こんなの、不機嫌にもなるだろう。パイプ椅子の背中が後ろの机にあたる。かちゃかちゃと痛いくらいの金属音は椅子を勢いよく引いたせいだ。臨也はわざと大きな音を立てて座り、隣の椅子にバッグを置いた。うるさい。静雄はその一言すら発しないほどに指先に集中している。ピアノを弾いているその背中をまじまじと見た臨也は悔しくて机にほてった頬をつけた。テストのある週は吹奏楽部の活動が休みで音楽室が開いている。それを知ってピアノを弾こうと足を運ぶと音楽室から目当ての音が。先に来ていた生徒がいた。クラスメイトの静雄だった。今ではテスト前の放課後に音楽室にくることは二人とも口にはしないけれど馴染みになっている。先に来たどちらかが気が済むまで弾き、交代したもう一人も満足するまで弾くというものだったが、お互いに弾き終わるまで勉強をしながら延々と聴いているのだ。弾いていたり聴いていたりする間は相手に話しかけはしない。勉強がはかどらないことや手が止まってしまうことなんて何度もある。音は輪郭を保ちながら耳に届く。むしろ聴きたいと思い手を止めてしまうこともしばしばあった。けれど臨也は今日、その音を止めてしまいたいとさえ思うのだ。
 帰りの掃除に時間がかかり、静雄がもう先に弾いているだろうな、と臨也は階段を上っていた。上履きが金属の部分にぶつかり均一なリズムを奏でる。音楽室に近づくにつれてそこからこぼれる音が大きくなっていった。廊下を歩きながらその軽く流れるような音色に耳を傾ける。水のようだ。手で受けようとしても重ねた両手の隙間から、閉じた指の間から、染み出ていってしまう。そして手から流れたそれも落ちて底にぶつかった瞬間はじけて消えてしまう。透明だから見えなくなったのか。そうではないのだ。シンプル、いい意味でとれば飾らない。それを悪い意味では。
 静雄のピアノを初めて聴いたとき、臨也はきらきらしたものを見つけたように嬉しかった。それなりに弾ける自分より上手だとも思ったけれど、それより目を引いたのは音の表情だった。静雄が楽しいときに弾けば曲も明るくなる。ぱっと灯りがついたようにまぶしいものになる。悲しいときに弾けば冷たい雨の降るようなさめざめと泣くような曲になる。それが臨也にとっては羨ましかった。例え弾いているのが静雄だったとしても、一音一音に見つけることができた。感情という、重くどろどろしたものを。ただ、今静雄が弾いているものは違う。何もないのだ。質量やエネルギーなんか、何も。
 裏切られた気分だと言おうとした。シズちゃん、と名前を呼ぶことがかなわなかったのは静雄の後ろ姿がつらそうだったからだ。たくさんのものをぎゅうぎゅうに詰め込んでしまい、それを見せないようにわざと空っぽを装っている。そんな背中だった。馬鹿だ。つらいなら、悲しい曲でも弾けばいいのに。だって楽しい曲を弾いているはずなのに全然楽しそうじゃない。むかつく。ピアノを弾いているために明るい色の髪からときどき覗くえりあしも猫背になるところも少しだけだけど、いいなって思ってたのに。ピアノを弾いたあとはちょっとだけ優しいことに気づいてしまっていたのに。
 バッグから一枚紙を取り出した。表面がさほど重要ではないことを確認すると臨也は白い裏面にペンを走らせる。馬鹿静雄。でかでかとそう書くと紙を半分にし、折り目をまっすぐなぞる。すると紙とこすれた指が熱くなった。飛行機の翼から音符があふれるけれど気にしない。臨也はできあがったそれを指でつかむと静雄にめがけて投げようとした。違う。これでは意味がない。臨也は構えた手を机の上に置いた。なめらかに鍵盤を叩く指はまだ止まらない。紙飛行機をぶつけても静雄の抱いている感情が増すばかりだ。それなら。開けた窓に向けてすっとひじを伸ばす。同時に指を離すと飛行機はやわらかな風に乗った。窓の桟で見えなくなるけれど向こう側には確実にある。ゆっくりと地面にたどり着いてほしい、と臨也は思う。そして優しい人に拾われてほしい。きっと最後に静雄を助けられるのは臨也ではないだろう。もし自分に何かできるとするならば、手を伸ばしてこの音を受け止めることくらいだ。


君の五線譜でありたいと願う


20100518

こっそりと神谷さんに捧げます。



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