コンマ二グラム軽くなった体を背負い不安定ながらも一歩を踏み出す。限りなく朝に近い夜だった。足跡は一つだけなのに二人分の深さで砂が沈む。自分より大きい静雄の体は細身のくせに筋肉があるせいで馬鹿みたいに負担がかかっていた。けれど生きていたときよりずっと軽い。雨の降りそうな空気や塩辛い湿気を含んでいるから実際はプラスマイナスゼロくらいだけれど臨也にはとても空っぽに思われた。引きずるようにして水面の側まで寄る。周辺には街灯なんてものはなく海はひっそりとただひたすら黒に近い藍色をしていた。暗い液体は砂しか飲み込めないことを知らないかのように行ったりきたりを繰り返す。あの子が欲しい、そう波にささやかれてもまだ連れて行かれはしない。
 寒いね、すごく寒い。臨也は歩きながら後ろの返事すらすることのない静雄に話しかけた。人の魂は死んだらどこに行くのだろう。なくなってしまうのかな、まぁ考えたってわからないから無駄だけど。ひどく渇いた笑いが喉の奥から生まれる。シズちゃんが死んじゃうなんて思わなかった。だってどんなにナイフで切りつけても数ミリしか傷がつかないのに、拳銃で撃たれて簡単に死ぬなんて。苦しかったよね、まさか殺された理由が俺のことを好きになったから、だなんてふざけてるよね。臨也はそっと静雄の体を下ろし砂の上に寝かせた。指先に水を付け、かさかさになった唇をなぞる。シズちゃんが好きだなんて言わなかったら、こんなことにはならなかったんだよ。もしあのとき抱きしめなかったら、こんなことにはならなかったんだ。こわくなって、とっさに引き金をひいて。ごめん、静雄の顔に水滴が落ちる。雨はまだ降っていない。まつげの上に乗ったものが横に落ちていくそれは、静雄が流したようで。
 愛されていることに気づかないから静雄にはきっとわからない。臨也は人間を愛しているからこそ、誰かたった一人に抱きしめられるのがこわいのだ。しかも腕の中ではっとして、その一人に自分も思いを寄せていると気づいてしまう。複数で成り立つ世界に、個人が飛び込んできてしまったら、すべてがかき乱されてしまう。今までの自分はなんだったのだろうか。人間を愛することなんて必要ないじゃないか。わき腹の辺りを手で触れる。静雄の、そして自分の。固まった血液が爪の先にこびりつく。血なんていくらでも見てきたのに、今日のものは温度がない。温かくも冷たくもなんともないのだ。はがすと粉々になって風に吹かれていってしまう。
 ほんとはね、好き、だったんだよ。驚いた顔。立っていられなくて、だんだん息が細くなって、でもシズちゃ、んは、俺の名前をよんで、好き、って、言ってくれて、俺は……っ、俺も……。ごめん、ごめんね……あのとき、っ……言えなくて、ほんとに、ごめん……。シズちゃん、好きだ、よ。貼りついた金色の髪を少しかきあげ額に口づける。まぶたにも、頬にも、鼻のてっぺんにも。本当の、雨が降ったらさよならだ。舌先で唇をなめる。海の味がした。いや、これは涙の味だ。だって水は、ペットボトルの水なのだから。ゆっくりと、優しくそれに自分のものを重ねていく。今までこんなに優しくしたことあったっけ。あ、あのときシズちゃんは俺をそっと抱きしめたつもりだったのかもしれないけれど、あれはちょっと痛かったかな。今言っても遅いけど、シズちゃんは多分もうどこにもいないけど、好きって言っても聞こえないけど、言っていなかった分を今言わなかったら、もうずっと言えない気がするんだ。
 ここまで乗ってきたタクシーの運転手には悪いけれど、先に帰っていてもらおう。連絡を終え、携帯を海のできるだけ遠くに投げる。それは軽い水の音とともに消えてしまった。臨也はコートのポケットに入っていた瓶を取り出す。睡眠薬が入っているが決して死ねるような量ではない。臨也は水の入ったペットボトルのキャップを開ける。量では死ねないけれど、この場で眠りについて、潮が満ちてきたら、どうなるだろう。白い錠剤を口に含み、少しずつ水を飲む。これで終わりというのに落ち着いている。ぽつぽつと雨が顔に落ちた。泣いているのは自分だけじゃないみたいだ。シズちゃん、ごめんね、もう嫌いだなんて言わないから。好きだよ。ごめんね。そして臨也は左手の指を静雄の右手の指に組ませた。これからは離れないように。

「シズちゃんって花いちもんめやったことある? 手つないで、じゃんけんで負けた子が勝った子のグループに行って、最後に人数の少ない方が負けの。あっ、名前呼ばれたことないでしょ」
「そういう手前はどうなんだよ。ないだろ」
「あるよ。実は友だち多かったから。シズちゃん、小さいころからこわがられてそうだねぇ。友だちいなかったんじゃない?」

 ごめんね、あれも嘘だよ。花いちもんめなんてやったことないんだ。意識が少しずつ薄くなる。では、あの子が欲しい、と臨也を呼ぶ声は誰のものだろう。まぶたがゆっくりと重くなっていく。もう目を開けていられない。手を離すまいとぎゅうと強く握る。好き、その言葉を今なら言える。


満ちる


20100511



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