心が、痛まないはずがなかった。
 今朝部屋を出たときと比べていたく皺の寄った己の上着の裾を一瞥し、長谷部はその原因となった少女――自らの主の顔へと視線を移した。すうすうと穏やかな寝息を立ててはいるが、閉じられた目蓋の周りは赤く、腫れぼったくなっている。
 なにせ、上着の紫が彼女の顔の大きさよりも広く、色を深くしてしまうほどに泣いたのだ。無理もないだろう。先刻までの嵐のような騒動のことを思って、長谷部は息を吐いた。ため息というには長く、深呼吸というには短いものだった。

 ――まさか、あれほどまでとは思わなかった。

 今の寝顔からは想像もつかぬほど惨憺たる彼女の面持ちを脳裏に描きながら、心の中で呟く。
 近侍としてこの主に仕えることを許されてから此の方、あそこまで取り乱す彼女の姿は、未だかつて目にしたことがなかったのだ。
 痛ましくほろほろと涙を流す姿、とだけ言えば、それはもう数え切れぬほどに見てきたと言える。そうした彼女を慰め、宥め、時には涙の原因となった事象を解決することが、近侍である己の役目であったと言ってもいい。されど、それは彼女の涕涙の因子が自分の外のものに対していたからであって、今日のようなことが原因となると、さすがの長谷部も普段通りに役目を果たすことはできないのであった。

「……長谷部。どうせ此処にいるのでしょう?」

 自分の膝に頭を置き眠りこける少女の髪を撫でていると、部屋の外からいやに聞き慣れた声が長谷部を呼んだ。慇懃無礼な口ぶりと、男にしては高く上擦った声色。宗三左文字だ。障子に浮かび上がった人影を確認することもなく、長谷部は忌々しげに返事をする。

「入れ」

 ここで追い返したくとも、宗三がそれを聞き入れないであろうことは、試さずとも分かっていた。元よりこちらの言うことをまともに聞かぬ男ではあるが、今日は尚更だろう。己がこうして夜更けまで――上着の袖を握られている、というのを言い訳に――主から離れぬように、彼もまた主の傍にいたいと願ったに違いない。普段ならば自分以外の刀剣が夜更けに主の部屋に踏み入れることなど、言語道断、論外の話ではあったが、今日に限って、彼に限ってはそれを許してやってもいいという気持ちがあった。
 風が入らぬようにと隙間なく閉じていた障子がすらりと開いて、そこから細面の男が顔を出す。相変わらず澄ましたいけ好かない表情をしている。彼は摺り足で部屋の中へと踏み入れると、障子に向かって座している長谷部を見、その真正面よりやや右よりに腰を据えた。自身の主の頭に近い側を選んだのだろう。
 不躾なほどにじろじろと彼女の顔を眺め、宗三は何を思ったか、愉快そうに口の端を持ち上げる。

「随分と、泣いたそうじゃないですか」
「……ああ」
「本丸が地割れを起こすほどの轟音だったと聞きましたが」
「誰だ、そんなことを抜かしたのは……だが、まあ、あながち間違いではない」
「三日月ですよ。あれは本丸はじまっての珍事だったと」

 笑いを存分に含ませた声音で、宗三が言う。
 流れるような動作で少女へと手を伸ばすと、長谷部が止めるまもなく、彼の細い指が頬に残った涙の跡をなぞった。

「僕も見ておきたかったのですが……残念ですね。あいにく遠征とは」
「お前がいなくて何よりだ」
「出くわしていれば、あれこれと遊べたものですが」
「……あれ以上の惨事を引き起こされてたまるか」

 じろりとねめつければ、やれやれと言ったように肩をすくめる宗三。
 吐き捨てた言葉は長谷部の本心からのものであったが、滲ませた感情は苛立ちのなかに僅かな安堵があった。
 あの場に宗三がいなくてよかったと心底思う日など、今日をおいて他にはないだろう。
 泣きじゃくる彼女を宗三がただからかう分には、まだいい。それは自分が諫めれば済む話だ。しかしあの場に宗三がいることで、彼女の嗚咽がより酷いものになることは、想像に難くなかった。彼女の今日の惨事は、長谷部を理由にしたものであれば、また、宗三を理由にしたものでもあったからだ。

「あの時の主は、まるで幼子のようだった」

 長谷部は言う。優しく彼女の髪を撫でる手つきは、そのままに。

「幼子、ですか。さしずめ玩具を買ってもらいたいと強請る子供ですかね」
「それほど可愛いものではない」
「おや。長谷部は主が可愛くない、と」
「言葉の綾だ。真に受けるな」
「まさか。からかっただけですよ」

 人を食ったような物言いに沸き立つ頭を、深呼吸でどうにかやり過ごす。声を荒げることは簡単だが、それで万が一膝の上の主を起こしてしまうことがあってはならない。平静を保ちつつ、長谷部は続ける。

「……行くな、と言われた。何度も何度も。……行かなければならない、とも」
「矛盾していますね」
「主とて、それは承知だろう。承知の上で、そう仰った」

 目を閉じれば、先刻までの彼女の悲痛な叫びがありありと鼓膜の内で響いた。

 ――お願いだから、行かないで。私のことは気にせずに、どうか行ってきて。

 宗三の言う通り、どうしようもないほどに矛盾した言葉だ。それでいて、どちらも彼女の心からの声である。だからこそ長谷部には、長谷部にだけはどうすることもできなかった。
 慰めることも、宥めることも。まして、その涙の原因を排除すること、なんて。

「……この人は、自分の感情に嫌になるほど正直ですから」
「ああ。だが、それが主のいいところだろう」
「はいはい」
「なんだ、その言い草は」
「別に、ただの相槌でしょう」

 視線を少しも合わせることなく、向かいの男は言い放つ。飄々とした様子ではあるが、細身の身体の内側に隠された感情が、きっと自分のそれとそう遠いものではないことが、長谷部には感じられた。
 曲がりなりにも過去も今も同じ主を有し、それなりの時間を共にした存在である。長谷部が察したように、宗三もまた彼の内情を汲み取っているのだろう。彼のお得意の皮肉も、今日に限ってはあっさりとしている。ついと顔を上げて伺った、左右で色の違う垂れた目も、いつになく穏やかな色を宿していた。その視線の先は、言わずもがな眠る少女へと向けられている。

 ――存外、この男もやさしい表情をするものだ。

 思ってから、らしくないなと長谷部は首を横に振った。昼間に慣れぬ騒動があったこともあって、今日はどうにも調子が悪い。こんな状態で、自分は無事に旅立つことができるのだろうか。淡い不安が胸をよぎる。
 そうした長谷部の心中を知ってか知らずか、宗三が口を開く。

「……まさか、早々に貴方が行くとは思いもしませんでしたよ」

 少女からこちらへと向けた、青と緑の瞳と目が合った。皮肉でも何でもなく、率直に述べられた言葉に虚を突かれ、長谷部は目を丸くする。

「それは俺の台詞だ。まさか、お前が行くとは思わなかった」

 表面上は違って見えることの方が多い相手だが、どこか内面で通ずるものはあるのだろう。投げかけられた言葉をそのままに宗三へと返すと、目の前の男はまた愉快そうに口の端を吊り上げる。

「貴方のことですから、主から離れたくないと駄々をこねると思っていましたよ。それこそ、幼子のように」
「お前のことだから、籠の鳥は外に出るものではないやら何やら、屁理屈をこねて本丸に居座ると思っていたんだがな」
「僕は貴方のように、融通が利かない頑固者ではありませんから。彼女に初めて鍛刀された身として、本丸に多少の助力はするつもりですよ」
「俺はお前のような、ひねくれ者ではないからな。この本丸の――主の唯一の近侍として、この方のお役に立つ努力を惜しまないだけだ」
「……唯一の近侍、とは思い上がりもいいところですね」
「……初めて鍛刀された、というだけでとんだ自信だな」

 度重なる憎まれ口の応酬は、半分冗談、半分本気の挨拶のようなものだ。必ずしも本気ではないが、かといってまるきり嘘でもない。それを互いに知っているからこそ、できるやり取りなのだ。
 同じ時代にあり、同じ主を持ち、同じ時に己の研鑽のための旅立ちを定め。この本丸に呼ばれ、何よりの指標とするところは――自身の居場所と定めるところは、今、ここで眠りについている、この少女ひとりだけで。
 同胞などと生ぬるい言葉で呼んでやる気はさらさらないが、それなりに因縁めいたものを感じないわけではない。

「長谷部。貴方の不在時の近侍はどうするんです」
「……不本意だが、初期刀のあれに引き継いだ。あれはお前よりも先に本丸に来た刀だからな」
「ああ。貴方よりも最初に、近侍に任命された刀ですからね。僕の不在時も彼に頼みましょう」
「減らず口を………ああ、主、起こしてしまいましたか。申し訳ありません」

 ぎゅ、と己の上着の裾を引っ張る力を認め、長谷部は自身の膝の上へと目を落とす。それまでの口ぶりとはまるで違う甘やかな声に、宗三が鼻で笑うのが耳に入ったが、そこはあえて気付かないふりをした。
 ゆるゆると瞬きを繰り返す少女の瞳は、未だまどろみを彷徨っているようで、焦点は定まらない。「主、」と呼びかける長谷部の声も、しかと聞こえているのか、否か。彼の上着を掴んでいるのと異なる方の手は、ぶらりと宙に投げ出されたかと思うと、彼の向かいに座す宗三を目がけて落ちてゆく。重力に逆らうことのないそれは、ぼす、と鈍い音を響かせると、宗三の膝に落ち着き、格子模様の袈裟の端を掴んだ。

「……はあ。まったくうちの主は、寝ぎたないんですから」

 そう言ってため息を吐きはするものの、彼女の手を無理に外すことはしない。むしろその小さな手に自分のそれを重ね、宗三はゆるやかに手の甲を撫でた。

 ――行かないでほしい。行ってほしい。

 胸に抱えた相反する気持ちを一時忘れて、再び眠りの海に沈んでゆく少女にそっと微笑みを向ける。その様子に一瞥をくれ、長谷部は自らの手の中にある彼女の額に、そっと口付けた。
 明日になれば、自分を捕らえているこの手を、解かなければならないかもしれない。政府の使いの管狐を通して主に申し入れてしまえば、後は彼女の承諾を待つだけだ。一度でも彼女が頷けば、自分はこの本丸を発つことになるだろう。彼女の視点で言えばたった4日。こちらからしてみれば、いつ終えられるのかも分からない旅へと向けて。
 それは目の前にいるこの宗三とて、同じことだ。皮肉屋で、自らを籠の鳥と称したこの男も、もしかしたら、明日になれば本丸を出ることになるかもしれない。どちらが先に本丸から――この少女から離れることになるかは、明日になってみなければ分からないのだが。
 もしかしたら、明日ではないかもしれない。けれど、遠くない未来に自分は、宗三は、一度ここを発つだろう。自分のために。ひいては主のために。

「――主。行って参ります」
「まだ貴方が先に行くと決まったわけではないでしょう」
「自分が先に行けると思っているのか? 自意識過剰も甚だしいな」
「その言葉、そっくりそのまま返しますよ」

 相変わらずの憎まれ口に少し頬を緩めながら、膝の上に広がる人肌の温かさに、長谷部は小さく息を吐いた。
 つきりと痛む心は、何も少女への憐憫や、不安や、焦心だけではない。痛みを乗り越えた先には、主や自分の未来が必ずあるはずなのだ。より長く、深く、主の傍にいられる自身があるために。その小さな身体の隣に、寄り添うことのできる自信を得るために。

 だからこれはきっと、必要な痛みなのだろう。



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