呪詛


 大人なんて大嫌いだ。みんな、くたばれ。くたばってしまえ。大人なんていうのは、あたしたちがどんどん薄汚れていった成れの果てでしかない。そのくせ、あたしたちみたいな垢にまみれて、道の隅っこで寝ているような子供を見ると、あからさまに眉をしかめて顔を背けるのだ。大人たちは、空き缶や煙草の吸い殻、挙げ句の果てには赤ん坊までも簡単にぽいと捨てるくせに、小銭のひとつすらポケットからこぼさない。
 大嫌いだ。嫌悪しているのだ。見下している。擦れていない白さを優位にとって、大人たちを軽蔑する。
 あたしは膝を抱えたまま、左手の甲についた煤みたいな汚れを右手で拭った。拭いきれなかったその汚れはさらに広がって、左手の甲は疎か、あたしの右手まで黒くした。ち、と舌打ちする。暖簾の下から漂ってくる中華の匂いがあたしを惨めにする。一週間、物乞いをしたってここで一番安いメニューを頼めるかすら怪しい。今夜は冷える。だからなのか、いつもは繁盛していないこの中華屋もいつもより忙しいようだった。
 客は店先に座り込んでいるあたしを、ちらりと見ては暖簾をくぐっていく。
 大嫌いだ、きらい、きらい、死んでしまえ。大した身なりでなくても、清潔な服さえまとっていれば、家族や恋人を連れていれば、財布をもっていれば、全員があたしの敵だ。生まれた時から負け続けているあたしは、ただここで身を丸くして寒さに耐えるしかない。
 がらり、と戸が開く音がしてあたしは顔を上げた。ついに店長が音を上げて、「あまりものの飯ならやるから、さっさと余所に移ってくれないか」と、残飯をもってきてくれたのかと思った。それを目的に閉店まで粘るつもりだったし、お玉で叩かれそうになったらそれを奪って逃げるつもりだった。中華屋のお玉でも数ジェニーで買ってもらえるから。
 出てきたのはただの客だった。気の強そうな女、チビで目つきの悪い男、ちょんまげの男と、きれいな顔をした男。男たちはみんな、あたしにまったくの無関心だった。くそ、小銭のひとつやふたつ恵めよ。あたしが心の中で毒づいていたとき、女だけが立ち止まってあたしを見下ろしながら口を開いた。

「あんた、さっきもいたよね」
「……」
「物乞いにしちゃあ、ずいぶんと生意気そうな子供だね。食べる金もないの?」

 黙れ、だまれ、だまれ。あたしに話しかけるな。汚い大人のくせに。中華屋で食べる金を持ってるだけであんたはあたしの敵だ。違う生き物だ。あんたが残した残飯がどこに消えていくか知ってる? あたしの口の中に消えていくの。

「ほっとけよ、マチ」

 ちょんまげがだるそうに言った。そうだろう、あたしみたいな子供にいちいち構っていたら、あんたはこの街から出られない。別にここはスラム街ほど酷くはないけれど、あたしみたいな子供たちがたくさんいる。
 行って、行けよ。もう、行って。あんたみたいに、きれいな肌をして、いい匂いのする髪を束ねている女を見るだけであたしは死ぬほど惨めなんだ。
 今度、女が口を開いたら財布をスってとっとと逃げてやろうと、俯いて地面を睨んだ。

「あんたさ、これ持ってあっちの出店に行きな。こんなに寒いんだ、客足もないし、もう畳むだろう。あんたの格好を見れば、少しはおまけしてくれるさ」

 女があたしに札を一枚、差し出していた。あたしは少しだけびっくりしてそれを見つめた。無条件に与えられたものを素直に受け取らないのは、無条件というものの恐ろしさを知っているあたしの警戒心がそうさせるから。女は無言であたしが受け取るのを待っている。
 女の目の色が、同情や憐憫の色に染まっていたらあたしはそれを目の前で破り捨ててやっただろう。女はただあたしが受け取るのを待っていた。あたしが憎んだ大人の汚さは、施しをする奴らが浮かべるあの気持ち悪い笑顔は、偽善者の胡散臭い匂いは、探してもどこにもない。
 何で。何であんたは、そんな目をしてあたしを見るの。どうして無感動にあたしを見る?
 もっと、かわいそうに、って言いたげにあたしを見なさないよ。ほかの大人たちがそうするように、汚い面を下げてさ。

「勘違いしないで」

 あたしは、礼も言わずに、随分と突拍子もない言葉を吐きながら札をひったくった。
 女は最初から分かっていたのだ。あたしが、あたたかいご飯を食べたいことも。あたしが、その札を受け取ることも。あたしの惨めさも、傲慢さも。大人の施しを受ける時に、どうしても礼を言えないことも目を伏せて受け取ることも。あんた、知ってるんだね。
 女の目元が一瞬だけ和らいだ。あたしがその時、感じたのは女の隣人愛というやつで、あたたかい手のひらでそっと触れられるようなそれは、あたしをこわがらせた。慈しむ人の手を恐れる、野良の子猫のように、あたしは本当にこわくて、震えたのはたぶん、寒さのせいなんかじゃない。家族も恋人も、仲間も知らない、そんなあたしは愛情なんていう無条件に与えられるものを知らないし、信じちゃあいない。ねぇ、無条件なものがあるはずないじゃない。あんたたち、汚い大人たちは、あたしたちをすぐ利用したがる。かわいそう、とか、恵まれない子供たち、とかそんなフレーズを使って、あたしたちに与えるふりをして、結局、満たしたいのはあんたたちの自己満足。
 女はすぐにあたしに背を向けて、仲間たちのところへと戻っていった。あたしは急に礼が言いたくなってぱっと顔をあげたけれど、ただ何も言えずに突っ立っていることしか出来なかった。きれいな顔をした、女の仲間であろう男があたしを見ていた。あたしが彼らを見送っているはずなのに、男の目がまるであたしを見送るような、遠ざかっていくのを眺めているような感じで見るので、妙な心地に浸りながら強く男の目を見返した。男は、ふ、と思い出し笑いをするかのような微かな笑みを口端に残すと、背を向けて仲間と街のどこかへと消えていった。


祝詞


「おいしい」

 そりゃよかった、と出店の店主がどうでもよさそうに生返事を返す。売り上げが悪かったのか、売れ残った肉まんをやけくそのように全部あたしに売った。
 女からもらった金で中華屋に入ったとしても、見窄らしい格好のあたしはすぐに追い出されていただろう。それを見越して、女はあたしに出店に行くように助言したんだろうか。女はあたしのことも、あたしの生きざまもよく知っている。
 あたしは想像してみた、もっと幼いあの女があたしのように目つきを悪くして中華屋の店先にしゃがみこんでいる姿を。ああ、それは、紛れもないあたしじゃないか。
 あたしは笑った。ああ、くそ、あたしもいずれは大人になるのだ。
 マチ、あの女はマチといった。あたしは肉まんと一緒にその名前を口の中で転がした。あたしには金も無ければ、名前も無い。

 あたしはその日から自分のことをマチと名乗っている。


20150129【あなたの名前を拾う】

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