(転生)




 時計の針が12時を過ぎ、午前の授業も終わりに近づく中。女子生徒の楽しそうな笑い声とあまいにおいが調理室から廊下に広がった。甘く食欲をそそるにおいに、男しかいない教室は少しざわつく。そんな中で、黒木庄左ヱ門は興味なさげに小さくため息をついた。単純というかなんというか。
 本日四限目の授業は女子は調理実習で、定番のクッキーを作るというものだった。楽しそうにエプロンを持って教室を出て行く彼女たちと別れたのは数時間前のことだ。女子だけの調理実習で、作るものはお菓子とくれば年頃の男子生徒が大人しくしているはずもなく。あまい香りに浮き足立った一部の男子がざわつき始めるのに時間はかからなかった。
 誰から貰いたい、誰がくれると思う?彼女たちの作った甘さただようクッキーを狙う目はまるでハイエナのようで、庄左ヱ門と乱太郎は苦笑を浮かべて顔を見合わせた。どちらもそういった騒ぎに食いつくタイプではないのだ。因みに男子の授業は粘土である。土臭いことこの上ない。


「なあなあ庄ちゃん、乱太郎。帰りに調理実習室よっていかない?」
「団蔵、貰えるあてなんかあるの」
「心当たりは全くないけどもらえる自信はあるよ!」
「ああ、馬鹿なんだね」
「し、庄ちゃん……」


 哀れみの目を向ける庄左ヱ門を乱太郎が止めるが、当の本人は全く理解していなかった。きりまるあたりくれるってー。団蔵はけらけら笑うが、あのドケチのきり丸が物をくれるわけがないだろうに。もらえて乱太郎としんべヱと土井先生ぐらいだろう。やはり馬鹿である。
団蔵と虎若の誘いを二人は丁重にお断りをした。庄左ヱ門は貰いたくなくともきっと渡しに来る女子は沢山居るし(さすがは文武両道な学級委員長というところか)、乱太郎も自滅はしたくない。ある意味賢い判断だろう。
そわそわと廊下を見る団蔵は、授業の残り時間が5分になったところで突然立ち上がった。どうした。大体の流れを見ていた土井が呆れた口調で問うと、団蔵は腹をおさえて頭痛が痛いので保健室にいってきますと土井先生の制止も聞かずに廊下へ飛び出した。日本語がおかしければおさえる箇所も違う。頭痛ならおさえるべきは頭であったはずだろう。


「あーあ……団蔵、あとで教務室でお説教コースだねえ」
「土井先生も可哀想に。そんなに欲しがるものかな、クッキーなんて」
「……甘いの苦手なのに」


 はあ、と小さくため息を吐く庄左ヱ門の隣で乱太郎は苦笑し、その隣に居た金吾も顔を顰めて小さく頷く。庄左ヱ門同様、女子生徒から人気のある金吾は異性が苦手であり、こういう行事には弱かった。庄ちゃんも金吾も自分から行かなくても貰えるからそういう事が言えるんだよ。苦笑交じりに言う乱太郎の言葉に庄左ヱ門と金吾は眉を顰めるだけだった。
 そして授業の終わりの鐘が鳴る。団蔵を追いかけに行った土井の代わりに庄左ヱ門が終わりを告げた。土井が帰ってこないので庄左ヱ門が片付けを仕切り、粘土で汚れた手を洗って戻る頃には美術教室には乱太郎としんべヱだけだった。


「庄左ヱ門、おつかれぇ」
「もうみんな教室出た?」
「うん。あとは僕たちだけだよ。団蔵の荷物は虎若が持っていったし」
「そっか。後は僕がやっておくから、乱太郎としんべヱはお昼行っても大丈夫だよ」


 庄左ヱ門の言葉に、じゃあ先に行ってるねと乱太郎はしんべヱに手を引かれて二人は美術室からいなくなった。嬉々として乱太郎の手を引くしんべヱはきっと誰よりも先に教室から出て学食に行きたかっただろうに、手伝ってもらって悪いことをしたなあと思う。それでも我慢して手伝ってくれる優しい彼らが庄左ヱ門は好きだった。昔から、彼らは優しいままだ。
 さて土井先生が戻ってくるのを待つか、このままにしておくか、どうしようかな。美術室の鍵をくるくると回して教室を見渡す。片付けも終了してやることはない。いい加減腹も減ったし、鍵は置いておくだけでいいだろうか。ううんと悩んでいると、廊下からばたばたと足音が聞こえてきた。
土井か団蔵が戻ってきたのだろうか。廊下に顔を出すと、見慣れた青みがかった髪の少女が目に入った。


「っ、え!?」
「……彦四郎?」
「な、んで、庄左……っ」


 走って教室へ飛び込んできたのは、同じ委員会に所属する今福彦四郎だった。美術室から出てきた庄左ヱ門に彦四郎は目を見開く。まさか誰かがいるとは思わなかったらしい。
どうしてここに。言い終わる前にすぐ後ろの階段からぱたぱたと軽やかな足音が聞こえ、彦四郎は青褪めて後ろを振り返る。美術室へ入るときょろきょろと周りを見渡し、教卓の中に隠れた。彦四郎の行動に庄左ヱ門は眉を寄せて、自らも教卓へ向かう。
スカートの裾をおさえて膝を立て、教卓の下にすっぽり隠れる彦四郎を見下ろす。


「……なんでそんなにボロボロなの、彦」
「つ、鶴町から逃げてて」
「伏木蔵から?なんで」
「あ…ぇ、と……その……」
「……」
「……」


 視線を泳がせ、いつも以上にはっきりとしない彦四郎に更に眉を寄せる。どうして昼休み早々、彼女は伏木蔵がら逃げているのか。そもそも何故伏木蔵が彦四郎を追いかけているのか。
 妙な沈黙が流れる中、ぺたぺたとゆっくり美術室に近付いてくる足音が聞こえた。うわ、と彦四郎は小さく声を上げて頭を抑えて更に丸くなる。足音だけで誰かわかるなんで、どれだけだよ。呆れかそれとも他のなにかで胸が焼けるような思いがこみ上げてきて、庄左ヱ門はまたため息をつく。
 ひょこりと廊下から顔を出したのは今話題の張本人、伏木蔵であった。伏木蔵はきょろきょろと美術室を見渡し、庄左ヱ門の姿を見るとにんまりと笑みを浮かべる。


「あ、庄左ヱ門。今福見なかったぁ?」
「……伏木蔵、今度は彦になにしたの」
「なんにもしてないよぅ、人聞き悪いなあ。ただ、クッキー頂戴って、いっただけ」


 そしたら嫌だって言われたから追いかけてるのぉ。にこにこと楽しそうに言う伏木蔵に、教卓に隠れている彦四郎はぶんぶんと首を振った。頂戴、なんて可愛いねだり方じゃあなかった、あれは。脅迫にも近い。
 なんとなくに事情を察した庄左ヱ門は(さすが、あのは組をまとめるだけのことはある)、ここに彦四郎はいないよと言って体を少し教卓に寄せた。ふうんと目を細める伏木蔵は果たして庄左ヱ門の言葉を信じているのかいないのか。腹の読めないところはお互い様であるが、彦四郎としては二人とも腹の読めない奴であり、もしかして状況が悪化しただけなのではと心臓が止まりそうだった。
失敗した。これなら教室に戻るか、保健室に避難して三反田先輩なり新野先生なりに助けを求めればよかった。いやしかし考えてもみろ、保健室はいわば伏木蔵のテリトリーだ。それではむしろ鍋の中に鴨が葱を背負って向かうようなものだったのではないか。ではここに来たのが正解だったのか、だって庄左ヱ門がいるなんて思わなかったし。
 完全に混乱して頭を抱える彦四郎に庄左ヱ門は心の中で舌打ちをする。これが優秀とうたわれる組の学級委員長でいいものか。委員長云々を抜きにしても、隙だらけでいけない。だから大変なんだ。


「教室に戻ったんじゃない?」
「そうかなあ、こっちに来たと思ったんだけど」
「すぐ横が渡り廊下だからね、そこを渡って教室に戻ったんでしょ、きっと。もういいでしょう、ここ、閉めなきゃいけないんだ」


 にっこりと人のいい笑みを浮かべるが、暗に出て行ってくれないかと言っているようなものだった。負けじとにんまり笑う伏木蔵に、教室の温度が何度か下がった気がした。彦四郎は青褪めて、ぶるりと体をふるわせる。はちやせんぱい、おはませんぱい、たすけてください。今ほど傍迷惑な先輩たちに助けを求めたことなどないだろう。先輩でなくてもいい、左吉でも伝七でも一平でも誰でもいいから、この場から助け出して欲しい。
どうして調理実習で作ったクッキーひとつで貴重な昼休みを潰された挙句、雪の降る外よりも冷たい空気を屋内で味わわなければいけないのか。
 庄左ヱ門の牽制に物怖じとせず、伏木蔵は一歩、美術室へ足を踏み入れる。と、同時に、伏木蔵の襟首がぐっと引かれた。


「こっの、鶴町!お前こんなところにいたのかっ」
「ぐえ、ええ、さこんせんぱいー?」
「お前っ、今日の、昼休みは、保健室当番だろうがっ!」


 目を釣り上げて息を切らす川西左近は、伏木蔵の襟首を掴んだまま怒鳴った。汗もかいているところを見ると、どうやら学校中を走り回って伏木蔵を探していたらしい。自ら走り回らなくとも、校内放送ぐらいは使わせてもらえたんじゃあ、とは思うが、多分気付かなかったのだろう。不運というか、先輩ながら間抜けである。彦四郎といい、どうしてい組はこうなのだろうか。呆れてため息ももう出ない。
なかなか来ないから、新野先生が困っていただろう!左近はもう一度怒鳴ると、抵抗する伏木蔵の襟首を掴んだまま廊下へ引きずっていった。抵抗といってもみたまんま通りのひ弱な伏木蔵の抵抗などあってないようなものだろうが。
教室から消えていく間際に伏木蔵は庄左ヱ門に、べえ、と舌を出した。ああ、やっぱり。気付いていたか。
 二人が出て行ったことを確認すると、庄左ヱ門は教卓に丸くなったままの彦四郎と同じ目線になるようにしゃがむ。突然至近距離に近付いてきたことに驚いて、彦四郎はひえ、と可愛げのない声をあげて後ずさった。だがしかし後ずさったところで教卓の中なのですぐ後ろは板であり、ごつんと頭をぶつけて頭をおさえる。阿呆だ。


「いっ、いた…!」
「本当に、お前ってなんでそう……まあいいや、伏木蔵、行ったよ」


 立てた膝に腕を立て、顎に手を乗せて言う。彦四郎は素直に礼を言うのが癪なのだろう(他の人間に対してならまだしも、庄左ヱ門となれば更にだ)、あーうーと何度か口ごもったあとに見上げて、ありがとうと口にした。成り行きにしろなんにしろ、かくまってくれたのに違いはない。
 素直に感謝を口にしてきたことに少なからず驚きつつ、庄左ヱ門としてはどちらかといえば立てた膝をどうにかしてほしかった。もう男子ではないのだから、女子生徒の制服で膝を立てればどうなるかわからないわけではなかろうに。要するに、庄左ヱ門の位置からばっちりと見えているのだ。目線を合わせるためにしゃがんだので尚更。なにがとは無粋なので言いはしないが。
 どうにも真っ直ぐと彼女を見るのは気まずく、かといって教えてやるほど庄左ヱ門は彦四郎に優しくはなかった。とりあえず不自然にならないように目線を逸らした。冷静だなんだと言われても一応思春期真っ盛りな男子高校生なのだ。というか、下にスパッツぐらい履け、ばか。


「庄左?どうした?」
「ん、なんでも、ない」
「え、でも、かおが」
「……彦が、そんなに食い意地がはってるとは思わなかったよ」
「はあ?」


 少し強引に話題を逸らし、立ち上がると彦四郎も同じように立ち上がった。小さく息をつく庄左ヱ門の心中などきっと彼女は気付いてはいないのだろう。いい加減、自分が女性であるという自覚をもってほしいものである。


「……そんなに伏木蔵に渡したくなかったの、クッキー」
「え、あ、いや、そういうわけじゃ……ん?そういうことなのか?」
「意地汚いというかなんというか。お菓子が大好きなのは知っていたけどそこまでとはね」
「なっ、誰が意地汚いだ!」


 本日何度目かのため息をついて彦四郎を見遣る。そういいつつも、もし彼女の手作り菓子が伏木蔵の手に渡っていたらそれはそれで面白くないので八つ当たりしていただろう。勿論彦四郎自身に。全くもって報われない。
ああそれとも、他に誰か渡したい相手でもいたのかな。彦四郎が慕っている鉢屋や尾浜を想像して余計に胸が焼ける思いがした。そっちの方が、伏木蔵にとられるより数百倍腹が立つ。


「別に、自分で食べたいからとかそういう、わけじゃ、なくて……う」
「なに?」


 彦四郎は数回視線を彷徨わせて言いよどむと、ぐいっと庄左ヱ門の目の前にクッキーの包みを突き出した。鼻先にバニラエッセンスのかおりがただよい、思わず眉を顰める。何度も言うが、甘いものは苦手なのだ。それは彼女も知っているだろうに。
まるで赤く熟れた林檎のように耳まで染めて、彦四郎は庄左ヱ門を見上げたまま捲し上げるように告げた。


「し、失敗、したし、食べないし、だから、その……庄左に、やる」
「え」
「いらなかったら福富にでも鉢屋先輩にでも尾浜先輩にでも、渡してもいいから、その、とりあえず、お前にやる!」


 そう叫ぶと、庄左ヱ門の前にクッキーの包みを置いていつもの鈍くささはどこへいったのか、猛スピードで彦四郎は美術室から去っていった。庄左ヱ門は珍しく呆けて、包みを手にして首を傾げた。なにがどういうことなのか。甘いの苦手って知っているし、なんで伏木蔵に渡せなくて僕に。
クエスチョンマークの消えない学級委員長の真上から、しょうちゃんったらどーんかーん、と、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、黒く長い髪をポニーテールにしている猫目の少女が扉からひょっこりと顔を出してそれはもう、至極愉快そうな笑みをうかべていた。


「よお、ご機嫌ですかね、庄ちゃん」
「……きり丸、いつからいたの」
「わりと初期の段階から」


 けらけらと八重歯を見せて楽しそうに笑うきり丸をじろりと睨む。教室の戸は開きっぱなしで、この棟は昼休みは人通りが少ない。会話も丸聞こえだったというわけだ。気付かなかったとは、とんだ失態だ。そう睨むなって。にやける口に手をあてて、いい事教えてあげようかぁ?ときり丸は八重歯を光らせた。
普段は冷静沈着な学級委員長の珍しい一面が見れて随分と楽しそうである。


「これチーズのクッキーなんだぜ、しょうちゃん」
「チーズ?」


 あのさ、男子はよく知らないんだろうけど、チーズ使うと甘さ控えめになんの。
にやにやと笑いながらきり丸は庄左ヱ門の手の中のクッキーを指差した。甘いものに目がないあの彦四郎が、甘さをおさえて作って。伏木蔵から追い掛け回されようと死守して、最後に耳まで赤く染めて渡してきたのは。ぜんぶ。はじめから渡す相手が決まっていたからだったのか。
 納得してしまえば、胸につっかえていたなにかもすとんと落ちて。今度はなんだかいたたまれないやらなんやらで、頬がかっと熱くなった。庄ちゃんったら顔真っ赤、めずらしー。笑って顔を覗き込んできたきり丸にいらっときて、容赦ないチョップを食らわす。いたいー!と半泣きのきり丸を置いて、庄左ヱ門は早足で美術室を後にした。

 これは、やられた。
たまに無意識に不意をついてきてこちらのペースを乱すから困るのだ。いつもはこちらが優勢であるはずなのに、たまの不意打ちに腹が立った。腹が立って、それでも。だからこそ。やめられないんだろうなと、可愛らしく包まれたクッキーの包みを口元に寄せた。


やっぱりあれは、渡せそうにないよ、伏木蔵。









お返しにケーキでも奢ろうか。
大好きな甘いものを我慢してまでくれたのだから、とびきり甘いケーキを。


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