昔から、すぐに手を出すのは静雄の方だったが主導権を掴むために挑発してくるのは臨也だった。しかしこの日は最後の最後まで何も壊さないように努めた。臨也が笑うのをやめないから、気恥ずかしさやら何やらで帰ってしまったけれど。男は唇を噛み、笑っている臨也から目をそらしていた。臨也の頬に一本流れていた水。それが瞳に吸い込まれていった。今ならわかるかもしれない。笑いすぎて、と本人は言ったが、そこにいる二人ともお互いを前にすると特に素直ではなかった。行動や理由なんて、今感じたものと昔思っていたものでは違う。男はカップの持ち手を握りカタカタと揺らしていた。そのカップに口をつけると、紅茶のかさが少し増す。あんときは臨也にムカついて、カップを割らないようにしてたらああなっちまったんだっけ。あいつがちゃかすから。
 「シズちゃんが俺にそんなことを言うなんて、面白いね、とても興味をそそられる。言うまでに頭の中でどれほどの葛藤があったかを思うとたまらないんだけど。あぁ、お腹痛い」そうだ。臨也は嫌な言い方をする。東京で培った情報屋だとか、人から寄せられた悪意、好意を一度全て捨てて外国に行く。本業であるファイナンシャルプランナーの勉強をするために世界の経済や色々な国の情勢を自分の目で見て学ぶ、と臨也は言った。静雄には情報屋という仕事が臨也を縛っているように見えていた。好きなように飛び回っているようで出口を塞がれていることに気づいていない。……気づいていたのか、あいつは。囲われている中でしなければならないこと、やってはいけないこと、それらをかいくぐって自分がしたいこと。その三つが余計自分を閉じ込めていたことに。囲いから出る。それが臨也の決断で、日本でやり残したそれらについての面倒なことを終わらせた今となっては応援するしかないだろう。静雄はそう考えた。喧嘩なら今まで散々してきた。しかし相手に肯定的な言葉を使ったのはいつだ? あの日、臨也の家まで走りながらそんなことばかり頭の中を通り過ぎていった。臨也が明日旅立つことを明かさなかった。そんなのはどうだっていい。自分が今できることは何か。それは臨也を止めることではないはずだ。はなむけに何か買っていこうとも思ったが、何がいいのか思いつかなかったからやめた。これは全部、嫌味を言われるためのことではない。
 臨也は一瞬驚いたような顔をしたかと思うとすぐに落ち着きを取り戻した。男は臨也の方を見た。「向こうでもがんばれよ」声は聞こえないし口の動きも逆だったようだが静雄には聞こえた。哄笑はおさまり、臨也は涼しげな笑みを浮かべた。けれど目の奥に揺らぎが見え隠れしている。数分前の澄んだ目は、今はどこにも存在しない。悩むくらいだったら行かなくてもよかったのではないか。しかしこの臨也を経て先ほどの臨也がある。新しい扉を開くのだ。もちろんそれに手をかけるのが臨也ではなく静雄だったとしても同じくらい、場合によってはそれ以上悩むだろう。
 これまで口を付けていた二人分のカップを臨也は手に取った。ティーポットを傾けると飲んでいた紅茶はそれに吸い込まれていく。音のない会話がいくつか交わされた。二人はしばらくそうしていた。静雄はそれを何もせず、ただ見ていた。あるとき男と臨也が立ち上がった。臨也は何か話しながらソファーの今まで男が座っていた場所を手で示す。それは歓迎しているようではなかった。できることなら静雄に会わずに日本を離れたかったのだ。静雄の言葉は単純だが臨也を動揺させるには充分の効果を発揮する。もし会うことになれば本人は意識していなくても臨也の前に立ちはだかる。静雄は最後に乗り越える壁となるのだ。何も言わず出航するのならそれでよかったのに。後ろ髪を引かれてしまうではないか。行くのをやめろと言われたら静雄のせいにしてやめてしまおうかな、そんな顔をして。
 男の呼吸が少しずつ乱れていく。走って臨也の部屋まできたのだ。男と臨也は後ろ向きに玄関へと歩いていった。臨也は男の脱いだスリッパを揃え、靴箱にしまう。ドアが自然に開いたかと思うと男は手を使わず静雄が脱いだ隣の靴を履き部屋から出た。敷居越しに話しながら、仕方ないなぁ、と臨也は自分の髪に触れそのままドアを閉めた。嬉しそうに見えたのは、静雄の勘違いか。
 どれくらいの時間が経っただろうか。開いたドアから見た外は静雄が思っている時間にしては明るかった。携帯をポケットから出し開くと午前五時を少し過ぎたところだった。静雄としては二時間くらいしか経っていないかと思ったのに、七時間も経っている。顔を上げるとすでに臨也の姿は消えている。あの二人は一体何だったのだろうか。臨也はこれを見せたくて鍵を送ったのか? 暗くなっていた携帯の画面が突然光った。着信だ。通知不可能の見知らぬ五文字が表示され、それを初めて見る静雄は不信に思いながら電話に出た。

「もしもし、平和島ですが」
「もしもし」
「……臨也か?」
「はい、折原臨也です」

 なんか、初々しいね、俺たち。臨也のその言葉に久しぶりに声を出して笑った。海外からの電話は通知不可能と画面に出ることを静雄は初めて知った。

「鍵を送ったのは、シズちゃんに頼みたいことがあって」
「なんだ?」
「ビニールの中のカップと植木鉢の破片、捨てておいてくれないかな」
「いいけど。植木、あのあとどうしたんだ?」
「紀田くんと一緒にいる女の子、いたでしょ。沙樹ちゃん。あの子が鉢を換えて育ててくれるって言って。紀田くんは嫌がったんだけどね」
「そうか、ならよかった」
「なんで? 割ったこと、申し訳ないとか思ってたの?」
「……そうかもな」
「シズちゃんらしくないね、気を遣うなんて」
「そういや、今どこにいる?」
「ロンドン」
「時差くらい考えろよ」
「ごめんごめん。けど、すぐに電話出たでしょ? 起きてたんだね」
「……面白いことがあってな」
「言ってよ。シズちゃんだけ楽しいのって、ずるい」
「聞きてぇならたまには帰って来い。息抜きも、必要だろ。あぁ……手前の部屋、朝日が綺麗に見える」

 静雄は閉まっていた白いカーテンを手で押し広げた。ビルの隙間から見えるこのまばゆさが、いつか世界中の闇なんて食べてしまう。「そんなの知ってた」電話の向こうの臨也の姿が、最後の日、静雄が出て行ったあとのものと重なった。ただ声を出さないように、弱さなんて見せないように泣いていること。それはあのときとは違っている。「一年間、よくがんばったな」って照れずに言えんのかな、なんて考える前に言葉になっていた。臨也は「帰ったら会いたい」と声を上げて泣いた。見送りに来なかったの、まだ怒ってるんだけどってそんな。来いなんて言われてなかったし、それに行ったら行ったで怒っていただろう。慰めるための語彙を持ち合わせていない静雄は困りながら「帰ってきたら、空港まで会いに行くから、泣くな」と言い、電話を片手に部屋の鍵を閉めた。九時間後にはロンドンにも日が昇る。光が広がり、街を包む。


東の火事とレイリーの関係/後編


20101018



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