コーヒーには必ずミルクを入れる。ブラックでも飲めないということはないけれど味の楽しみ方は人それぞれだろう。ドリップしていたものがそろそろ飲みごろだというように香り、何台も並べたパソコンのキーボードのひとつひとつをすり抜けかたかたと動かす指に絡みつく。じわりと唾がたまるようなかぐわしい匂いが広がり、キーボードを叩く指の動きを鈍らせる。もうこんな時間か。朝起きたときからほとんど画面を見ていたからそろそろ目が疲れてきた。片隅では午後三時を表示していた。
 九十九屋の仕事はこうしてキーボードをひたすら叩くこと。池袋の案内の書籍を書くことだ。ちなみに今はチャットという仕事とは関係のないことをしていたけれど、これは九十九屋にとっては休憩ではない。街のことを知らないと本なんて書けやしない、というのが九十九屋の概念だ。つまりチャットは情報集め、仕事の一環と言える、ということ。相手は九十九屋に勝らずとも劣らない情報通で、情報の売買を生業としている者だ。二人ならチャットではなくメールや電話でやりとりをするほうが無難だとは思うけれど、九十九屋はできるだけ自分を特定できない方法を選んだ。もちろん九十九屋真一は本名とは異なる。誰も日常生活には足を踏み入れることができないよう、違う名の仮面をつけているのだ。できるだけ干渉せずに情報を集める。その方がお互い何にも縛られず自由でいられる。お前は人間と関わりすぎるんだ、と指の先で繋がっている相手に嘆くたびに何度、引きこもりなんだよお前は、と呆れられたことか。
 キッチンでマグカップを手にし、口をつけるとほろ苦さが広がった、というか苦い。ミルクを入れ忘れていたようだ。今日はついてないな。九十九屋は直接鍋からマグカップに沸かした牛乳を注ぐ。入れすぎないように要注意だ。ゆっくり、ゆっくり、とぷとぷ。思いのほか入れすぎてしまい、ときにはこういうのもいいだろうと九十九屋は開き直った。どれだけ注ごうと最後には自分で飲み干すのだ。こぼさないように少しすすってからパソコンの前に戻るとインターフォンが鳴った。すぐには出ないで椅子に座り直すとパソコンはチャットの画面のままだ。席を立つときに言うのを忘れていたようで、最後の言葉はコーヒーを注ぎに行った数分後。三時六分の「お前の家をつきとめた。一発殴りたいから誰か来たと思ったら絶対にドアを開けろよ」というものだった。暴力をふるうのは静雄だけで十分だというのに。のんびりとコーヒーを飲んでいると客人の心の間隔が狭くなってきたのがわかる。いや、始めから狭かった。インターフォンはまだ鳴りやまない。余韻をかき消すように次の音がかぶさり、それの繰り返し。とんだ災難だ、とマグカップを置きドアを開けに行く。けれど九十九屋は少しも殴られるつもりはなかった。つい先ほどまでチャットで話していたはずなのに、旧友に会うような気分で。退屈な舞台はようやく終わりを告げる。閉幕のお辞儀ははじめましての挨拶だ。


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20100619

アイリスは午前三時に眠るさまに提出させていただきました。



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