※アイザック→カノサガ



いつも、いつもカノンは、海底から空を見上げていた。
その瞳よりなお蒼い、海面の空を。焦がれるように、求めるように。

「カノン」

名を呼べば振り返る、その端正な顔に美しい微笑みをたたえて。

「どうした、アイザック」
「……ソレントが呼んでいた」
「そうか、すまないな」

そう言ってにこりとわらってみせる、海将軍筆頭の男。
ああ、なんて――なんて、反吐が出るほど美しくわらうのだろう。

その強さと気高さ、そして神の化身とまで謳われる容姿を持って、海闘士の崇敬を一身に集める海龍。誇り高き海将軍。未だ眠りの中にある海皇に代わり海界を率いる筆頭。
けれどアイザックからすれば、カノンはただの美しい大罪人。
神を謀り、海に住まう者全てを巻き添えにこの世を支配せんとする愚かな神気取りの人間。

「どうした、お前も何か用か?」

アイザックが考えていることなど見通しているくせに、白々しくも空虚なまでに綺麗に笑ってみせるカノンのことが、アイザックは嫌いで憎らしくて仕方がなかった。

「別に、」
「やめたいか?」

アイザックの言葉を遮って、何をとは言わず問うカノン。

「まさか」
「そうか、まあ今更お前一人抜けたとて何も変わらんがな」
「抜かせ」

殊更に『筆頭』を意識して振舞っている時より若干崩れた口調に、アイザックは努めて短く言葉を返す。

アイザックはカノンの企みを知っている。
けれどカノンがそれを放っておくのはアイザック一人が喚いたところでたかが知れているということなのか。
そう思われているのなら心外にも程がある。
アイザックは海皇ポセイドンに忠誠を誓っている。それは永劫に変わりえない事実であり、カノンの謀に協力しようなどという気は毛頭ない。
それでもアイザックは地上を浄化したかった。聖域が今海界以上の混沌と恐慌の最中にあることはこの海の底にも聞こえている。その災禍に巻き込まれ、いたずらに傷つけられる前に、師と弟弟子を静謐な水の底に、この手で眠りに就かせてやりたかった。
死に損なってクラーケンに助けられた、アイザックのただ一つの妄執だった。

「愉しみだなあ、アイザック。以前お前を呑み込んだ潮流が、今度は世界全てを呑み込むぞ」
「……嫌味か」
「ああ嫌味だ、嫌味だとも。お前の弟分、名は何と言ったか、確かそいつの身代わりでお前は海に沈んだのだったな。お前の犠牲が無駄になる瞬間が迫っていると思うと愉快で仕方ない」
「聖戦が始まる前に殺されたいか、海将軍筆頭」
「殺す? 俺をお前がか? はっ、これ以上笑わせてくれるな」

アイザックは正義感の強い人間だ。時にそれが行き過ぎて、師に窘められるほどに。
その正義感が、この地上の汚泥たる様を許さなかった。
家族とも言えた師弟への想いを除けば、今のアイザックを突き動かすのは潔癖にも近い正義感だけだ。この潰れた左目にかけて誓ったのだ、自分に生を残してくれたポセイドンのためだけに、汚れ切った地上を海底に沈めてみせると。
彼には一途なまでに抱いた浄化の悲願だけが残っていた。それ以外には何もない。きっと鱗衣に見出されたあの日、海魔人の名の通り、魔の怪物になってしまったのだろう。

海闘士の面々にすら危うく見えるらしいその決意はしかし、カノンには面白いものとして映るらしかった。
度々これといった用もないのに北氷洋の柱を訪うカノンは、元聖闘士候補生同士という共通点もあってか、やたらとアイザックの心の脆い部分を啄いては哂っている。
だからカノンの傍にはあまり寄りたくないというのに。アイザックは伝言を託けたソレントを恨めしく思った。

「あの忌々しい聖域も、永遠の静寂に沈めてくれる」

突如地を這うような声で呪詛を吐くように謳うカノン。ころしてやる、くつくつと嗤う声と共に呟かれたそれが、誰に向けてのものかなど、火を見るよりも明らかで。

――愉しみだなあ、サガよ。

カノンの小宇宙が、そう語っていた。

どこまでも蒼い蒼い海の空。
碧いカノンの瞳よりなお、蒼い蒼い瞳の持ち主。

「……あまり遅くなると、ソレントが怒るぞ」

舌打ちと共に踵を返す。
カノンにはあの蒼しか見えていないのだ。いまだ楽しそうに笑い声を上げるカノンの視線の先はいつだって。

ああ、その歪んでさえ美しい笑みに彩られた顔を剥ぎ取ってやりたい。


心は遠い


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140726



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