頬の傷から消毒液がちりちりと入りこんでくる。濡れた脱脂綿が傷にやわらかく貼りつき、剥がれ、それを数度繰り返す。静雄は少しの痛みと瑞々しい冷たさを感じながら大人しくソファーに座っていた。アルコールがすぅと引いていき、外の日差しの強さにうっすらとかいていた汗も空調のきいている部屋の中ではどこかに行ってしまった。

「痛い?」

 治療だから我慢してね、とピンセットの先の脱脂綿を離すことはせず、麦茶の入ったグラスをテーブルに置いたセルティに、ありがとう、今すごく飲みたかったんだ、と新羅は言った。その緩んだ顔に静雄は、痛かねぇよ、とぶっきらぼうに返す。不良にからまれて怪我をしただけだ。叫びながら刃物をいきなり振り回した少年はひどくおびえていた。静雄以外は何もうつっていない瞳。ぴりっとした痛みが頬に走った。切っ先はかたかたと震えながら静雄に向けられている。静雄は人の顔と名前を覚えるのが苦手だが、その顔に本当に見覚えはない。ただ何かしら静雄に関する情報をもっているようでおびえながらも狂気を秘めていた。その姿を見ていることの方が怪我をした今よりも、よほど痛かった。いつ、恨みをもたれるようなことをしたのだろうか。少年は額に汗を浮かべ歯を食いしばりこわばった体をどうにかして必死に動かそうとしている。しかし体の自由が利く静雄は、刃物でも自分が傷つかないことを知っていた。
 目を開けガーゼの貼られた手のひらを見つめる。ナイフの刃の部分を握ったはずなのに皮が少し切れ血が薄く滲んだだけだった。静雄は止めようとしたわけではなく、何かアクションを起こさせようとしただけだ。覚悟があるなら刺すくらいのことは簡単だっただろう。だが少年は驚き逃げるようにして走り去った。やはり後味はよくない。俺は化け物なのだ、という言葉が自分を見ていた少年のあの目を思いだすたびに喉のすぐそこまでこみ上げて嫌な味を残す。終わったよ、という声で意識が新羅の家に戻ってきた。ガーゼを止めているテープを触ってはがれないかと確かめる。痛くはない。痛くても言うつもりはない。けれどセルティが無茶はするなよ、と告げるので、心配かけたな、と頭をかいた。上司の癖がうつってしまったようだ。新羅は急な来客の対応をしているらしく、ごめん、ちょっと別の部屋にいるから、静雄はゆっくりしてていいよ、と慌てて奥に引っ込んでいった。

 そん……に俺……会わせ……ない人……誰? シズ……だ……りして……。

 一瞬止まった静雄はセルティが、どうしたんだ? とPDAを見せる前に立ちあがる。空気が変わったのがセルティにもわかったらしくあたふたとそちらには何もないと説明しようとするがかなわなかった。静雄がドアノブをつかむ。もしセルティに頭があったら抱えていただろう。ドアは開いたがドアノブの存在した場所にはなにもなくなっていた。静雄、待て。家が壊れる。

「あれ、シズちゃん久しぶり。その頬どうしたの? 彼女にぶたれた? あっ、今フリーだっけ。ごめんごめん」
「何しに来やがったんだ手前、帰れ」
「ひっどいなぁ、この前シズちゃんにやられたところの包帯巻き直してもらおうと思ったんだけど」
「臨也……もうちょっと来るタイミング選んでよ……」

 新羅は家が壊れる前に出て行ってくれないかな、とは言えず、二人の会話に口を挟みつつ不安を感じていた。このままここで喧嘩になられたら困るのは新羅とセルティなのだ。それに静雄は一度たがが外れたら手をつけられないし臨也は新羅たちが困る様子をおもしろがっているのだろう。わかってはいたけれど、悪趣味なやつだ。新羅がため息をつく前に静雄が口を開いた。

「帰れ」
「そっちこそもう手当てしてもらったなら帰りなよ」

 静雄はまだ冷静さを失ってはいなかった。治療をしてもらったのに新羅の家で暴れたら恩を仇で返すことになる。それは避けたいことだった。昔から怪我をすると新羅の世話になっているのは臨也も同じだが、幼いころからそうだったのは静雄の方だ。守るべき場所であり、壊されたくない、壊したくない場所でもあった。臨也の腕をつかむ。これ以上暴れるつもりはない。臨也をできるだけ動けなくするために接近戦を選んだ。しかし臨也のもう片方の手にはナイフが握られている。今朝の少年と臨也が重なるが、あの状況とは違う。切っ先は喉元に向いているが手は震えていないのだから。あの少年は静雄を自らの敵と見なしたから倒そうとした。では、臨也は静雄のことをどう思っているのか。やはり、敵、なのだろうな、と腕をつかんでいる方の手のひらの傷が、つきん、と痛む。高校のころから大嫌いと言われ、こちらも口にするたびに嫌い、になれたような気がした。臨也は他人に対して迷惑な踏み入り方で荒らしていくから守るべき人たちがいる場所にとどまることはない。嫌い、と言い暴力を振るっているうちに本当にそうなるはずだったのに。手のひらにしびれるような痛みが走る。こんなことしたくないんじゃねぇのか。じんじんと脳に声が届いた。傷が開くとそのぶん治るのが遅くなる。それはどこの傷でも同じみたいだ。

「いっ……手、離してよ。あとさぁ、早く死んでくれないかなぁ」
「手前が死ね。あぁ本当、一生顔も見たくねぇよ」

 見なきゃいいじゃん、小声でつぶやいたはずなのに実際には音にはならなくて消えてしまった言葉。つかまれた手首を見ることで臨也は静雄とかち合っていた視線を外す。これ絶対痣になってるよね、あーあ、やだなぁ、もう。胸の奥も一緒につかまれているようで、痛い。ならばと思いナイフを静雄の肌に突き立てようとしたが、静雄はいち早くそれに気づいたらしく、骨が軋んだ音がした。これ以上握られていたら臨也の腕がもたない。

「二人ともいい加減にしな! 臨也はちゃんと包帯変えたら帰るんだよ。あと静雄も手離して。うちで怪我人がでたら嫌だからね!」

 セルティはそんな新羅を見るのは久しぶりで、二人のことが嫌いだからではなく友人だと思っているからこそ怒っているのが声の強さと大きさでわかった。ここで新羅が声を張り上げなかったら確実に臨也の腕が折れていた。また新羅のことを見直した、かもしれない。仕方ねぇな、と静雄は手を離しそっぽを向いた。新羅は喧嘩を止めたことに対して文句を言う臨也をなだめながら、静雄たちといたのとは違う部屋に連れて行く。二人を同じ部屋にしてはいけないという配慮だろう。

「すまねぇ、セルティ。今日は帰るな」
『あぁ、気をつけて』

 ドアノブは弁償するから、と申し訳なさそうに付け加えた静雄を玄関先で見送る。少しおとなしくなった背中がエレベーターに吸い込まれて行くのを見ていると臨也が後ろに立っていた。じゃあね、運び屋。外は暑いはずなのにコートのポケットに片手を突っ込み、ひらひら手を振りエレベーターの方へ向かう。目元が腫れていたのは気のせいだろうか。一度下りていったエレベーターはなかなか上がってこない。セルティ、と家の中から新羅の呼ぶ声がした。戻っておいで。新羅の声は落ち着く。ここが私のいるべき場所なんだと安心する。セルティは返事のかわりに玄関のドアをやさしい音を立てて閉めた。今日の二人、なんか変じゃなかったか? 臨也が変なのはもとからだよ。でも……。静雄が外したドアノブを手で包み形をなぞりながら、いつもと何か違う、と打った画面を新羅に見せる。根拠なんて、どこにもない。感じたのはただの違和感で。

「あの二人なら暗中模索するとは思うけど……きっと大丈夫だよ」

 透き通ったグラスの中の麦茶は新羅の喉を流れていく。セルティにはその味も冷たさもわからなかった。それは、夏の偽物のような日。


後編はこちら


サマー・レプリカ・ブルー


20100702

嘘つきムドラーの神谷さんとコラボさせていただきました。前編:宮田、後編:神谷さんが担当です。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -