れた。ごめんね、困らせたかも、といつもの穏やかな声がする。私は首を振った。黙り込んだ私が悪い。でも、なんだか、イルミの言い方だと、自分は人を治したり生かすことには向いてないとでも言わんばかりだったから。イルミが何を考えてそう言ったのか、全然、分からない。

「そういや、桜の木の下には死体が埋まっているってフレーズよく聞くけど、どこで生まれた言葉?」

 イルミが私の髪に絡まった花びらを摘んで風に乗せながら言う。

「うーん。何かの小説の書き出しだって聞いたような気がする。桜があんなに見事に咲くのは、死体が埋まってるからだって」
「養分?」
「身も蓋もないこと言わないでよ」

 空気の匂いすら春の色を含んでいる町中を並んで歩いた。桜の花びらはどこからかともなく絶え間なく姿を見せ、くるくると舞い続ける。まるで桜色の柔らかい、音のない雨のようだ。イルミの手と私の手がぶつかる。その拍子に、イルミの少し冷たい手の温度が何かを想起させた。夢の中で、私を殺そうとしたあの男の人の手にそっくりだ。形も、温度も。
 夢に温度なんてないはずなのに、まるで本当に起こった事実のように私はあらゆる細部を覚えている。この体が覚えているのではなく、『私』が知っている。
 何だか、私は、イルミのことを、出会うずっと前から知っている、ような気がした。
 ……治すのでもなく生かすのでもないとしたら、それは壊したり殺すことなのだろうか。


 ずっと同じ夢を見ている。
 オレは自分を見ていた。オレ自身が、あの静かに横たわる女の傍に無感情に突っ立っているのを、オレの体の外側から眺めている。やはり、悲しいと思った。なんとなく。もしかしたら、死んでいる女のことを知っているのかもしれない。相変わらず、夢でも現実でも桜が止まない。ここでは雨のようにはらはらと花びらが、どこまでも白い空間のどこからか降ってきて時を重ねるように積もり続ける。そういや桜の樹の下には死体があるんだっけ……、こんなにたくさんの花を散らせる桜ならその下に数え切れないほどの死体が埋まってるだろうな。
 感情もなくそこに立ち尽くしてるオレはまるで人形のように見えた。それ――オレは顔を上げて、『オレ』を見た。闇と名づけてもいいような真っ黒な空洞がオレを見つめた。
 すると、オレはすでに自分の体の内側に戻っていて、自分の足元にまたあの女が横たわっていた。彼女はまだ死んでいなかった、なぜならすっと腕を持ち上げて手を伸ばしてきたから。オレは何の躊躇いもなく、それが当たり前だと知っているかのように、彼女を殺そうとしていた。理由も衝動もなかった。ただ、そうするべきだと知っていた。そうしなければ、ならなかった。だってオレは……。
 オレは殺し屋だから。
 風が吹いた。まるで砂の山のように積もった桜の花が舞い上がり、オレの視界を洗った後、女はすでに事切れていた。死んでいると分かった、自分が殺したから。そう、殺したのは、この手だ。知っていてなお、オレの中で何の感情も湧いてこないことに気づく。所詮は、夢だ。……人を殺すなんて、そんな経験も実感もしたことがない、存在するはずのない過去を追憶できるはずもないじゃないか。オレは立ち上がって、無感動にその女を眺めた。オレと女を繋ぐかのように、静かに桜の花びらが一枚、ひらりひら、と落ちてきて彼女の唇へ触れる。
 不意に顔を上げたオレは、ぴったりと誰かと視線を重ねた。オレを見つめていたのは、他でもない己自身だった。
 そして、気づく。夢の始まりで女の傍に無感情に突っ立っていたのは、今、ここに立つオレなのだと。



「イルミのお母さん、本当に料理上手だね。とっても美味しい」

 イルミの庭で花見をしている。庭に立派な桜の木が植えられているのだ。
 重箱には色とり鮮やかな品が詰められている。ちらちらと窓越しにこちらの様子をこっそり窺ってくるイルミの弟たちが気にならなくなるほどには、私はこの美味しい料理で舌を喜ばせることに夢中になっていた。

「そう? 普通じゃない」

 そう何ともないことのように言うイルミが、家族というものをとても大事にしている人だと私は知っている。本人が気付いていないだけで、そして、誰もそれを指摘しようとしないだけで、イルミの生活というのはいつも家族という一つの塊を軸にしているし、おそらくこの家から離れることはないのだろうと思う。それは無意識なイルミ自身の執着に見えるし、また、この家にイルミが縛られているようにも見える。でも、それが誰かを不幸にしているわけでもないし、私が口を出すことではない。ただ、なんとなく、この家族は、深い森の奥の閉ざされた門の中の屋敷でお互いだけを慈しみ、他には誰にも踏み込ませず、また、誰も必要としていないかような、そんなイメージを喚起させる。まるで、家族に生まれることがすでに契られていたかのような、妙な親密さ。家に招かれ、イルミと付き合っていることを快く思われていても、たまに、私は彼らからずっと遠くにいるように感じる。イルミが弟に向ける強い愛情に、私は少し、妬いているのかもしれない。
 あの夢はまだ続いている。でも、桜が散る頃にはきっと、もう、見なくなるだろうとは思う。夢に出てくる男の人はイルミだと私は気づいた。なぜ、イルミがこのように夢に出てくるかは分からないけれど。夢の中で何回も私は死んだ。こわくはなかった。痛くもなかった。悲しいとも思わなかった、だけど、その男の人、イルミ、は、たまに悲しいのだろうか、私に触れるのを躊躇うことがあった。
 ただの安らぎだ。終わる、という予感の安らぎ。終わっても、始まることを知っている、安らぎ。果てもなく続く、その繰り返しにただ全てを任せていればいい。避けられない定めというものなのだろう。これは終わらないあやとり遊びみたいだ。そういう、夢だ。


 万華鏡の中に迷い込んだのだろうか。一面に美しい模様の広がる、洞窟のようなところ、あるいは球の中に閉じ込められている。夢とは不思議なものだ、現実にはどうやっても創り出せない世界が広がっていてそれを確かにそれを認識しているのだから。桜の花の形に広がったシンメトリーな模様が、俺と女の姿と、濃淡様々な桜色を写し込んでくるくると顔を変える。
 女の姿は見えない。
 オレは立ち尽くし、その光景に何かが呼び起こされる感覚に襲われる。デジャビュ、か。
 いいや、錯覚ではない。オレはすべて思い出す。

 それが生業だった、生き様であり、本質だった。血が背負った業だ。
 オレは殺した、何回も、何回も、何回も。それが一族だった。あの家だった。そして、「オレだった」。

 ウロボロスやメビウスの輪だけじゃない……、万華鏡や桜、それらが比喩するのは――輪廻だ。

 万華鏡の模様が赤く染まる。ああ、血を吸って赤くなったんだろう、なんせ桜の樹の下にはオレが屠った死体が山ほどあるからさ。

 とっくに覚醒はしていた。後は目を開けるだけだった。見慣れた天井がある。
 やはり、なんて馬鹿馬鹿しい夢だろう、と思ったが、夢にはありえないものを見せる力もあれば、もちろん、ありえないことを信じさせる力もあるわけで、夢で得たいつのものか分からない忌々しい記憶は、きっと嘘なんかじゃない。どうやっても言葉にはできない静かな力のようなものがオレにそれが真実なのだと告げている。いつのことかなんて分からない、この世界のことかも分からない。そういや、弟がパラレルワールドとかいうものを題材にしたゲームにはまっていることを思い出す。神様の計算が狂ったとして、まったく違う星で、だから地形も違って、国の名前も違うようなところで、全く今とは違う姿のオレとあの女が出会ったとして、きっとそこには桜の木があるんだろうと思う。
 春の朝の日差しに照らされた白いシーツは甘ったるい洗剤の匂いがする。ああ、あと少しすれば弟が今日も起こしにくるだろう。あれもきっと、オレと同じ業を背負っているのだ。オレはこの家から逃れることはできない。
 女の顔。見ていないのに、それが誰なのか知っている。どうして、易々とその女を夢の中で幾度も殺したオレが、悲しくなったかなんて、愚問だ。悲しかった。確かに悲しかった。

 もしかしたら、オレは実はとっくにその繰り返しから抜け出しているのかも。今、オレの家族が治し生かす生業を立てているのは、今までの業を贖い、精算するためではないのだろうか。そして、俺は今、あの女を殺すことを悲しいと思う感情を抱くことを、許されている。
 すべては馬鹿な妄想なのかもしれない。春の陽気に頭がやられたのかもしれない。じゃあ、最後に一つだけ馬鹿な考え事を――繰り返しから抜けてもなお、俺とミョウジナマエという女が性懲りもなく邂逅を重ねるのは、桜の木の下で何か約束でも交わしたからなのかもしれない。


 せっかく教室の掃除を済ませたというのに、イルミが窓を開け放すから桜の花びらが埃の代わりに床に這った。イルミは私の机に座って、さっそく今日課された古典の宿題のプリントをせっせと片付けている。横目で見つつ、床の花びらを拾う。「色は匂へど散りぬるを……」か。

「桜、もう散っちゃうね。ずっと咲いたままだとよかったのにな」

 散らない花ならば、愛でられもしないのだろう。
 イルミはちらっと窓の外に視線を投げて、無言のまま、またプリントの相手に戻る。春の風がイルミの髪を梳く。あまりにも長閑な日差しに教室がうっすらと眠気に包まれる中、古典の教師が言っていた。桜は儚い花なのだそうだ。人々は七日間もすれば散ってしまう花の儚さに、己の一生を重ねて詠った。それから、あまりにも生徒たちがうつらうつらとしているから、教師は「邯鄲の夢ですかね」と軽い皮肉をこぼして、ついでにため息もこぼしていた。
 そういや、イルミと出逢ったのも桜の舞うこの季節だった。机と椅子に長い手足を持て余すイルミを見て、思い出す。私は初めてこの人と会った時、夢みたいに綺麗な人だと思ったんだ。ずっと会いたいと思っていた、だから、そう、イルミにやっと会えた瞬間が私の終わりだった。長い長い夢の終わり。私に前世からの宿縁というものがあるとしたら、それは幾度もある男に殺され続けていたということだ。あなただよ、イルミ。

「でも、また春になれば、桜は咲くよ」

 夢は続く。私たちは続く。春は巡り、また桜が咲く。死ぬということは、生きることの始まりだ。

「随分と遠くの大学を選んだね」
「だって私はイルミと違ってどこでも行けるわけじゃないし」
「……まぁ、また会えるんじゃない」
「そうだね。そうだろうね」

 黒い瞳が何かを言いたげに私を見つめる。こつこつ、とイルミのシャーペンが秒針のようなリズムで机を叩く。

「約束だろう?」

 約束しよう、ではなく、約束だろう、という言葉に私は静かに頷いた。
 また逢えるだろう。
 殺されたって、生かされたって、何だっていい。また逢えるなら、私は何度生まれ変わっても桜の下にあなたを探す。重ねた時を埋めてまた桜を咲かそう、散ってしまうと知っていても。



20160424【平成諸行無常】