一通の封筒が届いた。派手ではない、美しい外国の切手が貼られ、住所は流暢な英語で書かれていた。玄関の灯りに手紙をかざすと、薄い封筒の中に影で小さな四角が見える。ポストには夕刊も入っていたが、それは居間へと続く廊下の真ん中へダイブした。静雄が家へ帰る頃には子供なんて一人も歩いていないような時間になっていた。
 なんだよ、これ。ダイレクトメールか? それにしては手が凝ってんな……。静雄はそれの表裏を余すところなく見ようと目を細めた。送り主の名前らしきものは表記されていない。中には何が入っているのだろう。もし英語の手紙でも入っていたらどうしようか。高校卒業以来、英語には手をつけてはいない。ロシア人の友人や部下はロシア語だけでなく英語も出来るのだろうか。自分で辞書を引いてみるのもいいかもな。糊付けされている部分を指で摘んだ。ぺりっと音がする。手紙はなく、その代わりに入っていたのは鍵だった。
 それを封筒ごと握りしめ、着いた先はマンションの一室。思い浮かぶのはここしかない、と静雄は全力で走った。乱した呼吸が整うまで時間がかかる。もう一度銀色の平たい鍵が封筒の中にあることを確認した。おそらく合っているはずだ。ここには一年以上来ていなかった。息を吸って、吐いて。それだけなのにとても苦しい。年とったのかな、なんて。静雄は舌を打った。この部屋の持ち主が手紙の送り主だと予想されることも苛立ちの原因に十分含まれている。
 ドアはすんなりと開いた。何度も部屋に入ったことがあるというのに誰も住んでいないだけで違う人の家のようだ。静雄は他人行儀に靴を揃えてしまう。出て行った持ち主は、この部屋を売らなかった。また戻ってくるつもりなのだろう。維持費がかかるというのに家具や生活用品はそのままだ。フローリングの傷やカップと植木鉢の破片が入ったビニル袋も。床の上にばらまかれた土は綺麗に片付けられていた。しかしどこを見ても特に何もなかった。部屋の所有者が住んでいたころとなんら変わりはない。今までの関係を考えると手紙なんてあったほうが恐えな。そう思いながら静雄はテレビのリモコンを手に取った。普段テレビを一切見ないのは気にくわなくて壊してしまうからだった。けれど今は何も変化しないこの部屋の方が耐えられない。家は誰も使わないと死んでいくんだったか。リモコンの電源のボタンを押したがテレビは黒い画面を映したままだった。電気料金の支払いはとっくに途絶えてしまっている。
 静雄はリモコンをテーブルの上に置き立ち上がった。鍵が送られてきた理由がわからないままだったが、自分で気づけということなのか。どうせこの部屋の持ち主はまだ帰ってこないだろうし、連絡が来ないくらいだから元気にやっていることだろう。静雄は一度電話をかけようと思ったことがあった。しかしどこの国にいるのか把握できないので携帯の番号の初めの数字だけ押して諦め、そのまま「3」の上のボタンに軽く力をかけたのだった。便りのないことが一番の便りだ。今日は帰るか。封筒と鍵をポケットに突っ込む。すると部屋の持ち主である臨也が立ったまま泣いていた。なんだこれ。先ほどまで確かに部屋には誰もいなかった。それなのに。顔をくしゃくしゃにして酷い泣き顔だ。足元には手を伝って肘から落ちた小さな水滴が歪な円を作っている。静雄は気づいた。これは最後の日だ。
 喉の奥から漏れているはずの嗚咽は聞こえない。鼻をすする音も、ときどき動く唇から発せられる声も。音声がこちらとあちらの間で遮断されていて届かないようだ。しかも臨也には静雄が見えてはいないようだった。どうやらこれは制限された一方通行らしい。静雄が理解したことは、自分の行動は無とイコールで結ばれていること。臨也のいる世界と繋がってはいるけれど何をしても向こうに干渉することはできないことだった。静雄は臨也を抱き寄せたい衝動に駆られるが体温を感じようと手を取ったが、向こう側にすり抜けてしまった。空気で出来た幻だった。
 少しずつ臨也は泣き止んでいき、涙の粒が一つずつ瞳に戻っていった。顔を拭うのをやめた臨也がソファーに座る。空気を吸うたびに肩を上下させていたのだがその回数と振れ幅が減っていく。誰かの名前を呼ぼうとしたのだろうか、口を動かしたのだが呼ばずに閉じた。しばらくして玄関のドアが開いて閉まる音がした。白いシャツに黒いベストを着た蝶ネクタイの男が後ろ向きに歩いてきた。それは静雄の姿をしていた。つまりは過去の静雄ということだ。上手いことできてるんだな。さながら立体的な映画の観客だ。けれど新しい出来事から徐々に巻き戻っていく。
 臨也の前に倒れていた観葉植物が倒れている状態から飛び上がる。折れた枝は繋がった。鉢の破片と散らばっていた土が床で一つに集まり、固まる。それを空中でキャッチして置いた男の頬は赤い。目には薄く涙の膜が張っていた。床の凹みがいつの間にか元に戻っている。男がソファーに座り、腕を広げた。すると床に散らばった陶器のかけらが二カ所でカップ、もう一カ所でポットの形を作った。外側に広げた手を内側に戻す動きと共にテーブルの上にそれらが乗った。
 臨也が外国に行くことを知ったのは旅立つ前日だった。しかも本人ではなく門田から聞かされた。休日、偶然会い、明日の見送り行くか? と聞かれた。初めは何のことだかわからなかった。詳細を聞いているうちに沸々と臨也への怒りが溢れ、次に焦りが襲った。明日、だなんて、時間がない。「臨也は言いづらかったんだろ。高校に入ったときからずっと喧嘩してきたとはいえ、お前とは不思議な縁だったからな。仲が良いとか悪いとかじゃなくてさ」門田に礼を言って走った先は、あのときも今日と同じ部屋だった。


東の火事とレイリーの関係/前編


20101018



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