彼が二人いた。本物の彼と、水面に映る彼。翼を動かす度に波紋が広がり私の足先までたどり着いた。先の方の羽が水に浸かる。月が歪み、また丸みを取り戻し、歪む。それを見て面白がっているようだった。
「そんなところで何をしているんだ?」 「月を見ているんだよ」 「それなら空にだってあるだろ?」 「反射しても綺麗なんだ」
彼はこちらまで飛んできて、私の手を引いた。細いくせに力は思いのほか強いので、私は水に足を突っ込んでしまいそうになった。
「ちょっと待ってくれ。私はあなたの様に空は飛べない」 「今なら水の上を歩けるはずだよ」 「本当か?」 「本当だ。特別な、装備だ」
片方の靴の裏側を水面につける。ひちゃと音がした。そのままもう一方の足を前に出すと体がぐらりと揺れ、足首まで沈んでしまった。彼のことを信じた自分が馬鹿だった。今までだって何度か騙されていたじゃないか! すると彼が手を引き、笑いながら腰に腕を回した。
「あなたは、意地が悪い!」 「そうか?」
困ったな。これでも一応大天使なんだが。苦笑しながら彼は羽ばたき上へ上へと飛んでいく。端から端までが少しずつ狭くなっていった。大きな湖が一望できるところまで来ると立ち泳ぎ、ではなく立ち飛びをした。初めは雨粒一つだった。それが今では月さえ飲み込んでしまえそうなほど。人間はそれらを壮大な括りで自然と呼んだ。自然とは神が作ったものである。人間もそうだ。しかし人間から生まれたのは自然ではないもの。堕天した天使が知恵を授けてしまったからだろうか。どちらにせよ美しいものは美しいらしい。不自然を身に纏う、彼が言うには。
「君は、羽を欲したことがあるか?」 「ないな、一度も」 「空を飛ぶことで素晴らしく感じられるものが沢山だ。それでも?」 「確かに湖が綺麗だ……
他には?」 「そうだな……風の匂い、雨の強さ、暖かい日差しとか」 「まだ、ない」 「まだ、というのは?」 「確かに翼は魅力的だ。いつか欲しくなるかもしれないから」 「じゃあ……私がいらなくなったら、あげるよ」
それはちょっと違う……と口ごもると、人間はいつだって欲張りだよ、と彼は言った。欲しいものを欲しいと言ったら、誰かがそれを先に掠めとってしまうかもしれない。だから隠したくて仕方がないんだ。
「その証拠に君は今、タオルと毛布を欲しがっている」 「よくわかったね」 「私は先にとったりしないよ」 「欲しいのはそれだけじゃないって、あなたも気づいてると思ったんだけどな」
こんなに近いけれど、誰かにとられてしまうかもしれない。ね、と見上げると彼の頬は火で照らしたようになった。ほら、天使だって欲張りだ。
本当は欲しいよ
20101206
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